ナウトピアのあらまし

いまから、ここから、自分から

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(Mona Caron, Market Street Railway Mural)

ナウトピアという言葉は、utopia now 「今、ここにあるユートピア」を縮めたもの。言葉で説得することをはじめ、力ある人に訴えたりなど様々な手続きを介するのではなく、直接行動することで、社会を変えようとするやり方です。権力者へのプロテスト、非難、嘆願によって社会を変えようという発想はほとんどとらない。彼らに関心があるのは、「~反対!」よりも、「では、どうすればいいか」、対案を示すことです。しかもそれを言葉で説得するより、直接行動で示し、実例を呈示することを好みます。あれこれ考えたり、議論したり、説得したりする暇があったら、行動しようというわけです。たとえば、地球温暖化防止のために緑を増やすべきだ・・・などという暇があったら、一本でも多く木を植える。

地球温暖化や食の安全性の問題について、みんなを説得するのも大切だけど、何はともあれ、コミュニティ共有のガーデンをつくって、食べ物を育てる苦労やよろこびを共にしてみようよというのも、ナウトピアン的な方法です。

そんな風にして、自分たちが提唱するこの「別の世界」が具体的にどんなものか、実際にそれができるかどうか、機能するかどうかを、実地検証するわけです。

車が多くて、問題山積。便利なようで、渋滞に巻き込まれたり駐車場見つからなくて帰って非効率。石油利権の争いが戦争の大きな火種の一つだし、車から出る排気ガスは地球温暖化を加速化している要因の一つ。だったら、イライラしたり、やましい良心をかかえてハンドルを取り続けるかわりに、とりあえず自転車に乗ってみよう。車中心の道路では、自転車は確かにマイノリティで、身の危険を感じることもしばしば。ならば、みんなで乗ればどうだろう? そうやってはじまったのが、道路をたくさんの自転車乗りで埋め尽くすことで一時的にも事実上自転車専用道路にしてしまうクリティカル・」マス。いつもは車だらけの道路が、自転車で埋め尽くされる。その光景そのものが、見たい世界の実例提示そのもの! 特別な広報活動はしなくても、ストリートや広場など、パブリックな場所でやっていれば、楽しそうな光景につられて参加する人が自然に現れます。味をしめて、次回は仲間を連れて来る。それどころか、自分の街でもやってみようと、中心になって別の場所で始める人さえ現れるかもしれない。そうやって実際、クリティカル・マスはヨーロッパ、南米中心に国境を超えて広がっていきました。

こんな風に、皆の目につくパブリックスペースで、誰でも参加できるかたちで行えば、皆に体験してもらうことで、実践を続けるだけで、運動が始まってしまいます。

似たようなナウトピアの運動に、日を決めて、1日、みんなで一斉に近所のパーキングスペースを借りて、車を停める代わりにそこに芝生やベンチを置いて即席公園、パークをつくるパーキング・ディも、(Park)ing Dayがあります。これも、名前にふくまれたダジャレはもちろん、いつもは車がズラーっと並んでいるところに、公園が並び、みんなが楽しんでいるという、未来社会を今、ここに、目で見て触れれる実例として、一挙に出現させるその光景そのもののインパクトはすさまじく、やはりすごい勢いで国境を超え広がっていきました。

ナウトピアというこの言葉は、アメリカ、サンフランシスコの郷土史家のクリス・カールソンさんの発案です。

ずばり、Nowtopia!『ナウトピア』という本を彼は書いていて、日常生活のありふれた要素をそのままパーツとして使いながら、旧い世界の只中に、新しい世界のパターンを生き生きと描いていくものばかりです。

ナウトピアというこの言葉は、アメリカ、サンフランシスコの郷土史家のクリス・カールソンさんの発案です。

ずばり、『ナウトピア』という本を彼は書いていて、そのなかには、車だらけの道路に、大勢の自転車のりが一斉に乗り出して道路を乗っ取ってしまう「クリティカル・マス」という運動だとか、街の空き地を、どんどん緑地化して、食べ物や花を植えていくゲリラ・ガーデナーの話などを紹介していました。

その例として彼があげているのは、 クリティカル・マスに代表される自転車アクティビズム、空き地をどんどん緑化するゲリラガーデナー、バイオディーゼルの普及をはかる人たち、インターネット内のオープンソース、コモンズを広げようとしているネット・アクティビストなど、旧い世界の只中に、新しい世界のパターンを生き生きと描いていく運動がたくさん紹介されていました。

パンクの美学

img_1172(サンフランシスコ ミッション・クリークのボートハウスとコミュニティ・ガーデン)

ねずみ小僧は、泥棒ですが、悪いお金持ちからしか盗みませんし、そこで盗んだものを、貧しい人にばらまきます。社会の法律に照らすと犯罪者です。でも人間的な情に照らすと正しいことをしてるって、みんな思うから、ヒーローになります。

金持ちが貧しい人たちを搾取するというのは、社会が組織的に、日々、自明のこととして行っている悪ですよね。現行の「社会の法」では合法的なことだけど、「人間的な法」から見ると、間違ってる。この2つの法がかち合うエッジに乗り出して、今の社会で当たり前、「合法的」とされてることが、人間的な法に照らすと、どんなにおかしいかをあぶり出すために、合法的にみれば犯罪ギリギリのことに手を染める。このねずみ小僧的な感覚は、アメリカではパンクの活動家によく見られます。

クリス・カールソンが『ナウトピア』で紹介していたクリティカルマスやゲリラ・ガーデニングといった活動も、この手のパンクの感覚がみなぎっています。

たとえば、車と排気ガス道路を自転車で乗っ取るクリティカル・マスのサイクリストたちは、一見乱暴なアウトローに見えます。
します。

でも、ちょっと考えてみれば、戦争の火種にもなる持続不可能なエネルギーを浪費し、大気汚染をふりまく自動車より、自分の脂肪を燃やして走る自転車の方が、クリーンで持続可能。かつ健康にもいいことは、誰でもわかりますよね。

また、都会のコンクリートジャングルの中でも、放置されていて、違法ゴミと落書きだらけの汚い場所が、ある日緑化されて花咲き乱れ、おいしい食べ物が実るガーデンに変わるとすれば、誰しも、そちらの方がいいって思いますよね。

彼の『ナウトピア』には出てきませんが、私がサンフランシスコで会ったエリック・ライルという活動家は、スクウォット、空き家の不法占拠をして、そこでホームレスのために炊き出しをしたり、コミュニティスペースとして解放したりしていました。

これも違法なことだけど、でも、家のないホームレスがたくさんストリートに住んでいる街に、空き家がたくさんある。なんでそんなに空き家があるかというと、財産運用のため、投機のチャンスがくるまで、とりあえ買いおさえておこうとする金持ちがいるから。彼らはそうやって、街の不動産が、普通の住民には誰にも買えなくなるほど高騰するのに加担しているのです。そんな背景がわかってくると、「スクウォッター、頑張れ!」とハンカチを振りたくなってしまうのが、人情というものです。

そんなふうに、誰しも「正しい」と思うことをやっては、警察に捕まり、世の中、どんなに狂ってるかをあぶりだすのが、パンクの美学です。

ポジティブな体験がおのずと持つ伝播力にうったえる

日本だって、ねずみ小僧がヒーローになる国。パンク的な素質、持ってるはずです。でも、アメリカで出会った彼らの話を私がしたり、彼らを日本に呼んで話をするたびに、参加者の感想として出るのは、アメリカではできても日本では無理だってこと。日本では「長いものに巻かれ」、「しがらみに弱く」、同調圧力下で縮こまって生きてる人がまだまだ多い。何が正しいかわかってはいても、そのために人と違うことをしたり、アウト・ローすれすれのリスクを犯す冒険をしようなんて人はなかなかいない・・・などなど、よく言われます。

その当否はともかくとして、文化差があるのは確か。それに、それは必ずしも悪いことではないって、私は思っています。

たとえば、アメリカにちょっと住めば、鋭い対決を避けて同調しようとする日本人の共感能力をとてもありがたいと思うようになる。ずいぶん物騒になってきたとはいえ、まだまだ日本の犯罪率の低さは驚異的だし、まずは同調してもらえるって期待しながら見知らぬ人と接することができるなんて、実はとても贅沢なこと。なんともいえない安心感の源になってるのも確かですから。

問題は、共感対象を選別してしまって、マジョリティや権力者、自分と似た人たちとばかり共感しようとする人が多いことかもしれません。

そういう偏りをなくして、どんなに弱い立場にいるマイノリティにたいしても、日本人特有の同調・共感能力を向けることができれば、すばらしいのではないでしょうか。

そういうわけで、私も、最初は、パンク風にヒロイックな活動が日本にはなかなかないのを嘆いたり、尻込みする人に葉っぱをかけたりしていたのですが、最近は作戦をあらためることにしました。むしろ、すでに私たちのものになってる共感能力をフル活用することにフォーカスをあてたナウトピアの展開をうながしたいなって思うようになったのです。

元祖アメリカ版のナウトピアにこの要素がないというわけではありません。力点の問題です。

たしかに、後にすべき旧い世界と、見たい世界のコントラストをきわ立てることで、効果的な運動を組織するのが、彼らは実に得意ですよね。たとえば普段は車がいる領域に、自転車や公園があるといった運動のデザインはすばらしくわかりやすい。ただそうすることで、敵(この場合は車)とヒロイックにたたかう同志同士の絆といった、攻撃性で連帯感を持つ戦闘的な要素がそこに生まれてしまいます。でもその割合を極力減らして、現にその中で行われている楽しいサイクリングやパーティの共感的な実質に焦点をずらし、その楽しさを思いっきり味わうことに集中することだってできるはず。

元祖ナウトピアにこの思想が含まれていることについて、雄弁に語るエピソードがあります。クリティカル・マスがはじまったばかりの頃の悩みは、自転車による道路占拠がうまくいって、車と自転車の力関係が逆転した瞬間、一部の自転車乗りたちが、これまで車に対して溜めこんできた敵意や怒りを爆発させることでした。今こそ報復の好機というわけです。これが目立ってきたときのこと、クリティカル・マスの創設時からのメンバーの一人であるスティーブン・ボッツィンが「僕だって、個人的には攻撃されれば、攻撃しかえすさ。でも、僕たちが今、こうして集まっているのは、復讐するためではなく、お祝いするためだ!」と叫びました。それがきっかけで、車社会と自分たちはどう関係するかをめぐる議論がはじまったという。この議論の一つの頂点をなすと思われるのは、次のクリティカル・マスのときに、やはりその創始者の一人、クリス・カールソンが「ゼロクラシー」のシステムを使って皆にくばったビラの内容でしょう。

無生物が階級闘争するなんて聞いたことがないね。車の中にいる人を攻撃のターゲットにするのは、巨大な政治的あやまちだ。車は敵というより僕たちの仲間だと考える方が自然じゃないだろうか。車やバスに乗っていて、交通渋滞につかまり身動きできずにいる人々は、道路を自転車でのっとることで、一時的にも都市生活のリズムを変えようとする僕たちと非常に近いところにいる。クリティカル・マスの肝心なところは、皆を誘いだす祝祭的なスペースをつくることだ。もしあなたが、人々をなじり、車のドライバーに罪の意識をうえつけたり、恥ずかしい思いをさせたとすれば、彼らが未来についての考え方を変えたり、自分の行動を変えたりするチャンスはぐっと減ってしまうだろう。僕たちの怒りよりも、よろこびこそ、転覆的なことをなしとげる。しかしストリートでかっとなった状態でこのことを思い出すのは、難しいことだ。

クリティカル・マスの勝利は、その祝祭性につられて人が集まり、集まった人も続ける気になり、大きな勢力になることで得られる。とすれば、暴力沙汰は、祝祭的な雰囲気を台無しにするだけでなく、人を遠ざけてしまう点で、一番避けるべきこと。だから対決的な緊張が生まれたら、そこから退くべきである。それは運動全体の生命線である祝祭性を守るためであり、また、さらに祝祭的で魅力的な場をつくって出直すためでもあるというのです。

そんなふうに考える時、共同サイクリングやストリートパーティをあえて車社会の只中、道路の真ん中でやるのは、アグレッシブな宣戦布告のためではない。むしろコントラストをくっきりときかせて、メッセージを明瞭で、わかりやすくするためなんだと受け取ることすらできるようになります。

楽しくなければはじまらない!

R-utopia ナウトピアは、直接行動するときにともなう体験のよろこびで、持続、拡大しようとする社会を変える運動の総称だ。「難しい理屈は抜きによろこびだけで」なんていうと、いい加減にきこえます。

今の世の中のおかしなところは、人の作ったはずのシステムがひとりあるきして、人を生きづらくさせてしまうこと。手段が目的に取り違えられてしまうこと。先のことをわずらいすぎて、今をおろそかにすること。形ばかり、細かいところばかりが気になって、実質が見えなくなること。自分がつくったはずのものに、がんじがらめに規定されてしまうこと・・・などからなっていないでしょうか。こうした問題は、とても哲学的で難しい響きがありますが、実践的に避けるのは、簡単な気がします。それはずばり、楽しくなくなったら、やめること。というのもこれらすべての問題の共通点は、よろこびの不在にあるからです。

イヴァン・イリッチは「やりすぎると、いつも始めた当初の目的とは逆のものが生じてしまう」と述べ、この現象を「逆発展」と名付けました。たとえば、自動車は確かに移動を便利にしたけれど、ある臨界値を越えると、交通渋滞が生じてしまいます。気づいてみると、街そのものが車中心に作られるようになり、それこそ生きづらい世界にみんな住んでいて、そもそもなんのための車だったんだなんてことになりかねません。微妙にバランスが崩れ逆発展が起こりはじめる臨界値がどこにあるのかを見極めるのは難しいけれど、「よろこび」という私たちの中にある高感度のセンサー
にかけると、一目瞭然。生きるよろこびが遠ざかり始めるのに気づいた時点で、立ち止まればいいからです。

ということは、つまり、自分を大切にしながら、心のそこからよろこべること、楽しいことをやりつづけるって、それだけで、社会批判になるのではないでしょうか? 喜びをつかんで離さない。それは今の世界を生きる人として、実は一番賢いことなんじゃないかとさえ思うほどなのです。

できることをやる

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楽しくやるための何よりもの秘訣に、直接自分の身体を動かしてやるってことがあると思います。
ドキュメンタリー映画『人生フルーツ』によると、建築家、津端修一さんは、遠くが見通せて、そこにどんな里山があり、どうやって人々が暮らしてきたかが一望できるニュータウンプランを設計しましたが、経済優先主義の時代にあって、実現できませんでした。
でしたが、ちゃんとそこにとどまって、自分たちの地所内で、コツコツ、ゆっくり、着実に、その理想を日々の生き方で実現していったわけですよね、
もちろん、そのほんの一角のちっちゃな土地の中、二人の小宇宙の中での話だけど、こちらの方は、単に図面を描いただけでは終わらない。
一旦ブルドーザーでならされてしまった里山の土を自分たちの手で蘇らせ、一本一本木を植え、畑をつくっていった。まさに、「できることをやる!」生粋のナウトピアン大先輩といえるかも!
小さな二人だけの世界の話に見えて、今やこれだけ反響を呼んでるってところも、勇気づけられます。規模なんて関係ないのですね。センスと、気持ち、真性さと持続(30代から90歳までやってたら、本当に森ができちゃう!) ありがたいことです。
ナウトピアンは、こんなふうに、権力を経由して、上から、トップダウンでみたい世界をつくる道筋が絶たれてもあきらめません。

こんなふうに志絶たれた人のほかに、「おまかせ体質」の人にもナウトピアのアプローチは効くかもしれない。代表民主主義のシステムで、みたい世界を実現しようとすると、どうしても、権力をとっても腐敗していない善意の企業家や正義漢の政治家に未来を託す・・・という回路をとることになります。でも、なかなかそんな人が現れないし、現れたとしてもなかなか選挙に当選してくれないので、やきもきしてる。でも、フラストレーションがそんなふうにたまるのは、人任せにして、受身で待ってるだけだから。犠牲者意識ばかり募らせていく。

でも、自分の身体を使って動くことなら、今、ここで、すぐに始められる。そういう意味のnowでもある。自分なんて小さな力しか持たないって思い込んでいるかもしれないけれど、そんなこと、やってみないとわからない。どんなに不利な状況でも、その時にできることってある。それをやろうって意味でもあります。

山火事で動物たちが逃げまどっている時に、ひとしずくずつ、くちばしに水を加えて運んでは、火にかけ続けるインディアンの神話に出てくるハチドリのように、ナウトピアンは、「できること」をやり続ける人たちのことだとも言えます。

実際には微々たる変化しか起こらなくても、それがもたらすエンパワメント、安心感、手応えは、並々ならぬもの。これは量ではかれるものではないと思ってます。

というのも、「そんなことやっても無駄」「どうせ駄目」といった否定の身振りはもうやめ。「いま、ここ」に「ある」ものの手応えを感じながら、ほんの少しずつでも、自分の体を動かして、行動するとき、私たちが世界に、運命に対して思い描いていた「おそれ」も、暖められた氷のように溶けて消えていくからです。この「おそれ」こそ、私たちをシニカルで受け身で、怒りや犠牲者意識だけはたっぷりの立場に縛りつけてきたものでした。

「世界最後の日に、あなたは何をしていますか?」と問われて、マルティン・ルターは、「リンゴの木を植えてるよ」と答えたそうです。ナウトピア的な行動を着々とやり続けるとは、私たちの夢から、「おそれ」の縁取りを取り除いていく力を持っていると思います。「おそれ」の拘束衣を脱ぎ捨てた欲望は、ほっと安堵、安心感に浸されると同時に、ポジティブな確信、クリエィティブなエネルギーへと解放され、ふくらんでいきます。新しい世界を作る力に変容するのです。

 

体験の共有を中心におけば、伝達の上で平等に

ナウトピアの運動中のよろこびの体験そのものに語らせるということは、言葉なしで伝わるその肯定的な実質に賭けるということ。「言葉を介さずに」というと、阿吽の呼吸、馴れ合いめいた響きがあります。それが二者関係にとどまっていたら、そういえるかもしれません。

しかしナウトピアの運動の中で、メッセージが伝わる時には、必ず間に第三の要素、共有の体験があります。この第三の要素の力が強まれば強まるほど、メッセージを伝えたい人(Aさん)と、伝えられる人(Bさん)は、一つに結びつきながらも、同時に、完全に平等で、自由度の高い、主体的な形でそれぞれ参加することができるようになるのではないかと思うのです。図で言えばこんな感じです。

 

  共同の体験

↗↙  ↖↘

Aさん           Bさん

たとえば、電気をいつもつけっぱなしにする同居人に省エネしなきゃと口をすっぱくお説教しても、反感を買うことがしばしばです。なぜかというと、ここでは、Aさんが、Bさんに、共同の体験抜きに、一方的に説得しているにすぎないから。

Aさん

Bさん

でも、一緒に焚き火を起こして手をかざしながら「やっぱり、火っていいね。これに比べると電気は冷たいね」と切り出すとすんなり通じるところがあります。そこでは、先ほどの、第三の要素、すなわち共同の体験があるからです。

共同の体験

↗↙  ↖↘

Aさん           Bさん

言葉だけによる一方的な説得と比べると、ずっと平等で、押し付けがましい暴力のないメッセージの伝え方になり、反感をまねくことも少なくなるからです。

メッセージを伝えたい人も、そこで何か新たな学びをすることになる人も、共同の体験の下で平等なわけですから、誰もが主体的に参加することができます。そこから何を持ち帰り、その結果どんな効果が生じるかも人によってさまざま、予測不可能なところがあります。上の図の中の↗↙という双方向の矢印はこの辺の事情を示しています。たとえばコミュニティ・ガーデンは、始まった当初は、安全な食を自分たちの力で確保しようという動機が主流でしたが、実際動き出すと、食育、食文化の復興、参加者の健康回復、貧困、ドラッグ、犯罪の連鎖からの解放、コミュニティづくり、生態系の復活、都市環境の改善といったさまざまな効果があることがわかりました。

弱い体験であれば、そのうち自然消滅してしまうかもしれませんが、体験の強度が高まるにつれ、それに関与する人たちの一体感がつよまり、伝達はますますスムーズになる。と同時に、それぞれが、そこから持ち帰り、展開させるものは、多様で思いがけぬものになる可能性があるでしょう。体験の強度をそんなふうに増幅させてくれる仕掛けに、「物質的想像力」があります。

 

物質的想像力

DSCF1268-1フランスの哲学者、ガストン・バシュラールは、地水火風のような自然の素材を直接、原初的に体験することから喚起される想像力というものがあると述べ、それを「物質的想像力」と名付けました。それは非形態的、非視覚的で、カオチック。その点、彼が「形態的想像力」と呼ぶ、きらびやかでスペクタクルで目も鮮やかな想像力とは、対照的ですが、私たちの存在に深く、じかに触れ、これに根ざし、一体化する力を持ちます。

たとえば泥んこ遊びをする子供は、服を泥だらけにして、大人を困らせるだけが能ではありません。大地と直につながりながら、物質的想像力を養っているのです。つまりそのくみつくしがたいゆたかさや、生命をかくまう気前の良さ、捉えがたい豊かさ、無防備で泥んこになり、汚れてもいいやひらき直った時に感じられる一体感、安心感などに身をまかせています。それは一緒に遊んでいる他の子供やそこにいる動物たちとの一体感まで広がるでしょう。

都会育ちだったり、厳しい親に上品にしつけられたせいで、そんな体験はないという人も大丈夫。陶芸のような手仕事をやることで、同じように大地との接触から喚起される壮大な想像力の世界へと誘われるかもしれません。バシュラール自身、地水火風、それぞれのエレメントが醸し出す物質的想像力についての本を書いています。物質的想像力からインスピレーションを汲み取った古今東西の詩人たちの言葉の壮大なアンソロジーになっています。ただ、人類共通の体験に根ざしているせいか、それが初めて触れる作家、しかも、遠い国、遠い時代の人の言葉であっても、我がことのように、共感できるところがあり、そこに描かれている物質的想像力を自分のものにして、素材を深く体験する感受性を養うことができる。あるいは、新たな展開、バリエーションを加えることさえできるかもしれません。たとえば、『大地と意志の夢想』の中に登場する、メルヴィルの白鯨の「手絞り」の章の言葉を引いてみましょう。

朝は鯨蝋を絞りながらすぎさった。しまいには自分まで溶けていきそうになった。あやしい狂気がとりついてしまう。それほどまでに絞り続けた。やわらかなこの凝結物ととりちがえて、仲間の手をそれと知らずに握っていて驚いたこともあった。それは非常に強い感情、感動をよびおこすほど親密で、いとおしい気持ちをかもしだしたので、最後には絶え間なく、かれらの手をとってはにぎりしめ、愛情にみちた眼を見つめながら、こういいたくなった。友よ、なぜ社会は不正に満ち、たがいに些細なことに不機嫌になったり、妬んだりしつづけるのか。さあ、環になって手をつなごう。世界中のものがみんなお互いの中にとけ込もう。鯨蝋になるまで、美しい乳液となるまで。(メルヴィル『白鯨』「手絞り」の章より)

ここにみられる一体感は、並大抵ではない。鯨蝋を見たことも触ったことも、その芳しい香りを味わったことのない私も、文章を読んでいるうちに恍惚として、一緒に油しぼりをしているような気がしてきます。そうして滑らかな脂分を含んだかつて生き物の体だったマテリアルの味わい方を深めたり、類似した記憶を呼び覚ましたり、夢見始めることになるでしょう。また、この種の体験が、とかく抽象的なお題目に形骸化しやすい「友愛とか人類愛」といった理想を、ふたたび触知できるものにすることで、抽象と具象をつなぎ、形骸化した思考を生き生きとさせ、頭でっかちな理想主義者を癒していくようすを感じることができます。「美的体験をともなう真理のみが、倫理的だ」と言ったのはフリードリヒ・フォン・シラーですが、人類愛の理想も、ここまで実感できて初めて、私たちが日々平和的に、おだやかに生きれるようにしてくれるのかもしれません。平和そのものをストリートで演じ、花を配り始めたフラワーチルドレンのように。

 

コーオプテーションに対する免疫に

ナウトピアの直接行動の体験に含まれる、地水火風、芳しい植物や、美味しい食物といったさまざまな素材との直接的な接触は、物質的想像力を刺激するいいチャンスだといえます。電気の代わりに炊かれた焚き火や薪ストーブの火を眺めたり、手仕事をじっくり味わう中で、この想像力は育まれ、体験はますます深まっていきます。それは、人と人を深く結びつけるだけでなく、かたちだけ一人歩きして、体制側にいいように利用されるコーオプテーションに対して耐性を発揮することも、見込まれます。

60年代にはじまる対抗文化は、さまざまなサブカルチャーを生み出しましたが、その分、すごい勢いでコマーシャルに取り込まれてしまいました。そこで使われたさまざまな小道具、たまたま彼らが着ていたファッションが、たちまちのうちに世界中のうちに広まっていく。オートバイやジーンズなどその例だと思うのですが、そのうちに、それらを消費するだけで、ラディカルになれるような錯覚が生み出されるようになります。実際には流行に乗じてそれらを量産する大企業が儲かるばかりで、社会構造的な変化は、ほとんどないのに。政治を外観、スタイルの問題に変換し骨抜きにしてしまうコーオプテーション現象は根深くて、それを何とかすり抜けていくことが、ナウトピアの運動を大きく特徴付けることになりました。出来合いの商品を避けるリサイクル、リメイク、「自分でやる」DIY志向などもその例です。

しかしより本質的には、ナウトピアの運動の中に含まれるリアルな体験で味わわれ、育まれる物質的想像力こそ、形だけコピーすることができないという意味で、コーオプテーションに対する強力な砦になるんじゃないかって思っています。特に先ほどの鯨蝋を絞るシーンのように、一体感を育みながらなされる作業が含まれていれば、最高。みんなで泥んこになっての稲作業などで、同じような体験が見込まれるのではないでしょうか。

 

「ある」ものからはじまる強靭さ

同時にこれは、一人一人がそこに参加する仕方を、自由で多様、主体的なものへと解放する力も持つと述べましたが、今度はこれについて考えて見たいと思います。

社会を変えようとするとき、私たちは普通、現状にはないものを求めています。つまり「今、ここ」を「理想から程遠い」と否定した上で、「なんとかしなくては」と、代替案を持ちこみます。このアプローチ、一見、当たり前に聞こえますが、実はそこに社会がなかなか変わらない原因があるんじゃないでしょうか? 私たちがいるのは、「今、ここ」だけなのに、それがいつも否定され、貶められてしまうということは、今、現にそこに身を置く私たちも、素通りし、無視されてしまうということ。ようするに、条件が整うまで、とりあえず本気で生きるのはよそうという格好の口実になるというわけです。「こんなんじゃダメだ」と言いつづける限り、その先延ばしは続いていく。そんな調子では、責任回避が続くばかり。ましてや、新しい世界を作る自信も、力もいつまでも湧いてこないと思うのです。

これに対して、これまで見てきたように、物質的想像力にきわまるまで、「今、ここ」に「ある」ポジティブな体験を掘り下げていくナウトピアの体験は、「ない」ものではなく、「ある」ものに根ざしています。

たとえば、焼け野原を見て、「ここには何も生命の気配がない」と嘆くばかりでは何も始まりませんが、そこに芽吹く芽を実際見つけて、その世話をはじめることで、新しい世界がそこから実際生まれていきます。それに似ているといえるかもしれない。

絵の具をたっぷり筆につけないと絵が描けず、線がかすんでしまうように、「今、ここ」に、新しい世界のエッセンスを、わずかでも、萌芽的にでもいいからまるごとふくむ体験を、共に味わいながら育てていくことからこそ、世界は変わる。だから、「ない」ものにではなく、「ある」ものに注目しようよ、というのが、ナウトピアのアプローチです。

「ある」ものに根ざすことと並んで、ナウトピア的だと思われるのは、自分の体で行動することです。

どこかの偉い人、権力をとっても腐敗していない善意の企業家や正義漢の政治家などが現れて、その人におまかせすれば、なんとかなるって思ってる。でも、なかなかそんな人が現れないし、現れたとしてもなかなか選挙に当選してくれないので、やきもきしてる。でも、フラストレーションがそんなふうにたまるのは、人任せにして、受身で待ってるだけだから。犠牲者意識ばかり募らせて

でも、自分の身体を使って動くことなら、今、ここで、すぐに始められる。そういう意味のnowでもある。自分なんて小さな力しか持たないって思い込んでいるかもしれないけれど、そんなこと、やってみないとわからない。どんなに不利な状況でも、その時にできることってある。それをやろうって意味でもあります。

山火事で動物たちが逃げまどっている時に、ひとしずくずつ、くちばしに水を加えて運んでは、火にかけ続けるインディアンの神話に出てくるハチドリのように、ナウトピアンは、「できること」をやり続ける人たちのことだとも言えます。

実際には微々たる変化しか起こらなくても、それがもたらすエンパワメント、安心感、手応えは、並々ならぬもの。これは量ではかれるものではないと思ってます。

というのも、「そんなことやっても無駄」「どうせ駄目」といった否定の身振りはもうやめ。「いま、ここ」に「ある」ものの手応えを感じながら、ほんの少しずつでも、自分の体を動かして、行動するとき、私たちが世界に、運命に対して思い描いていた「おそれ」も、暖められた氷のように溶けて消えていくからです。この「おそれ」こそ、私たちをシニカルで受け身で、怒りや犠牲者意識だけはたっぷりの立場に縛りつけてきたものでした。

「世界最後の日に、あなたは何をしていますか?」と問われて、マルティン・ルターは、「リンゴの木を植えてるよ」と答えたそうです。ナウトピア的な行動を着々とやり続けるとは、私たちの夢から、「おそれ」の縁取りを取り除いていく力を持っていると思います。「おそれ」の拘束衣を脱ぎ捨てた欲望は、ほっと安堵、安心感に浸されると同時に、ポジティブな確信、クリエィティブなエネルギーへと解放され、ふくらんでいきます。新しい世界を作る力に変容するのです。

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ナウトピアについて体系的に知りたい方は、 こちらをクリック 『ナウトピアへ サンフランシスコの直接行動』