ナウトピアのつくり方

手仕事が世界を救う!? 

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手作りが好き。手作りは楽しい! でも、実際に何かを作り始めたり、人に頼まれて作ったり、お金までもらったりすると、楽しさがだんだん、すーっと逃げていく。手作りのよろこびは、とらえがたいところがある。

でもそこであえて、よろこびが逃げないように、できれば、もっともっと楽しくなるように、働くスタイルを調整して、あれこれ工夫してみた。試行錯誤を重ねるうちに、いろいろ気づいたことがあったよ。これは、それについての本。

プロセス楽しんでなんぼ
たとえば、急いでやったり、やる気がないのに義務感でやると、楽しくなくなる。早く完成させるぞって、息巻いたり、完成したときのことを必要以上に考えること自体、よろこびを削いでいく。目的地につくことばかりを考えてると、道のりを楽しめないのと同じだ。手作りすることにしたのは、散歩を始めたってこと。車や電車に乗ると、早く到着するし、楽。でもあえて、歩いて行くのは、野辺に咲く花に見とれたり、その匂いを嗅いだり、たくさん道草を食って、楽しむことにしたってことでしょう。手作りは、プロセスを楽しんでなんぼ。
完成形が欲しいのなら、とっくの昔に、お店に買いに行ってるよ。

というわけで、「完成させること」については、できるだけ考えないことにした。

といっても、お金さえ出せば、何でも欲しいものがすぐに手に入る消費社会に生きる私たちのこと、プロセスを楽しむ感受性はかなり萎えていたりする。でも、だからこそ、こちらを伸ばすと、全然違う風景が見えてきて、面白い! 

これからも、手作りしながら生きていくとすれば、理にかなったことでもある。完成のよろこびはその一瞬しか味わえないけど、つくるプロセスだったら、それこそ、なが〜い。そのなが〜い時間によろこびをず〜っと感じていられるとすれば、それこそお得というもの。

というわけで、人に頼まれてつくるときも、「いつ完成するか、わかりませんが、それでもよければ」と言葉を付け加えたりする。

「しなきゃならない」仕事はやらない

といっても、ただマイペースでいるのも失礼。というより、彼らに対して私が感じてる感謝の気持ちにそぐわない行動になってしまう。だから、コミュニケーションを密にして、心を通わせるのは怠らない。

そうすることで、なるだけゆるゆる、柔軟に、臨機応変に動ける状況を作り出し、仕事を極力「しなきゃいけないもの」だって思わないで済むように工面する。

だって、「しなきゃけない」って思った瞬間、「強いられてる」感覚が生まれて、自由とよろこびが一挙にしぼんでしまうものね。

そう「強いる」人は、自分の心の中にしかいない一人芝居のこともしばしば。依頼者は、意外とけろっとしてたりするものね。働く本人ばかりが、「やらなきゃいけない」って、息巻いてることになる。

「強いる」人が具体的人物として外にいても、自分の心の中にしかいない妄想でも、とにかくその人の暴力のおかげで、私の人生の選択肢と自由が失われてる。そんな犠牲者意識さえ漂ってくる始末。

楽しくないから、心もこめられない。無理をしてまで働くので、体調も落ち目。使う人への思いやりや、気遣い、相手を喜ばしたり、コミュニケーションしようっていう気持ちや、クリエィティビティも働かなくなるね。仕事の質も低下してしまうだろう。

たとえば、表面ばかりつくろってあるハリボテの製品や、すぐに壊れてしまう粗悪品を手にすると、「これはやっつけ仕事の所産。『早く終わってくれないかな』と思いながら、お金のために身売りするように働く人の手になるものだな」と、悲しい気持ちになることがある。作り手が自分の「今、ここ」を大切にしていない気持ちが、それを手にする私にも伝染して、バカにされたような気分になる。自分を大切にする気持ちと相手を大切にする気持ちは、一つのことの表裏なのだから。

私はこの仕事を、自分がやりたくてやってるんじゃない。「しなきゃいけない」から、強いられてやってる・・・

ということは、「自分が本来やりたいこと」は、そことは別のところにあるってことでもある。それは、自分で自分の人生のイニシアティブをとること、自分の人生の主体でることを、放棄したってこと。

主体的に生きることを放棄すると、いろんな意味で無責任にふるまうようになる。例えば、自分が今、やってることの意味や影響について深く考えない習慣がついてしまう。その点ではまるで幼児並みの思考放棄がある。その一方で、一方で、一旦「しなきぃけない」と決めた仕事を完璧に「やりとげる」ためだったら、いくらでも高度の知性を使うことだってある。このアンバランスが怖い。たとえば、遺伝子組み換え作物や原発をつくっている人たちは、とても高度な技術的、専門的な思考は駆使していたけれど、それってなんのため?そうすると、どんな影響が起こる?といった、広い視野にたった包括的で哲学的な思考は、まったくできないように見える。

それとも、一応、それらが取り返しのつかないような事故や汚染のリスクと背中合わせだってこと知ってるんだけど、「しなきゃいけない」から、やってるのかしら? それも怖いな。

アウシュビッツの強制収容所と殺戮システムの指揮をとっていたアイヒマンが捕まって、イスラエルで裁判がはじまったとき、ハンナ・アーレントは「アイヒマンはどこにでもいる」、ユダヤ人の中にも、あなたの隣にもいるといって批判の的になった。けれど、彼女が言おうとしていたのはこのこと。自分の職務を忠実に完璧に果たす働き者、しかもきわめて優秀。そんな人が、その行為の意味を深く考える哲学的、倫理的思考という点では幼児程度だった時、本当に、何が起こるかわからない。

そのすべてのはじまりが、自分の仕事を「しなきゃいけない」ものだと思った瞬間にある。とすれば、ゆるゆるで、スロー、自分が「やりたい」と思う仕事しかやらない! という人たちは、いい加減な怠け者なんかじゃない。とても責任ある人たちなんだ。そんなふうに決めこむ社会常識の方がくるってるんだ。

『ソース』(VOICE)という本を書いたマイク・マクナスは、自分が心から「したい」と思うことをすることこそ、人生でもっとも責任ある行動であり、その人が背負える最高の責任だと言ったけれど、これも同じ理由からだ。

実際、ウィリアム・モリスやマハトマ・ガンディーなど、スローな手仕事の推奨者はしばしば、仕事の仕方の意味や、その社会的インパクトについて、誰より深く考えた人たちだった。木版プリントや糸紡ぎなど、彼らが手がけた仕事はさまざま。でも、手仕事特有のゆったりとした時間の流れの中で、自分がいまやってる仕事の全体を、彼らは文字通り「掌握」して、自分がいまやってることが、どんなふうに、自然や人、社会と絡み合い、影響を与えていくかについても、じっくり、多面的に思いめぐらせてたんだね。遺伝子組み換えや原発づくりと違って、手仕事に動員される知性は低いかもしれない。でも、この手の哲学的思考にかけては、ずっと深いことが、しばしばだ。

そんな手仕事マニアの人たちの言葉を手掛かりに、仕事の意味について、しばらく考えていこうかな。とくに「やらなきゃいけない」ではなく「やりたい!」という気持ちが最大化されるように働くことで、どんな広大な世界が目の前に開けるか、見てみたいな。

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