ナウトピアのつくり方

スピリチュアルに見れば、誰もが現実を手作りしてる 投影と延長

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自分の見たい世界は、今から、ここから、自分からはじまる。世を嘆いてる暇があったら、今自分ができることをやろう。私はそういう生き方を「ナウトピア」と呼んで、社会運動や仕事に生かすやり方について語ってきたよ(堀田真紀子『ナウトピアへ』インパクト出版会)。

ナウトピアンを自称する私も、人を嘆き、世を嘆き、自分を犠牲者に仕立てたくなることは、しょっちゅうある。

たとえば、一緒に暮らしてる人が、綺麗好きで、掃除を徹底させないと不機嫌になる。私に事細かく指示してばかり、自分では動かないくせに、私がやったことに文句つけてばかりいるように見える! などなど。

でもそんなときほど、私は、人生全体が、編みかけのもののように自分の手の中にあって、そこからすべて出て来る様子をイメージするようにしている。

そうすることで、自分とは無関係に、客観的に存在してると思われる現実も(「どう考えても、相手が悪い!」)、自分次第で、いくらでも変えれる可塑的なものに見えてくるからね。

そんなふうに「思えて」くるだけじゃなくて、無意識のうちにやってることまで含めると、実際、私たちは、自分が体験する現実を、自作自演してる・・・・そんなふうに言う時、私の念頭にあるのは「投影」の考え方だ。

投影とは何か? まずはちょっと哲学的な話から。

私たちは、「ありのまま」ではなく、「見たいもの」を見てるというのは、カント以来、人口に膾炙した考え方だ。つまり知覚は取捨選別のメカニズムってことだけど、私たちは何を基準に見たいものを選んでいるかというと、自分の心の中にあるものだ。たとえば、幸せな時は、すべてがバラ色に見えたり、イライラしているときは、どんな人も自分を侮辱しているように見えるようことがあるね。すでに自分の心の中にあるものを裏書きして、「その通り!」と証拠だててくれるものを、私たちは無意識のうちに現実の中から取捨選別しながら、そればっかり見て暮らしてるという考え方だ。

「投影」を理論としてまとめあげたのは、ジグムント・フロイト。彼がこのことに気づいたのは、たとえば、どこに行っても、誰と合っても、似たような人生のストーリーを繰り返す人がいる。たとえば虐待的なパートナーと結びついては別れて・・・を繰り返す。変性意識状態の中で記憶をずっと遡ると、幼児期に父親から性的虐待を受けていたことを思い出す。そうして記憶を抑圧状態から救い、受け入れ解放するまで、まるでハートの中に映写機があって、そこから世界に向かって、自分の心のドラマを上映し続けるように、同じストーリーを無意識のうちに反復ながら生きてしまう。あるいは被害妄想のとりこになっていて、どんなに穏やかな人も警戒してかかるので、まともな人間関係が築けない・・・

フロイトは、そんな病理的で強迫的な反復パターンの中で生きている人を説明するのにこの概念を使ったわけだけど、すべての人が多かれ少なかれ、そうやって生きてるんじゃないかって考える時、私たちは、「人生は手作り」のもう少し深い意味にたどりつくことになる。

この意味では、既製服やお仕着せの人生航路をたどる人も含め、みんな自分の人生をある意味、「自分で作ってる」ってことになる。ただ、その大部分は無意識のなせるわざ。でも、少しでもそれを自覚してはじめることができれば、その度合いに応じて、自分の手でコントロール下に収めることができる。人生を無意識のメカニズムに翻弄されながら送るか、手作りできるかの分かれ目がここにあるといっていい。

スピリチュアルな自己鍛錬の書、『奇跡のコース』になると、私たちが体験している現実はすべて、心の中にあるものを映し出したものだってことになる。

ただそのやり方が二種類あって、一つ目は、自分の中にあるものがあまりに堪え難いので、それを自分の中に見る代わりに相手に押し付けて見るやり方。コースではこれを「投影」と呼んでいる。この投影のメカニズムに支配されている時、私たちは、自分の心の欠如感、つまり何かが欠けてる、足りないという感じや、まだまだだめだという不全感などを、周りの人や物に鏡写しにして見ている。そうして相手に難癖をつけながら、「でも私は大丈夫」とつぶやく。つまり相手を否定することで、自分は正しいことを証明しながら生きてく自己中心的な生き方。その時主導権を握っている私たちの心の部分を、コースでは「エゴ」と呼んでいる。

エゴは自分から周りのものを切り離し、距離をとってものをながめ、ジャッジメントを下すのが大好きだ。それがうまくできるよう、はっきりした輪郭のあるものが好き。「質」よりも「形」、「プロセス」よりも「結果」に意識を向ける。たとえば愛よりも結婚、ゆたかさよりも収入や貯金の金額、気高さより社会的地位にこだわる。いつ終わるか分からない、うまくいくかどうかも分からない手作りをはじめるより、完璧な出来栄えの完成品をお店に買いにいくほうが好き。

私たちは普段、このエゴの分離の感覚を、自分の周りの世界に分厚く「投影」して生きてるので、世界は、どうしても、互いに無関係なバラバラな個物の集積として見えてくる。そこから、孤独や不安、争いや暴力といった不幸の種がまかれていく。

でも、そうやって相手を否定し、断罪し、攻撃するたびに、相手をおとしめることで、自分は優位に立ったはずなのに、気分は憂鬱。何となく痛みを感じる部分が、自分の中にある。もしそんな経験があるとすれば、エゴとは別の部分が目覚めてきたからだ。それはコースで「たましい」と呼ばれる部分、世界はバラバラなのではなくて、一つにつながっていることを覚えてる部分。「自他を全く区別せずに、一つのものとみなす部分だ。たましいにとって、人を傷つけることは自分も傷つけること。逆に相手の良さの方に目を向けることは、自分も祝福されることす。そんなわけで、たましいの方は当然、相手をおとしめることで、自分が優位に立つエゴのロジックとは無縁だ。どんなに優れた相手を見ても、悔しがったり、嫉妬にさいなまれたり、劣等感を味わうことはないから、いつも手放しで褒めることもできる! 人のよろこびは自分のよろこびだものね。そんな心境が支配的なとき、私たちのたましいがあらわになってるっていえる。

エゴにとって世界は、「自分は特別」なことを証明するために、他の人を踏み台にしようと格闘する土俵。自分のことしか考えないバラバラな人たちがひしめく場所だ。

これに対して、たましいにとって世界は、バラバラに見えるのは見かけだけにすぎず、本当はつながっていることを確かめるためにある。

外見は同じ行為も、どっちをモチベーションにしてるかで、全然違うものになる。たとえば今私がこの文章を書いているのはなぜか。「自分は特別」であることを証明して、承認欲をみたすためなのか。それとも、読んでくれる人たちとの距離は見かけに過ぎないこと、心の奥底では一つにつながっていることを確認するためなのか? もちろん、後者でありたいって思ってる。

たましいも、自分を周りに鏡写しにして見る。けれど、エゴのやり方とはちょっと違ってる。

エゴは自分の中にある欠如感や不全感などのネガティブな特性を周りに鏡写しに見ながら、そのことに気づかないのがふつうだ。たとえば、悪い天気、ひどい人、ダメな政治家、ついていない日を非難しながら、どこを見てもそんな嫌なものしか見えないのが、自分のかけてる色眼鏡のせいだとは考えない。周りがもともと悪いんだって考える。欠点だらけに見える相手の姿の中に、自分の不満を、押しつけ、なすりつけてるからだなんて、夢にも思わない。

よく、人の悪口ばかり言う人の言葉の主語をすべて「私は」に直したら、どんぴしゃり。まるでその人のことを言ってるんじゃないのって思えることがあるけれど、それは、エゴが投影を野放しにしてるときに、よく見られる状態だ。

おまけに、エゴのロジックの虜になってるとき、私たちは、相手をおとしめるればおとしめるほど自分が高められ、相手を批判すればするほど自分の潔白さを示せるって考える。

でも、悪口をいって、スカッとしたと思いきや、自分の心の中をのぞきこむと、ますます不満や痛みが募ってる。自他を一体として受け止めるたましいにとって、人を攻撃することは、自分を攻撃すること。よく子供が、相手を叩いて、痛いのは相手のはずなのに、叩いた方も一緒になって泣くことがあるけど、あれに似てる。

という風に、エゴの投影は、自分の不満を相手になすりつけて、相手を攻撃しながら、実は自分も傷ついてるというとても回りくどい道筋をたどる。

たましいが自分をまわりに鏡写しに見るやり方は、これに対してとてもシンプルだ。エゴのようなひねりや屈折はない。自分の中にあるよろこびや、ゆたかさや、やさしさが、周りのものの中にも見えて、しかもそれらが、一つの、不可分な全体をなしているように感じられる。それだけ。あなたのよろこびはわたしのよろこび。しあわせとは、よろこびの海の中に、そこにいるすべての人、すべてのものが浸って、輝いている状況のこと。コースでは、たましいが自分の反映を周りに見出しながら、現実を手作りしていくこのやり方を「延長」とよび、エゴのやる「投影」と区別している。

たましいにとって、自分が相手の中に見るものは、そのまま、自分の中に見るもの。だからエゴのように他人の粗探しをする代わりに、安心して一体でいられるものを探す。つまり、すでに相手が持ってる良さ、完璧さの方に焦点をあわせる。

じゃあ、たましいの方に焦点を合わせて生きていきたいわ!と思うのは自然ななりゆき。

といってもたましいは、すでに、そこにあって、私たちを生かしてくれている命の働き。自分の外にあって、手に取ったり、吟味できる「対象」とみなしても、とらえられない。たとえば、本当に存在するかテストしてみよう、私はとらえられるかしら、とらえられなかったらどうしよう?・・・といった態度もその部類。そういった態度そのものが、障害になってしまう。

むしろ自分を運んでくれてる乗り物みたいなものだって考えた方がいい。たとえば自転車。たましいを外的な「対象」としてとらえられない様子は、くるくる回って、自分を乗せて運んでくれてる自転車の車輪をつかんで吟味したり、見たりすることができないのに似てる。

運動中の車輪の存在を感じる唯一の方法は、ひたすら漕ぎ続けること。

ひたすら漕ぎ続けながら、上手に車輪に乗っかって、転ばずに運ばれていくには、どんな力加減でハンドルを取る必要があるか、体をバランスさせればいいか、私たち、学んでいくわけだよね。そうやって自転車が乗れるようになる。

たましいに主導権を与えながら、生きていく方法を学ぶのも、それにとても似てる。たましいそのものは、自分が乗ってる自転車の回転中の車輪を捉えられないように、捉えられない。それに乗っかって生きていく中で体得するしかない。

最初は、エゴの補助車に頼り切って生きてる場合がほとんど。自分を他から切り離し、特別で、安全な地位に置くために、周りの世界をコントロールしようとする。

それを徐々に外しながら、この補助車なしで、たましいだけに、自分を運んでもらう練習をするわけ。これまで自分でやってきたことを、小さなことからでも、一つ一つそちらにおまかせしながらやってみる。自転車の補助を外した時のように、最初は不安で、こわごわでも、そのうち「あっ一緒に動いてる! 自転車に乗ってる!」と気づく日がくる。そのときの感触、力加減を覚えていて、だんだんそれに慣れていく。その積み重ねだ。

エゴの補助車によるコントロールを放棄して、たましいに身をあずける。勇気と信頼感。その度合いにしたがって、たましいは身近に感じられるようになってくる。そのものとしては、決して捉えられないけれど、私のいのち、人生を前進させてくれる稼働中の乗り物として!

小さな小さな点だけど、のぞきこむと、そこから世界がみえる。静かでかすかな感触だけど、その中にスッと入りこんで、「味をしめて」いくと、だんだん増幅されてわかるようになる感じ。新しい何かというより、いつもいつもそこにあった、思い出されることだけを待ってる、何かなつかしいもの。それがたましいだ。

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