社会三分節論

社会三分節論からみたヨーゼフ・ボイスの「すべての人はアーティストである」

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「全ての人がアーティストになる」というボイスの言葉は、とかく誤解されがち。誰でも、絵を描いたり、音楽をたしなむというふうに、狭義のアートをやれといっているのではないことは確か。むしろ、銀行員だったり、エンジニアだったり、農家だったり、医者だったりするあらゆる職業の人たちが、日々の仕事のただなかで、そこに「アーティスティックなもの」を目覚めさせていこうということを意味するようだ。そうすることで一人一人の社会的な生を変容させ、全体としての社会を内側から作り変えてしまおうという革命のプログラムの一環だっていえる。

ただこの時に彼が「アーティストになる」という言葉で何を意味していたかは、漠然としてわかりにくいところがる。喧々諤々の議論も始まりそうだけど、ここでは、彼自身、大きな影響を受けたと認めているルドルフ・シュタイナーの社会三分節論を切り口にして、どんなことが言えるか、ちょっと考えてみたい。というのも、そんなふうにいうことで、社会三分節論者たちの長らくの懸案事項だった、「精神生活を独立させよ!」という問題意識を、とてもラディカルで、先鋭化させた形で解決しようとしていたって、かなり確信を持って言えると思えるからだ。

シュタイナーの社会三分節論とは、社会は、互いに全く異なり独立しているものの、密接に絡み合い、相互作用しあう精神生活、法生活、経済生活と呼ばれる三つの部分からなっているとするもの。フランス革命の謳い文句になった自由・平等・博愛は、この三つの部分のそれぞれの理想状態を実は表していたという。つまり精神生活は自由、法生活は平等、経済生活は博愛を目指している。それぞれの部分が、それぞれの理想を体現しながら、しっかり独立した上で相互作用する社会は健やかな社会といえる。

ところが今の世界を見渡してみると、その点、問題だらけ。経済は博愛に向かうどころか弱肉強食に至るほどエゴイスティックに歯止めの効かない自由を謳歌してたりと、どこが問題かをいちいち言うと、きりがない。でも、とくに目につくのは、精神生活が弱すぎて、他の部分の下に隷属してしまっているケースが多いこと。

これが環境問題など、多くの社会問題を生み出す根っこにあるとさえ、考えられる。

というのも、私たちの多くは、今の世界、何が問題なのか、どうすればいいか、大方「わかって」(精神生活の成果)いる。にもかかわらず、それを実行に移そうとすると、たとえば「でも、そんなことすると、経済的に採算合わないもんな」とか、「法律の縛りがあって、できないよ」とあきらめがちだから。もちろん、「わかっている」ことの側から、経営方法や法の改善に向かうことも、あるけれど。

精神生活をめぐるそういった無気力なムードよりもより深刻なのは、精神生活は主体の形成にかかわっていることだろう。

たとえば、子供の教育カリキュラムを国家権力が決め、画一化してしまい、一人一人の素質、才能や、その子がおかれた状況からのニーズなど全く無視してしまっているのは、法生活が精神生活の独立を阻む例だっていえる。それにつれて、それぞれの地域の風土の中で、地域固有の状況に寄り添って生きる知恵を伝承する場が失われ、都市部に出て勤め口を探さなければ生きていけない人が量産され、持続可能なライフスタイルも失われてきた。画一化は競争を呼び、具体的に生きていく力とはほとんど関係しない人工的で不自然な基準軸にもとづき、勝者敗者の振り分けがなされたりする。でもそうやって育った子たちはそれを自明視するようになるし、同じくそういった子供達の再生産を続けることになる。

あるいはメディアがコマーシャルの支配下にあり、その報道内容にスポンサー企業の利害関係のバイアスがかけられてしまうのは、経済生活が精神生活の独立を阻む例。だけれど、四六時中、そうした情報環境の下にいると、それが自明のものになってしまう。嗜好や発想法までコマーシャルに規定されて、消費し続けることによってしか生きていけない人たちが大量に出現し始め、ますます地球が食い荒らされてしまってる。

というわけで、「精神生活を隷属状態から解き放ち、独立させ、もうちょっと勢力拡大しようよ」という問題意識が、三分節論者たちの間にずっとあった。

大雑把にみると、初期の三分節論者たちは、精神生活は学校やメディアや研究機関、法生活は行政、経済生活は私企業というふうに、それぞれの要素の主な担い手になる機関に振り分けて考えていた。その中で、「精神生活を独立させ、もっとパワーアップせよ」という要請は、メディアや学校、研究機関を自主運営、管理させるようにすべしというのが、とくに初期の三分節論者たちの言い分だった。

ただ、だんだん時代が下り、社会が複雑化すると同時に、三分節論の理論も精緻なものに発展するにつれ、純粋に三つの部分のどれかを体現する領域なんてありえないという認識が高まってきた。たとえば、「精神生活」を体現するとされる学校やメディアや研究機関も、経済的に採算をとれなきゃやっていけない。また、誰にでもアクセスできたり、利用できたりするバリアフリーな仕組みづくりのためには、法生活の平等の理想も尊重する必要がある。そういうことは、社会の全ての業種に言えること。もちろん、三つの中のどれがとくに優勢ってことはいえるけど、あらゆる仕事の中に、三つの生活が多かれ少なかれ、相互作用しながら流れ込んでいる。

そんな世界で、社会三分節論を実現するとは、社会の各部門の中で相互作用する、それぞれ異なる理想を目指す、この三つの要素が、独立性を失わず協議して、最適のバランスを見つけていくってことになる。たとえば学校は基本的に精神生活の機関だけれど、その独立性を失わないためには、行政や経済界からのお金に頼らずにやっていったほうがいい。というので、関係者内部のリソースを回して上手に経営する手腕が問われる。シュタイナー学校なんて子供の親が出資したり、学校建築をボランティアで手伝ったりと上手にやりくりしている。と同時に、入学チャンスに関しては、学校がたとえば裕福な知識人階級だとか、オルタナティイブでカルト的な変わり者の家の子弟の溜まり場にならないように、行政機関さながら、公共性の保持や平等の原則を貫く必要もある。

ただ、社会全体としてみた時、精神生活の勢力が弱すぎることが、様々な問題を生み出してる。もっともっと精神生活の成果を、一見それとは縁遠い、たとえば銀行だとか、土木工事などの現場にも浸透させるために、精神生活の先鋭たいみたいな人たちを送り込んでいく必要があると考える人も出てきた。つまりこの種の社会三分節論者の間で「精神生活を独立させる」とは、独立した精神生活の力を、社会のすみずみにまで行き渡らせ、内側から律することができるようにすることを意味する。

たとえば、ボイスとも親しかったヴィルヘルム・シュムントは、諮問連合 Beratende Kollegien と言う構想をたてたが、これはあらゆる精神生活の専門家、研究者、アーティストなどが専門領域ごとに作る先鋭隊のようなもの。社会のあらゆる領域の隅々に、提言やアドヴァイスをするために入り込んでいく。たとえば、何かある建物の建設をするにしても、その環境負荷度、コミュニティの人々や町の景観に及ぼす影響などが検討されなければならないし、もっと根本的なこととして、そもそもそれが、本当に必要なのか、どれだけ公益性のあるものなのかといったことも議論される必要がある。それらがこの同業者連合の役目だ。

もちろん今の社会でも、大企業は、関連する研究部門を抱えていたり、プロジェクトごとに専門家を新たに雇ったりする。

しかしこの諮問連合がそれと違うのは、ここでは、専門家たちが、プロジェクトを行う企業の外の、利害関係を全然共有しない、完全に独立した立場にいることだろう。彼らはこの企業に雇われているわけでもなければ、ましてその社員でもない。

だから、たとえ、企業の経済的な利害に反することであっても、対等な立場で、たとえば、「それって本当に安全?」とか、「本当に必要?」といった待ったをかけることができる。あるいは逆に、「こうしたらもっと無駄なく、効率的にやれるのでは?」と激励することもできるだろう。利害関係に縛られているととかく視野が狭くなるが、もっと長期的で、広い展望から、様々なアドヴァイスができるだろう。

シュムントの場合、独立した精神生活というのは、そんなふうに、社会のすみずみにまで、「独立」した、関連領域の専門家たちが入り込み、そこにいる人たちと議論しながら、そこで行われている活動に影響力を及ぼし、制御する様子をさしていた。

でももっとミクロ的に考えていくと、一人一人の中に、社会三分節論の三つの要素が息づいていると考えることもできる。そう考える時、「精神生活の独立」は、各人の精神生活の核になるものを目覚めさせること。そして、それこそ、ヨーゼフ・ボイスの「全ての人はアーティスト」という言葉が目指していたことなんじゃないかって思うのだ。

でも、精神生活の中で、教育でも研究でもジャーナリズムでもなく、ほかならぬ「アート」をこそ核心にみたのはなぜだろう?

これもいろんなことが言えると思うのだけど、一つ言えると思うのは、硬直した思考や感性、知覚をとぎほぐし、溶解させ、流動的で、可塑的なものにする力に望みをかけていたのではないかってこと。たとえば私の親しい友達、画家の大井敏恭は、私に次のように語ってくれたことがある。

「どんなに見慣れた、ありきたりのものでも、それについて、あらゆる決めつけ、好き嫌い、思い込みなどを一つ一つ削ぎ落とし、探りながら、じっと観察しつづけると、それにまつわるあらゆる要素から、ヒエラルヒー、取捨選択がなくなって、全てが等しく重要になり、すべてがつながって、じぶんともつながっていく。その先に何を体験するのは、人それぞれ。虚無を見る人もいれば、何か実在に触れる人もいる。たしかにいえるのはそれについて自分は『何にも知らなかった』ことに気づくこと。アーティスティックな造形行為がはじまるのは、やっとそれからなんだ。それは、蛹が蝶になるような変身の瞬間、身体を構成する全ての物質がすべて一旦タンパク質に戻り、また新たに組み替わっていくのに似てる。それはアートと言わず、別の職業でもできるはずのことで、もしみんなそうやって、自分のやっていることを溶解させては作り直すことができれば、もっと柔軟で、身軽で、創造的に生きれるんじゃないかな」。

善意の優秀な人たちが、原発に代表されるような、どう考えても、持続不可能で、危険なものの研究開発に携わっている。なければなくて全く構わないものが、お金になるというだけの理由で、生き物たちの生息場所を奪ったり、汚染を進め、資源を乱用しながら大量に作られている。資源を使い果たし、エネルギーを乱用しながらす大量に作られており、そこにも多くの精神生活が動員されてる。権力欲や金銭欲に動員されながら、自分自身を問うことだけは一切しない。包括的な視野展望を持たない道具的な知性の一人歩きばかり。そんな「精神生活」が横行するこの世界で、再びこれを醇化して、独立させるには、いつでも自分が走り続けるレールから降りて、徹底的に自己解体。原初の流動的な状態へと一旦戻る能力が問われているのかもしれない。溶解のこの瞬間は、すべてのものと一つにつながる瞬間。レールの上を走り続けている時には見えない、地球全体や私たちが向かう先の全体像が直感される瞬間でもある。ボイスの言葉を使えば、今自分が面と向かっている「事柄への愛」のうちに、今ここのプロセスに没頭しきる中で、「暖かな」サブスタンスに触れ、私たちは再び自分を取り戻し、自発的、自律的に、その時々に必要かつ最適なかたちで、自由に自分を作り変える。そのプロセスの全体を、「すべての人がアーティストになること」と言っているんじゃないかと思うのだが、それは、今、この世界でとても必要とされていることでもある。