ナウトピアのつくり方

ナウトピアをいつも感じているために

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ナウトピアは、しあわせの「ため」にではなく、しあわせ「から」私たちが行動する時に生まれるもの。

しあわせの「ため」に何かくわだてようとする時、しあわせは、今、ここには「無い」ってことを前提にしてしまう。今、ここでしあわせを味わってるわけではないわけだから、どうしても、しあわせについて抽象的で、絵に描いたようなイメージを抱きがち。何か代償をはらわなければ、欲しいものは手に入らないという取引モードに入ると、手段は、どうしても目的(しあわせ)と相反するものになってしまいがち。好きなことをするには、お金がいる。お金のためには働かなきゃいけない・・・と言った具合。そんな具合に、「ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない」というふうに選択肢をどんどん狭めたところに、自分を追いこんでしまう。そうやって努力すればするほど、目的から遠ざかり、しまいには、何が目的だったかもわからなくなってしまう。

だから、今、ここに現に「ある」しあわせ「から」行動しようというのが、ナウトピアだ。

でもしあわせの「ため」に何もやらなくて、つまり何にもしないで、しあわせであることって、できるの? と尋ねられそうだ。

できる、と思う。

ふーっと息を抜いて、リラックス。力を抜ききって、身体の重みを重力に完全にまかせちゃって、どんどん下へ落ちるにまかせていく様子をイメージする。そうやって、物理的な身体を度外視して、それを超えたものに意識のフォーカスがあてれるようになる。

すると、そんなふうに身体を、気持ちよくだらっと、下へと落ちるにまかせるにつれ、それまで身体があった場所で元気に立ち上がり、生き生きとまたたくものがあるのに気づくはず。それはふんわりと膨張していく暖かな雲のように感じられることもあれば、呼吸にあわせて引いては返す波のように感じられることもあるかもしれない。あるいは、翼がぱたぱたと瞬くように感じられることもあるかも。それこそあなたの魂、本当のあなた。その中にすーっと入ってみると、きっととても気持ちがいいはず。

初めは違和感があったり、うまくいかなくても、繰り返すうちに、だんだん、そここそ、自分の家だって思えるようになってくる。外で嵐が吹き荒れていても、この敷居をまたぐと、そこは暖かくて、静かで安全で、心底安心できる場所。枯渇を知らない幸福の源泉。否定を知らず、あらゆるものを無条件に受け入れ、愛することのできる場所。

この心の家にいつもいて、そこ「から」生きるようにすることで、私のいるところがナウトピアになる。

外的な条件に左右されず、どんなときにもしあわせを感じていられる。幸せかどうかを決める主導権を外的な状況にひきわたさないでいられるというのは、大変な強みだ。

これさえできれば、他の人が幸福の「ため」にあくせくとやっていることのほとんどが、必要のないことがわかるから。

だって、自分の中に、いくらでもしあわせを汲み取れる源泉があるわけだから。しあわせになるために、特定の人や状況に頼る必要はもうないわけだ。自分以外のものに依存したり、寄生して、そこからしあわせを吸い上げて生きていく人生はおしまい。

しあわせにするよと、はかない約束をして、ただお金を捲き上げるようなビジネスにも引っかからないし、誰かに自分をしあわせにする力をまったく明け渡してしまい、誰かをヒーローに見立て、自分が生きる代わりにその人に代わりに生きてもらうことも必要なくなる。生活はずいぶんシンプルになるはず。

では何もすることがなくなるのでは? との心配は無用。シェア中毒の生活が待っているから。心のわが家を忘れずに、いつも生き生きとさせておく唯一の道は、とにかくシェアし続けること。というより、それは、シェアする存在そのもので、シェアするのを怠ると、たちまち見えなくなる。といっても、意志の力で与えるというよりは、表現、創造の促しに、自然にしたがっていく感じだ。

しあわせの「ため」に生きている時の合言葉は、「〜しなければ」。あれもしなければ、これもしなければ、大変なことになると、守りの姿勢で生きていくことが多かった。

これに対して、心の家から湧いてくるしあわせ「から」生きる時見えてくるのは、あれもできる、これもできる・・・といった可能性の広がりと、自由。それまで、しなきゃいけないと思っていたことが、ずいぶん可塑的で、自由度の高いものに見えてくる。

たとえば、教育はしかるべき学校に通わせないとできないと思っていて、子供が不登校になると、パニックになっていたのが、逆に、教育とはそもそも何かを見極めたり、いろいろ別の可能性をためしてみるいいチャンスに見えてくるといった具合。

歯を磨くといったちいさな行為でさえ、「虫歯にならないように、磨かなければ」といった、自己防衛の行為であるのをやめて、いろんな可能性を試してみる、表現行為になることだってあるかも。

そもそも、心の家の中で安心し、くつろぐたびに目覚めてくるのは、自分は人生という舞台を演じている役者なんだという意識だからだ。心の家に戻るたびに、私は自分の人生の芝居を、観客席の側から見てる。嫌なこと、悲しいことが起こると、「まあ、かわいそうな真紀子ちゃん。でも大丈夫。もうすぐ終わるし。今しか体験できないことを、楽しんでね」などとエールを送ってる。ジャッジメント抜きに、愛情深く、そのまま受け止めながらも、距離感をもって眺める。

そんな視点がつちかわれてくると、何があっても、ゆるしたり、忘れたり、そんなことどうでもいいことなのに気づかせてくれる。バランスをとりなおし、またしあわせを感じ続けれるようにしてくる。

と同時に、どうでもいいことにいつまでもかかずらわず、本当に必要なことを、私がやるように、つまり舞台上でシェアするように助けてくれる。そのときに生まれるのがナウトピアだって思う。

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