人生は一つの夢、芝居。いつかそこから目覚めるもの。そんな考え方が昔から好きだった。信じられないような手に汗握る冒険の後で、それが全部夢だったのに気づく。そんな筋立ての話が、子供の頃本当に大好きで、読み終わるたびに、不思議な、甘酸っぱいなつかしさがぐーっとこみ上げてきて、しばらく泣き続けたりしたものだった。お話し自体に感動したからというより、「もしかしたら、私の今のこの人生も夢? それを知ってる・・・」って気持ちの圧倒されたから
こうした感覚はその後もずっとつきまとっていて、学生時代は、プルーストの『失われた時を求めて』のような、お話の中で、そのお話を書き始めるような筋立ての文学作品とか、フェリーニの映画のように、映しているものが舞台セットの偽物、書き割りに過ぎないことを、わざと、チラチラ見せたり、撮影シーンそのものをその後ろから撮っている光景が入った映画に夢中になった。要するに、メタフィクションマニア。
と同時に、人生の中で、本当に欲しいものを、真剣に探せば探すほど、どこにも見つからない・・・そんな生きづらさも抱えていた。遠くの国にも行ってみたけれど、求めるものは見つからず。サンフランシスコでさえ「やっぱり違う」と思った暁には、禅センターに通って朝夕座禅を組んだり。メディテーション・ジャンキー気味で、いろんな修養法をグルメ三昧でもするようにつまみ食いしはじめる。
そんな中、少しずつわかってきたことがある。求めるものが、どこを探しても見つからないのは当たり前。私が望んでいたのは、人生の舞台全体を、舞台の外側から眺めながら生きることだったのだから。舞台の中に、いくら探しても、そんな立ち位置、見つかるはずはない。
でも同時に、舞台の外に出るチャンスは、あらゆる瞬間、与えられてるともいえる。
舞台の外へちらっと視線をずらす道、何通りかあると思うのだけど。そのうち日常生活を普通にやってる中で、できること、いくつか書いてみたよ。
1、いま、ここで進行中のことに没頭して、ドラマを忘れる
『モモ』の中の道路掃除夫ベッホのセリフに次のようなものがある。
「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
また一休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
とっても長〜い道路掃除を頼まれると、普通だったら、「今日は、ついてない、こんな重労働をあてがわれるなんて!」とか、「でも報酬はそれなりに大きいぞ!」とか、「自分は、かわいそうな底辺労働者」といった自己憐憫。すべて、はよくあるお決まりの人生のストーリーの役柄だ。でも、そこからの抜け道は、意外にも逃げ出すことにあるんじゃなくって、自分が何をやってるかも忘れるほど、「今、ここ」の仕事に没頭することだった。
ドラマから逃げるのでも、嫌な部分、先送りするのでもなく、そのまま、引き受ける。淡々と作業しながら、唯一実在する「今、ここ」の一点だけに集中する。すると、自然に不平不満はなくなる。というのも、不平不満は、過去学習した別のことと、今を比較したり、やはり過去の学習からくる期待が満たされなかったことで生まれるものだから。他の人と自分を比較する視点ももちろんなくなるし。そういった人生のドラマを成立させる要素が一瞬、まったく意味を失ってしまうわけだ。というわけで、自分をまきこむドラマ全体からするっと抜け出て、違う次元からその全体をとらえ直すことができる。
というわけで、この瞬間、すべてがかろやかになり、とらわれがなくなり、自由とよろこびとが増していく。そしてこのベッホのように、長い時間が一瞬のことにように感じられたり、時間すら伸び縮みして感じられるようになる。
「今、ここ」で進行中のことに、完全にコミットするわけだから、それは、現実を100パーセント引き受けるってこと。でもまさにそのことによって、硬直した思い込みのドラマの筋立てから解放された、ひらけた地点に出れる。
だからこそ私たちは、そんな人のことを「夢中」になってるとか、「我を忘れて」っていうのかもしれない。つまり、現実に没頭すればするほど、夢の中、つまり現実の外に出ていく。
実際このパラドックスはとても味わい深く、これを求めて、みんないろんなことにのめりこむのかな? と思えるほど。
単純作業であればあるほど、この瞬間に達するのも楽なようで、音楽、踊り、ランニング・ハイなどなど、手段は人それぞれ。だけど、目の前のことに本当に没頭してる人にはどこか共通したところがある。
かろやかさ、おおらかさとでもいうべきもの。さっぱりしていて、ものを思いつめない・・・などなど。多分、「夢中」になっているときに、人生の舞台の外にいる経験を積み重ねているからではないかしら?
そんな託身と乖離、舞台上にいながら観客席から眺めるようなこの視点を、ここで仮に、スピリットのまなざしと呼ぶことにしよう。このまなざしから舞台を見直すと、仕事や成功、癒しや健康、愛や尊厳といった人生の舞台上にあるさまざまなことがらが、エゴの思いつめた、おも〜いストーリーから解放されて、軽やかで、自由で、創造的なものへと変容していく。
舞台の外から、ドラマをとらえなおす!
「また、そんな現実離れした話ばかり!」なんて言葉が出かかってるあなた。ここでベッホが没頭した「今、ここ」というのは、唯一実在する瞬間でもあることを思い出して! 当たり前のことだけど、過去はもう過ぎ去ってるし、未来は未だ来ていないわけだもの。「今、ここ」しか意識しないってことは、ある意味、とても現実的になるってこと。
でもそうすると逆に、暗くて重いドラマが進行中の舞台の外にするっと、抜け出れた。
ということは、ドラマの方が、非現実。つまりフィクションといえるかも。過去の経験からくる思いこみや、決めつけ、レッテル貼りからはじまっていく。現実をまっさらな白紙状態で見れば、目の前のことは、仕事なのか遊びなのか、人のためなのか自分のためなのか、未分化だ。「つらい」ことだなんて、何も好んで決める必要あるのかな? たとえば、子供だったら全然違ったとらえ方をするだろう。でも、いったんそこに「つらい」という意味づけを与えると、途端に世界は暗く、狭くなり、あなたを圧迫するように迫ってくる敵になる。今はやむなく囚われの身になっているけれど、なるだけ早くそこから出たい敵対的な状況がそこにあるってことになる。だから早く仕事片付けよう・・・て思うのだけど。でも、その全て、自作自演のお芝居だとしたら?
解放を目指す姿勢には、二つある。一つ目は、今のドラマがいやなので、もっと楽なドラマを演じたいと乗り換えようとするやり方。このタイプは、まるでショッピングでもするようにキョロキョロしながら、人生を一変させるような特別の変容体験を待ち望む。そのために遠くへ行ったりめちゃめちゃに仕事をする、など。
もう一つは、ドラマが自作自演で始まるってことに気づいて、じゃあちょっと、舞台から出て、きつい役柄コスチュームを脱いで、休憩しようかというやり方。
休憩っていうのも、混乱を招く呼び方かな? ベッホも黙々と掃除し続けたように、外的な意味での仕事は続いているのだからね。この時私たちがお暇するもの、つまりどこから休憩するのかといえば、唯一存在する「今、ここ」から私たちの気を逸らすすべてなのだから。
同じことを生活のいろんなところに応用することで、人生、どれだけ楽になるか、考えてみよう。
たとえば、能力や才能発揮について。英会話でも、楽器演奏でも、料理でもお勉強でも、なんでもいい。普通に人生のドラマの中でせっせと努力して能力を磨く場合、どうしても「私を認めて!」「立派だと言って!」といった承認欲と結びつきやすいけれど、これも過去の学習からでっちあげたドラマのストーリーへと他者を強制的にまきこもうとするもの。「成功」して、みんなを「圧倒」して、「承認」を得るための自作自演劇の一つにすぎない。けれどそこにのめりこみすぎて、依存しすぎて、期待と幻滅、アップダウンを繰り返すことになってしまう。そんなふうにドラマの中にずぶずぶつかったままいくらお稽古を重ねても、プレッシャーや苦しさばかり味あわれて、あんまり集中できない。ほとんどのエネルギーを心配することに使ってる感じだ。
ただ、実際、本当に好きなことに打ちこんで、少しずつ上手になっていくよろこびを味わっている時って、ほとんどそんなこと忘れている。ベッホと同じで、「つぎのこと」しか考えない無心状態がそこにあるばかり。
そんなふうに、「今、ここ」で、好きなことに打ちこむ。それ自体のよろこびを大切に育てながら伸ばしていった能力や才能は、たとえば「コンクール入賞」とか「資格習得」といったサクセスドラマに絡め取られるどころか、逆に、それが何であれ、今進行中のドラマから自由に自分を引き離す手伝いをしてくれる。「辛いことがあっても、歌をうたっていると、心が晴れ晴れして来る」なんてふうに。
こんなふうに「今、ここ」での体験に沈潜することで、進行中のドラマを全開で演じながら、同時にそこからスルッと抜ける。そのときに感じられる視点を、ここで魂、スピリットと呼ぶことにしよう。スピリットをくぐることで、ドラマの只中にいながら、ドラマから自由になれるし、ドラマそのものを変容させることすらできるんだ。
その変容の仕方には、いろいろあると思うけれど、顕著なのは、執着の喪失と、かろやかさ。それから、一体感だ。
たとえば、楽器演奏でもなんでも、そんなふうに、「今、ここ」で打ちこみながら、やること自体の楽しさを大切にはぐくみながら、少しずつ上手くなっていくよろこびを純粋に楽しんで続けてる。そんな人も、たとえば「受験」とか、「コンクール」といった「ここぞ勝負」みたいな、エゴのドラマがクライマックスとして大切にしてることも、別に避ける理由もないので、参加するかもしれない。でも、このドラマの中にいることしか知らず、ガチガチに緊張している人と違って、ずいぶん能天気に落ち着いていられるし、結果も気にならなっているのに気づくだろう。競争的な雰囲気の只中で、逆にみんなとつながりたい、一体感を味わいたい
現在進行中のエゴのドラマから抜け出て、それを変容させることって、実は、誰しも心の底では望んでることだったりする。だから、そんな人が現れると、みんな「助かった」ってことになるかも。
スピリットから、何かをする時、実はそうなる可能性がとても高い。というのも、スピリットは、エゴのドラマと違って、取捨選別を知らないから。ものの一面、特定の人や目的といった、一面性、部分性を持たず、いつも全方向に放射するのがスピリットの特徴。たとえば先ほどの「辛いことがあっても、歌をうたっていると、心が晴れ晴れして来る」という人。それがスピリットの働きによるものである場合、自分自身に対してそれができるってことは、同時にあらゆる人も「晴れ晴れ」させている可能性が高い。
そんなふうにして、人生の舞台上で起こるあらゆることを、スピリット共に、一つ上の、包括度、抽象度の高いレベルからとらえなおす。そうすることで、ドラマの渦中でそこからすっと抜け出る視点も持つ。そうすることで、人生、はかなり軽やかなものになっていく。
たとえば、誰か特定の人と恋に落ちたら、舞台の外のスピリットの視点から、それを無条件な愛に変容させると、相手をいくらでも自由に手放し、遊ばせることができる。支配やコントロールの要素がぐっと減って、関係はずいぶん楽になるはず。
あるいはゆたかさ。エゴのドラマの中でゆたかさといえば、貯蓄額や収入額の数字を高めるために、狭くて居心地の悪い都市環境で忙しく暮らすなんてシナリオが、一般的といえるかも。そこでは手段と目的が完全に矛盾していることがしばしば。お金のドラマからちょっと身を引いて、舞台の外に出るとは、この場合、たとえば、持ちつ持たれつ、助け合うコミュニティの中で、贈り物づくしで暮らしていくこと。あるいは、地球が本来どんなに豊かか、自然がどんなに気前がいいか、そして美しいかを味わえる環境を、少しずつ回復させながら、じっくり味わい、恵みを楽しむ。そんな農業、ガーデニングをゆるりとしながら生きること。そこからとらえなおされたお金は、ノイローゼの強迫概念というよりも、あればあるで便利な道具、ひょっとすると遊び道具のようなものになるかも。