私の友人の三栗悠己さんが、タイの山奥のパーマカルチャーコミュニティで家族と一緒に暮らしていた時、よく逆ヒッチハイクにあったという。逆ヒッチハイクとは、オートバイや車に乗った人が、歩いている人を見かけると、向こうから車を止めて、乗っていかないかと誘うこと。彼の造語だ。
最初は躊躇してたけれど、思い切って乗って見ると、家族のために買ったお土産を自分たちにくれたりなどと至れり尽くせり。何より、とびっきりのいい時間を一緒に過ごせたりしたとの話。少なくともこれまで危険な目にあったことは一度もない。
人を信じることって、確かにリスクを犯すこと。でも、目から鱗の学び、理解、幸運、新たな繋がりなど、いろんなものを呼び寄せる。
サラリーマンをしていた時の昔の自分だったら、警戒して絶対やらなかったこと。でも、今だったらできる。もし怖がってたら、それでおしまいだった。
自分が決めたバリケートからでれなくなる。新しい発見も驚きもなくなる。
私たちが今住んでる文化は圧倒的に守りでできてる。知らない人に話しかけちゃいけない、ついていってはいけない。どんなことが起こるかわからないから。
国全体では防衛費の増大というかたちで現れる。
それは、周りの人とつながり、心通わせたり、目からウロコの新たな学びをしたり、視野を広げる機会を葬り去って、周囲に壁を張り巡らせて生きる方を選んだということ。
安全と引き換えに!というけれど、本当にそんなことをして安全になるのかな?
だって、自分との間に壁を築いている人がいたら、誰しも、「ああ、自分は信用されていないんだな」って思って心が塞がれてしまう。じゃあ自分もあなたを信用できないですね・・・と無意識のうちにも反応して、向こうも心を閉ざしていく。そうしたプロセスは、逆ヒッチハイクのオファーを断る、好意を受け入れられないといったほんのちょっとしたことから始まるかもしれない。
心を閉ざし、壁を築く・・・というのが繰り返されるうち、相手の本当の姿はどんどん見えなくなっていく。と同時に、壁は、各々が感じる不全感、欠如感を投影して、鏡のように映し出すスクリーンになってしまうから要注意。何かあると、「あの人が悪い」といったなすりつけあいがはじまるのは時間の問題だ。
もちろん、異国で見知らぬ人から、いきなり逆ヒッチハイクの申し出を受けて、乗るのは、ハードルが高い。
でも、自分の住むところで、周りの人に心を開き、信頼関係を築いては、一つずつ壁を取り壊す・・・なんてことをコツコツやり続けることならできる。これも平和のための直接行動だ.一朝一夕では無理だけど、いざとなった時には助けてくれる人が周りにたくさんいる。それだけで、ずいぶん安心して、平和に生きていけるはず。このことは、単位を大きくして、国同士の関係でも言えるはず。
信頼関係を築くといっても、意識的に、計算づくでやるのは逆効果なことがある。とくに注意したいのは、これだけやってあげたのだから、ちゃんとそのぶん、見返りがいただけないと・・・といった取引モードに入るのを避けることだろう。長ずると、相手を操作して、自分の望む「見返り」を結果として引き出そうなんてことになる。そうした下心は、隠しても、言わずとも、相手に伝わるものだし、不信のタネになりやすい。あるいは、相手も開き直り、向こうがそうならこっちも・・・って具合に、互いになんとか相手を利用しようとする駆け引きがはじまってしまう。そうするとほとんど闘い.平和とは程遠くなってしまう。
それに、「取引」の観点から人間関係づくりに勤しむ人は、当然、「見返り」がたくさん見込める人、つまり力のある人に吸い寄せられていく。それはどちらかというと遠くにいる人で、やっぱり打算で集まるたくさんの人にすでに取り巻かれている。ということは、「見返り」を争って競争する必要も出てくるだろう。
心底信頼しあえる人間関係を安心と平和の砦にするのは、そこに暖かさがみなぎっていることが不可欠だ。この暖かさは、見返りを期待して与える「取引」からではなく、無条件に、与えることからしか出てこない。そんなギフトに会うと、自然と心暖まってくるもんね。
といってもやりすぎは、受け取る人に罪悪感を与えることも。自己犠牲としてではなくて、やること自体が楽しいから、報酬がやること自体のうちにある。与えること=受け取ること。”Thank you”と言われて、”My pleasure”って答えるように。つまり純粋な「ギフト」のやりとりがそこにあるってことだけど、そんなギフトの飛び交う場所にすんでいれば、心底安心して生きていけると言えるかも。
そうやってできた暖かい人間関係の輪の中にいることこそ、一番の防衛だっていえる。