ナウトピアのつくり方

平和のために日々できること 1

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平和のために、誰もが毎日実践できることってなんだろうって考えてみた。争わないというのが、基本だってのは、ほとんどの人が同意するはず。でも、和を乱さないために、我慢、忍耐するだけでは、自分に対して暴力をふるうってることになってしまう。争いを原因から絶っていくような生き方がいるといえるのかも。

そう考える時、一つ役に立つんだろうなと思えるのは、「違いを違いのままに、度外視できる力」。これは共通点の方に注意する習慣をつければ自然とできるようになると思うんだ。

たとえば、一人一人の人を、シェード付きのランプと考えてみる。ランプシェードの形や色はそれぞれさまざまに異なってる。でもすべて、光を放つものだというところでは共通してる。暗い部屋を一緒になって明るく照らしている時、それぞれの光は、溶け合って、一つになってる。このたった一つの光に注目するとき、それぞれのランプが全然違ったデザインだったりすることなど、はっきりいって、どうでもいい。

平和な人たちというのは、こうやって、みんな共通に持ってる光を一つに溶け合わせることに目がいく人。みんなで一つ、空間を輝かせているね・・・と確認した後で、あらためて、それぞれ全然違う色や形のシェードをまとっていること。小さかったり大きかったりと、デザインもさまざまだったりするのに気づく。そんなふうに共通な体験の中で、がっちり一つになった後で、目に入る違いは、「良い」とか「悪い」とかいった品定め、ジャッジメントの対象にはならない。違いは違いのままで、ただ、「面白い」。「そこがいいんだよ」ってことになる。

私も調査に入った時など、地球の全く反対側に住みながら、自分と行動パターンや世界観などそっくりな人とあって、びっくりしたことがたくさんあった。意気投合した後、あらためて、お互い、数万キロ離れたところで生まれ育ったこと、全然似ていない外見や、来歴のことを思うと、不思議な気持ちになったり、大笑いしたり。私の場合は、精神的に似たもの同士だったからそうなったわけだけど。誰とあっても、どの国、どの街にいっても、そこにいる人や生き物たちとの間で違いよりも共通したもの、生命の光を見つめて、それを溶け合わすのに余念がない。気さくなく、人見知りせず、誰の中にでもいつの間にか溶け込んでしまう。そんな人は平和をいつも呼吸してる人だっていえるだろう。

でも、ちょっとしたきっかけで、違いばかりが気になるモードになってしまうのも、人の世の常。つまり光が暗くなり、ランプシェードの外観ばかりが目立つようになる。そのとき、それぞれ、似ても似つかぬ違った形をしたランプだってことに気づき、今度はその違いが、気になって仕方がない。悪口を言いたくてたまらなくなってしまう。悪口の理由が見つからなかったら、どんなに根拠薄弱な噂や憶測のようなものでもいいからでっちあげるまで・・・といった具合。

そうしながらやっているのは、自分の中にある欠如感、不全感、そのなんとも言えない嫌な感じを、相手になすりつけようとしているだけのこと。

というのも、それぞれのランプの中には、光を放射するためのスイッチの他に、もう一つ、映写機も入っていて、その中には、このランプがこれまで体験したいやな記憶がいっぱいつまった「イヤイヤ、ダメダメ」ストーリーの映画がいっぱい入っている。光を放射するスイッチが、ちょっとしたきっかけでスイッチオフになると、この映写機の方がスイッチオンになり、周りのランプのシェードをスクリーンに、いろんな「痛ましい思い出」の映画を上映し始める。

それは映画にすぎず、実在ではない。でも、当人には、現実の出来事に見える。映画の中身は、これを映し出している当人の心の中にある一方的なストーリー。これまでの記憶にもとづく思いこみにすぎない。なのに、その人は、そのすべてが、自分が勝手にスクリーンとして選んだ隣人のランプの「せい」に見える。

相手の自分とのちょっとした違い、ちょっとした言動が、わけもなく「むかつく」ものになり、いらつかせるようになる。で、いろんな言いがかりをつけて、非難したくなってくる。いかにももっともな理路整然とした理屈で、自分が正しいと主張することもある。けれど、みんな、単なる言いがかり。だってその人は、自分自身の中にある欠如感、不全感を、そこに鏡写しに見てるに過ぎないのだもの。そのスクリーンになるのは、いつも、相手と自分とのささいな「違い」。つまりランプの光ではなくて、シェードの方だ。

一人がそれを始めると、他のランプも同じことをしはじめ、すべてのランプシェードは、互いが互いに投げかける「イヤイヤ、ダメダメ」ストーリーの映画がどんどん重ね映しにされる場所になる。そんなこと繰り返すうちに、どのランプシェードも、真っ黒。部屋全体もみるみる暗くなっていく。

そんな状態では、毎日が戦場。争いだらけでやりきれない。
というのでよくあるのは、みんなで、いっせいに、自分の中にある「イヤイヤ、ダメダメ」映画を投射する相手を決めて、その人を集中的にスクリーン役にしてしまうこと。「悪いのは、こいつだ!」という具合に。特定人物をスケープゴートにする「いじめ」のはじまりだ。そうすると、それ以外の人たちは、少なくとも表面上、仲良くまとまっていられるから。

直接そこにいない人が標的にされることもある。するととりあえずその場は平穏になるから。垣根の向こうにいる人、特定の地域に住む人とか、特定の社会階層の人や、特定の国の人が標的になることもある。

そうやって戦争も始まる。

これを避ける方法は、ただ一つ。ランプは映写機ではなくて、ランプだったことを思い出し、そちらのスイッチの方を再びオンにすることだ。そうして、どのランプもただ光を放射しはじめると、互いの光が一つになって溶け合って、一緒に部屋全体を明るくしていく幸せが戻ってくる。

ときどき、互いの違いが目に入ることもあることはもちろんある。けれど、一体感が基調にあるので、違いを「面白く」感じることはあっても、どっちがいいかといったジャッジメント、価値判断が始まることはない。

もしそれが始まると、映写機のスイッチが再びオンになった証拠。それまでただ「面白い」ものだったお互いの違いが、なんだかとても気になりだし、いらいらムカつくようになり、粗探しして、批判的なことを言いたくなったら、とにかく退却。自分の中を見つめ直して、そこにぎっしり詰まった「イヤイヤ、ダメダメ」ストーリーの映像フィルムをつきとめてみて。胸をきゅっと締め付けるような痛み、こわばりとして、感じられるから。それがみつかったら、ふっと息を吐きながら、光のスイッチの方をオンにして、明かりを灯す。と、フィルムは光の中で、溶けてなくなっていく。

絶対相手が悪いと思っていたのを、ゆるせるようになる。といってもそれは、相手そのものをゆるすというより、相手を断罪してやまないようなストーリーを投影し続けてる、自分の中にある映写機から、フィルムを取り払うってことなんだ。

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