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手づくりから社会を変えるナウトピア的アプローチ その1 物質的想像力

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ナウトピアは、直接行動するときにともなう体験のよろこびで、持続、拡大しようとする社会を変える運動の総称だ。「難しい理屈は抜きによろこびだけで」なんていうと、いい加減にきこえます。けれど、今の世の中のおかしなところは、人の作ったはずのシステムがひとりあるきして、人を生きづらくさせてしまうこと。手段が目的に取り違えられてしまうこと。先のことをわずらいすぎて、今をおろそかにすること。形ばかり、細かいところばかりが気になって、実質が見えなくなること・・・からなっていないでしょうか。そのすべての共通点は、ずばり、よろこびの不在。ということは、つまり、楽しいことをやりつづけるって、それだけで、社会批判になるのでは? 喜びをつかんで離さない。それは今の世界を生きる人として、実は一番賢いことなんじゃないかとさえ思うほどなのです。

今回はこれを、衣食住の必需品やエネルギーなどをなるだけ自分たちでまかなう自給的な生活に応用して考えてみたいと思います。それらを独占供給する国や大企業の支配に対しては、オフグリットで依存関係を断ち切りながら、自分で作ることで、実際、独立までいけることは、ガンディーのチャルカ運動で実証済み。

最近は、アメリカのコミュニティガーデンをテーマにした『エディブル・シティ』がいい例になってますよね。農薬、食品添加物、遺伝子組み換えなど、食にまつわる問題は、枚挙にいとまがないけれど、自分たちで鋤鍬持って食べ物作り始めれば、その全てが一掃されるだけじゃくて、コミュニティが蘇ったり、エンパワーされた人が増えるといったおまけまでついてくる。

とはいえ、私自身もそうした生活をはじめてつくづく思うのは、自分の感性や発想法が、いかに資本主義の現行システムの中にずっぽり浸かってしまっているかですね。お金を出せば、簡単、便利、手軽に、完成品がぱっと手に入る・・・というのを無意識のうちに期待するのをやめられないのです。たとえば、靴下一つ自力で作るにしろ、ただでさえ忙しいのに、時間がかかりすぎ。待ちに待ってやっとできても、それは消費社会の品質管理に慣れた感覚からすると、不恰好で怪しげなもの。すぐに穴が開いたり、伸びたりします。

ましてや、生活全域で自給自足なんて、とてもとても・・・仮にできたとしても、自分だけやっても、社会を変えるほどのインパクト与えるなんて無理でしょうとシニカルになってしまいます。

ここにこそナウトピアが効くと思うのです。基本はみんなでワイワイ、お互い助け合い、学び合いながらやる、楽しければ続く、やる人も増えるだろうということだけれど、その際、とても重要だと思うのは、よろこびの質を深めていくこと。

今、とくにお話ししたいのは、物や体験の質、素材への感受性を高めることで、自然や歴史へ想像力を培うことができることです。

切り口になるのは、バシュラールの物質的想像力ですね。普通想像力というと、頭の中だけ、あるいはメディアの中だけで展開されるバーチャルな世界だという印象がありますが、バシュラールはあえて、素材としての物質に直に触れることからこそ、本物の想像力が生まれると考えました。たとえば、泥んこ遊びをしながら、子供は、想像力をやしなってる。大地と直につながりながら、そのくみつくしがたいゆたかさや、生命をかくまう気前の良さ、捉えがたい豊かさ、無防備で泥んこになり、汚れてもいいやひらき直った時に感じられる一体感、安心感など。それは一緒に遊んでいる他の子供やそこにいる動物たちとの一体感まで広がるでしょう。

子供時代にそうした経験がたっぷりあると、大地がくまなくコンクリートやアスファルトで覆われてしまうことに対して心を痛める大人に育つかもしれない。これとは別のリアリティがあり、それは生命そのもの、安心そのものなんだってどこかで思い続けていられる。社会変革の生きたタネになる。

そんな経験乏しい都会育ちという人も多いかもしれません。大人になって泥んこ遊びは難しくても、陶芸をつくるといったものづくり、田植え仕事の中で、そうした感覚を味わい、思い出すことができます。そうした手作業の中で泥にまつわる物質的想像力はいくらでも深められていく。深まれば深まるほど、作業はよろこびに満ちたものになる。この感受性を養うことが何より重要。その結果使えるちゃんとお米ができるか、陶器ができるかは二の次と思えるほどです。もちろん、うまくいくに越したことはありませんが。

というのも、逆に成果主義に陥って、たとえば、「結局」、手作り食器だけで、生活できるかとか、無農薬の安全なお米が自給できるかどうかが問題だというふうに結果ばかり考えてると、泥まみれのよろこびといったプロセスの豊かさぬけおちていくでしょう。

繰り返しになりますが、物質的想像力の深まりは単にノスタルジックになる、良い気分になるという話ではないのです。社会変革に必要な批判力を、感受性のレベルで培ってくれる。つまりナウトピアのよろこびになるということですが、そこのところが重要だと思うのです。

そんなふうに、物質的想像力を使いこなした大先輩に、イヴァン・イリイチがいます。彼はダルマシア地方という、地中海岸をイタリアからギリシャにいく途中、旧ユーゴスラビア、今はクロアチアあたりの時間が止まったような田舎の果樹園で少年時代、のびのびと育ったそうです。そこの地元に根を張った古いカトリック色の強い地主の出身です。

そこで培った感受性で近代都市文明をみるので、私たちならあたりまえに見えることの異常さが、あぶり出されて見えてきます。たとえば、採れ立てたリンゴをぎゅっと絞ったとても美味しいリンゴジュースがあると、アメリカである研究者の女性にすすめると、「今日必要な糖分の要求値のすでに上限までとってしまっているから」といって断られたそうです。イリイチにしては、しぼりたてのりんごジュースのエネルギッシュな味に、年にあっても、大地と、季節と自然のつながりなどなどを想像力の中で直に取り戻す物質的想像力のよろこびの体験だったわけですが。その視点から見ると、この女性の応答は、まるで、サイボーグですね。

私たちも、カロリー計算をして、ダイエットしたりします。もちろん持病と戦うために、必要なこともありますが。今の世の中の問題は、こうした、時々は必要なことが、固定観念になって、必要のないところでも、同じ発想で考えてしまうところにあります。たとえば、食事をするたびに栄養計算をしたり、カロリー計算をする。あるいは物質のインプットとアウトプットの流れの中で、機械のようにうごくものとしてしか身体をとらえられなくなるなど。そうやって食べて美味しいでしょうか? 食にまつわる質のよろこび、ましてや物質的想像力は、育ちようがない。イリイチの言葉を使えば、彼女の反応は、私たちの身体が、いかに医療や栄養学によって管理されてるかの表れだってことになります。医師や栄養学者や栄養剤、健康食品、医薬品をつくるビジネスや、特定の健康管理の仕方をシステムとして押し付ける行政の問題だっていえる。でも、それ以上に、私たちの発想法、感受性がそれに過剰適応してしまってる。身体的にだけでなく、精神的にもどっぷり依存してるってわけですが、そうやって私たちは、自分の人生を専門家によってくまなく管理された社会システムに自分からよろこんで明け渡してくわけですね。

そこから抜け出る鍵が、泥んこになったり、果樹園で新鮮な果実をがぶっとかじりながら、物質的想像力を養い、人工的な社会システム、人体管理計算システムとは別の連想をはたらかせ、自然や宇宙や他の人たちとつながることだと思っています。

イリイチは他にも、水にまつわる話もしています。彼にとって水は、単なるH2Oではない。まずは洗礼の水ですね。ガストン・バシュラールが『水と夢』の中で、様々な詩人の言葉とともに呼び覚ましたように、空を見つめ変えず静かな眼差しだったり、重くメランコリックに眠るもの、水浴びする少女たちが溶けたエロティックな水。メキシコ、ラカンドンのインディオたちの間では、雨の水の中には、は、生まれ変わりを待つ死んだ少女の魂が溶けていると思われているとか。そういう話をきくたびに、「そういえば、そんな気もするね」と言ったりするわけですが、物質的想像力を喚起する話は、まったくちがう文化圏から生まれたものだったり、会ったこともない詩人によるものでも、なんとなく共感しやすく、私たち自身が物質に触れた時の体験の深みを養ってくれる。たとえばこの場合なら「水の味わい方」を教えてくれるのですね。そうやって物質的な想像力を養った上での水を使った仕事は、それまでよりもずっとよろこびに満ちた、味わい深いものになるでしょう。

と同時に、水が塩素処理消毒されて、大地をくまなく走るパイプの中を流れ、蛇口から出てくるかたちでしか、なかなか触れない今の私たちの生活、たしかに便利で安全かもしれないけれど、どこかとても変じゃない? といった観点も育ってきます。自然の味方であるはずのエコロジストさえ、水をどう衛生的にリサイクルするかとか、化学物質の有無などばかりを気にしている。物質的想像力が深まってきても、まだ耐えられるような、水について失礼ではない、水とのつきあいの仕方があるんじゃないか? などと考え始めます。私たちが普段、当たり前だって思っていて、ほとんど気づきもしないけれど、知らないうちに私たちの心を蝕んだり、生きにくさの原因になっていることをあぶりだしてくれるのです。

そういうわけで素材をふかーく楽しみながらの手作業は、たとえ単発的なものであっても、最後までやりとげられなくても、社会変革のタネは撒いてくれると思うのです。

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