前半部で、北海道のナウトピアというときに、特徴として記述したことをふたたびまとめてみよう。他にはない何か特別で稀少なものを探して、「何もない」と、場所をジャッジする視点を変えるよううながす。それに参加し続けるうちに、「今、ここ」に、ありのままで、実は何でもあることに気づかせる。とくに私たちの生命をささえるつながりのウェブ、生態的文化的コモンズの充満を感じられるように、私たちの物の見方をやんわり変えていく。そうして視点を変えて、「今、ここ」にあるナウトピアというパラレルワールドを見出せる力を養う。
それを形骸化しやすい理屈や、コーオプトされやすいファッショナブルなかたちとしてではなく、よろこびの純粋な体験の質として、シェアする。
と同時に、歪み、引き裂かれて本当に「稀少なもの」にされてしまったものを修復して、ふたたび「あたりまえ」になるのを助ける。
このすべての要素を圧縮したナウトピア的な運動に、岩見沢市を拠点にした、「みどりのおやゆび・チュプ」がある。設立は2016年4月。現在会員25人のNPO法人。自然の恩恵を受けながら保全している岩見沢市内宮村・上幌・志文の原生林を中心に沢山の方に訪れてもらい「自然を感じ、山の恵みをいただく代わりに山に何か1つお返しをして帰る」という、ギフトのやり取りの中で、山を楽しみ共生を考えるためのさまざまなイベントを企画、運営している。
山を保護するだけでなくて、ギフトをやりとりする関係の中で礼儀正しくお付き合い。私たちも恵みをいただきながら、お返しするのも忘れない。ギフトのやり取りの中で自然と付き合おうとする限り、それを単なる資源とみなし、私たちの楽しみ、利益のために一方的に利用しようなんて姿勢はまずはでてこない。「みどりのおやゆび・チュプ」の佐々木洋子さんによると、活動の中でこうした態度の変化をうながすことこそ一番の山のめぐみへのお返しなんだという。
しかも、生態系そのものの中にみられる循環的な相互依存関係をよくよく観察。その上で、なるだけそれに連なり、延長させるような活動を心がける。せっかくのギフトが、ありがた迷惑なものにならないためにも。彼らの山にどんな生き物が自生していて、どんなニーズ、制約の中で生きているか、まなびの機会も多く持つ。
2016年の夏祭りでは、「すべての生き物の集い」ジョン・シードやジョアンナ・メーシーらによって考案されたディープ・エコロジーのワークショップも行った。参加者一人一人が、この山の生き物のどれかに成り代わり、会議に出席するというもの。自分が選んだ生き物の生態をあらかじめ調査・観察を重ね、想像力のなかで一体化した上で、会議にのぞむ。人間の視点をできうる限り脱中心化しながら、山の自然について、学びと気づきを高めるいいチャンスになった。
この会の活動の様子を伝えるものとしてここでとくに紹介したいのは、この山で、たまたま稀少で商品価値のあるものが見つかった時の彼らの反応だ。クサギという、知る人ぞ知る、染色家の垂涎物の貴重な染色材料になる木が、山に自生していた。木そのものは実際よく見かけるものではあるけれど、染色材料になる実をならせるためには、ミヤマカラスアゲハという黒いアゲハ蝶がいる。また、この蝶が育つためには、幼虫の時に食べる柑橘系の木がいる。柑橘系の木で、山にもともと自生しているものはないかと探すと、キハダの木があった。というので、まずはキハダを、クサギと一緒に植林を始めた。クサギめを成り立たせる生態系のつながりを修復するところから、入っていったのである。
苦労の甲斐あって、実際、ミヤマカラスアゲハも増え始め、飛んでいるところに遭遇できるまでになった。
羽はぼろぼろでも、ちゃんとクサギの花から蜜を吸って、受粉してくれてる!
染色材料になる実を実らせるクサギの木も、それに伴い、増えていった。
となると、クサギ染の里として、町おこしにつなげたいという野心、湧いてくる。ただ、染色材料としてのクサギや、染物を、それだけ取り出して「名物」として販売するつもりはないという。むしろ、染物をささえる生態系コモンズ全体を一緒に体験し、味わってもらう。みんなにこの山に来て、ここで、一緒に山キハダの植林をして、臭木染を成り立たせる生態系のつながりを修復するプロセスをともにする。実を集め、つぶし、染めるという作業工程に参加してもらう。その中でもちろん他の恵みも楽しむ。
実際、私も去年、東京からのお客様と一緒に染物に参加した。クサギの実を摘んでつぶして、染色するほか、山の栗をひろったり、原生林を散策したり、クサギ染めをなりたたせてくれる生態系のつながり全体を体験する貴重な体験になった。
つまり、稀少な染色材料を使った商品を売る代わりにこれを支える自然のつながり全体を見てもらう。そしてこの稀少なものが、稀少性を失い、「あたりまえ」の「どこにでもあるもの」にするためのプロセスに参加しもらう町おこし戦略なのだ。
経済効果は断念したように見えるけれど、実際には、来て全てを体験してもらった方が、宿泊、飲食してもらえるわけで、染物プロダクトだけを売る場合より、町全体にまんべんなくお金が落ちるかもしれない。
「希望」に生きる!
(上幌の山の原生林にて。染物イベントの後で、東京からのお客様と一緒に。photo by Aiko Kimura)
しかしナウトピアの観点から見て重要だと思われるのは、この手のプロジェクトの中で発信され、シェアされる体験の質だろう。
イヴァン・イリイチは、近代化の歴史を、「希望」hopeが衰退し、「期待」expectationに座をゆずるプロセスにみる。彼の言う「希望」とは、自然や運命や人など、私たちの生存や幸福を決定的に左右しはするけれど、私たちが完全にコントロールすることは決してできないものに対して、祈るような気持ちで、それが「善」であると「信頼」し、「私たちに贈り物をしてくれる」と、望みをかけることだという。
しかし近代化が進むにつれて、そんなあてのないことなどしていられない、重要なことはすべて、人間の計画、管理下において、安定供給できるものにしようとした。蛇口をひねると水やお湯まで、いつでも手に入るように。そんなふうに人工的なシステムの中で予測した通りの結果を手に入れることを、「期待」が満たされるという。たとえば食べ物が必要ならスーパーやレストランに行き、出したお金に見合う品質のものが手にはいれば、「期待」通りというわけだ。
これに対して、たとえば蒔いた種が、忘れた頃に発芽して、土を破って可愛らしい芽が顔をのぞかせているのに遭遇して小躍りするのは、「希望」のよろこびだ。植林などした甲斐あって、「ミヤマカラスアゲハがいたよ!」というよろこび、生態系が修復されて、生き物が確実に増えて山が賑やかになっていく様子を見届けるよろこびも、こちらの部類に属する。あるいは、どうしてもまとまらない作品を完成するためのインスピレーションがひらめいた時のアーティスト、晴れの舞台の成否。大切な人との人間関係が崩れてもうだめだと諦めていたところ、時がたつにつれて仲直りできたときのよろこび。狩猟採集民が、獲物に遭遇したときに感じたよろこびでもあるのだろう。
結果を人工的にコントロールしつくす「期待」の領域拡大につれ、「希望」に頼って生きることは確かに少なくなったけれど、自然や、創造性の世界、人間関係の肝心なところは、まだまだ「希望」の領域にある。相次ぐ災害などの体験は、「期待」されるものの領域が、結構もろいことを暴露してきてるし、経済の領域すら、複雑で予測不能、蝶の羽ばたきのようなかすかなショックで、恐慌の引き金が引かれるような今日の金融資本主義のありさまは、「期待」なんてできたものではないといえるかもしれない。
たとえば夢をかなえるための資金を得るために、アルバイトするのは、「期待」の下に身を置くことだけど、人からのギフトを祈るように待ちながら、自分もギフトを贈り続けるというのも、「希望」の中で生きて行く選択だ。「希望」は、無償で与えられる恩寵に対する祈りと、それが与えられたときの感謝からなっている。
ギフトエコノミーやクラウドファンディングが静かなブームを巻き起こしているのは、「希望」の中にしか、全人格を揺さぶられるようなよろこびは体験できないことに、みんな気づき始めたからなのかもしれない。「希望」で生きる時、願いを託し、つながるのは、まさに宇宙全体。たとえば、蒔いた種が芽を出すには、太陽や水、土壌や微生物など、無数の要素が絡んでくる。その中にはもちろん、私が感知し得ないものもあるし、また機が満ちる必要もある。夢がかなったり、アート作品が完成したりするときもそう。自分の気付かないところで、いろんな人が、動いてくれてたおかげだったりする。
これに対して「期待」は、然るべき場所に行ってお金を出せば、それに見合ったサービスや商品というかたちで即座に満たされるけれど、その時私たちがあてにするのは、行政やコマーシャリズムがあらかじめ用意してくれた人工的なシステムの網の目だ。そこで得られる満足も、予測可能な域からは一歩も出ない。安定供給してもらえるのはありがたいけれど、その分、依存しがちで、災害などの有事のときに供給がストップすると、パニック状態に陥ることになってしまう。
「期待」されるものへの依存度が高まると、私たちは、だんだん無力な存在になり、サービスや商品の欠陥に目くじらをたてることも多くなる。「希望」で生きるほど、私たちの生きる力は増していく。結果をコントロールすることはむろんできないけれど、できるだけのことはやろうと、相手を理解し思いやろうとするし、思った結果が得られなくてもじっと機をうかがいながら待つ忍耐強さもし、できるだけのケアをして、あとは恩寵を待とうと思う。思いがかなった時の感謝の気持ちは、私たちを謙虚にしていく。
この姿勢は、「みどりのおやゆび・チュプ」というこのNPOの名前の由来にもあらわれている。チュップは、アイヌ語で「太陽・月」という意味。会の母体になったのは、2013年原発事故を切っ掛けに持続可能なエネルギーでの生活を岩見沢の町作りとリンクさせようと発足した「自然エネルギーを考える会」という、代替エネルギーを促進するための会。そこでテーマになった太陽・月といった自然のめぐみの根幹にあるものを、北海道人としてアイヌモシリの歴史を忘れないでいようという意味で、アイヌ語で呼ぶ命名をしたのだそうだ。
「みどりのおやゆび」は、いたるところにある目には見えない種に触れる事により、花を咲かせる事が出来る指を持つ少年チトが、町中に花を咲かせて人々を幸せにするモーリス・ドリュオン作の物語の題名からとったとのこと。この話のように、山を訪れた方が笑顔と心の中にある「平和の種」にふれて「平和の花」が咲き、その花の種が世界に広がる事を信じて活動しているとのこと。
平和や生命の尊さを、特定のスローガン、イデオロギー、手続きといった制度化されやすい形を通してではなく、「触れる」(そういえば、英語で触れられる touched といえば、「感動する」ことだ)、直接体験を分かち合うことを通して広めようとするところも、ナウトピア的だ。
とくに、宮村の森に一部残っている原生林が、メンバーの心の拠り所、一種の聖所のような場所になっていて、イベントや来客の折に、何はともあれ体験して欲しいと、みなでとりあえず、原生林を味わいに行く。実際、そこに生えているもの虫や鳥の鳴き声の多様性、にぎやかさ、調和、全体をみなぎるエネルギーといった点で、森の他の部分、他の森と全然違う。森に親しむほどこの違いもわかるようになる。生き物たち同士、そして私たちをつなげる相互作用的な調和も、肌で感じられるようになる。
これも、今は稀少になってしまったものの、本来あたりまえだったものだ。