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『奇跡のコースとナウトピアの出会いー精神と社会の錬金術』4

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「特別なもの」からの解放の鍵はそれを求める心の中に

「これさえすれば、すべての問題が解決して、あなたは幸せになれます、健康になれます、能力を発揮できるようになります」といった甘言に引っかかってしまう背景には、自分はこのままではいけない、こんなはずじゃないはずだと自分で自分を裁くことがやめられないのに気づくようになります。ダメだダメだと自分に言い聞かせ続ける、このセルフ・ジャッジメントの癖は、思いの外破壊力があり、私たちがいつもなんとなく意気消沈して「ああ疲れた」と思う、隠れた、一番の原因じゃないかと思うほどです。たとえば、大学にいた頃、とにかく雑務が年々、多くなって、大学入学試験の監督の仕事など、研究、教育とは直接は何の関係もないようなことで、やらなきゃいけないことが山積。おかげでいつも疲れていたのですが、今思うと、実際には仕事そのもので疲れたというより、その嫌な仕事をしている間、絶えず「自分はこんなこといつまでも続けてちゃいけない」「早く終わらせて、本当にやりたいことしなきゃ」といった自問自答で疲れてるふしがある。で、疲弊してしまって、仕事が終わったあと、本当にやりたかったことをやるエネルギーが切れてしまい、それがそれでますます「こんなんじゃだめだ」と自分をまた裁くのをやめられない、悪循環におちいって、エネルギー枯渇気味でした。それが苦しくて、何か「特別なもの」を約束してくれる甘言にのって、健康法でも、稽古事でも、自己実現的なメソッドでも、とにかく何かはじめてみる。今は、別段効果感じられないけれど、いつか、素晴らしくなれると約束してくれてるし、本当にそうなるかどうかは疑問、またそれまで自分が続けられるかどうかは疑問だけど、とりあえず何かやっているときには、「このままじゃいけない」と自分を裁くことから、一時的にでも解放されるから。実際には先延ばししてるにすぎなかったりするわけですが。

そんな仕事も辞め、好きなことをいくらでもできる状況になり、ナウトピアやACIMについて考えるようになった今、つくづく思うのは、結構、自分はいい線いっていたこと。なぜなら、「人生、こんなはずじゃない」と思っていたということは、「想像を絶するようなもっとすごい生き方ができるはず」という予感もあってこそのことで、そのこと自体は、正しかったと思うからです。

ただ間違っていたと思うのは、「想像を絶するようなもっとすごい生き方」を、「今、ここ」以外に求めていたことと、それに何か特定の「かたち」があると思っていたことですね。それは意識のフォーカスを、「おそれ」から「愛」に、エゴからスピリットにちょっとずらせば、いつでもどこでも体験できるものです。この「ずらし」がゆるしです。ゆるしとは、私が「今、ここ」を、たとえば、「つまらない雑務に縛り付けられている」というふうに、ある特定の仕方で体験していて、たとえばイライラしてる、焦ってる。その「特定の仕方」「かたち」から、さっと身を引いて、度外視できるようになる。それまで頭にきていたことが、「どうでもよくなる」のです。ゆっくり息を吐くと、私たちの体はリラックスしますが、それに似ています。息を吐き、リラックししながら、今、握りしめてる緊張してこわばった知覚、現実に対する決めつけ、思いこみ、その特定の「かたち」から身を引いて、自分を解き放つ感じです。

その時に何が体験されるかは、その時次第。「愛」にはかたちがないし、とらえることができないものだからです。でも、「あっ変わった」というのは、わかります。胸に暖かな幸福感や感謝の念が湧いて来たり、満たされた気分が広がって、うっとり酔いしれたようになり、周りのすべてのものを愛撫するように、ゆっくり味わいたくなったり・・・。あるいは、実際にはあわただしい場所にいるにもかかわらず、突然すべてがやさしい、やわらかな光に照らされ、すべてが調和し、静けさに浸されて見えてくるので、自分がまるで絵画の中にいるように思えてきたり・・・。それはすべて、「そんな気がした」以上のことにはなかなかなり得ないし、ほんの一瞬、かすかに感じられるだけに過ぎないかもしれません。それは、「かたち」にならないので、計測したり、ずっと持ち続けてる保証を得ることはおろか、掴んだり、握りしめたりすることもできません。それはいわば体験の実質そのもの。だから「かたち」を信じている私たちのエゴは、せせら笑い、そんなのあてにならないと重要視したりはしないでしょう。そんなものにかかずらっているより、「究極の癒し」「究極の自己実現」を約束してくれる「無敵」のセミナーに、高いお金を払って出かけた方が、あてになると思ったりするかもしれません。そうしたすべての、ゴールそのものの尻尾を、今、垣間見たというのに!

かすかに、「そんな気がした」ようにすぎないように思えるこの「愛」の体験も、ゆるぎないものにする方法があります。シェアすることです。と言っても相手がかたちにならないものなので、シェアするには、その場その場にあるものすべてを利用しつくし、即興的な表現をするしかありません。ちょっとしたしぐさ、たあいのない冗談がきっかけで、いやーな仕事を、黙々とやる職場の雰囲気ががらっと変わり、ほんの一瞬でも、愛からなる世界の住人へと、その場にいる人みんなを、引き込んでいくのに成功するかもしれません。とくに。バカに思われるかもしれない、恥ずかしい・・・といったおそれのヴァリエーションを乗り越え、心理的な防衛一切抜きで、むき出しの信頼や、気持ちを表すようなことすべては、強力な愛の表現になります。例えば通りで思い切って、まったく見ず知らずの人を助けた後に、とても幸せな気分にひたされたことはないでしょうか? 克服したおそれが大きいほど、愛の体験も深まるようです。といっても、愛はかたちにならないので、型どおりのことをすればいいというわけではありません。ほんの小さなことで、強力なシェアができるかもしれません。

つまり、いやーな雑務に埋もれているときにも、すべて、できることだったんです! つまり私は必ずしも仕事を辞める必要はなかったのかもしれませんね。

逆に、嫌な仕事を辞めて、今度こそ自己実現するぞ!と決意したのはいいけれど、そのときの自己実現のイメージが、エゴが大好きな「特別の」かたちにコテコテ塗り固められている場合、脱サラしたことでおそれの世界に、これまでより深くはまって抜けられなくなってしまうかもしれません。たとえば、小説家になって賞をとって、成功して、ベストセラーになって・・・のような特別のシナリオを追いかけてるような場合がそうです。そんなふうに「特別な」結果を期待すると、そのこと自体がおそれの源になってしまいます。そんなことになるくらいなら、いやーな仕事に埋もれたまま、これを「ゆるし」ながら、一瞬一瞬丁寧に、「愛」から生き直すことを続けた方が、ずっと解放的だったかもしれません。

では私はどうすればいいのでしょう? 求めている究極のものは、いつも、今、ここに、ありふれた、あたりまえの日常の中にあること。ゆるし続けることでそこにアクセスすることはできるけれど、そこで体験されるもの自体、かたちにならないし、とらえられない。つまりそれ自体は「特別なもの」にはなり得ない。そのことをまずは認めようと思っています。

その代わりそれは、「今、ここ」をともにするあらゆるものの中に、透かし見ることができます。それは、ものの「かたち」というより暖かな質感の中に、ソローガンよりも体験の実質の中に直接感じることができる。

と同時にゆるしのなかで垣間見られた愛の世界のかけらを、ひとつひとつ、シェアし続けることを怠らない。天国は、実はいつも、今、ここのあるのだけれど、それを見る目や、実現する手足がないだけ。それで、みんなそれに気づかないとACIM で言っています。その目や手足を提供する仕事は、やめるわけにはいきませんよね。大学の仕事を辞めた分、意識してこの仕事にコミットする必要がありますよね。

つまり、舌足らず、下手くそでもいいので、これまで身につけた語彙や概念すべて総動員。手元にあるもの全て使って、「ハチドリのしずく」のように、自分にできることをやり続けようと思っています。例えば今のように。

ナウトピアの運動の直接行動でも、同じことが言えると思います。持続可能なエネルギーに切り替えようという謳い文句は、「かたち」の世界にありますが、焚き火の炎は、未来を煩わず、過去を嘆かず、ひたすら「今、ここ」に生きること、つまり「愛」から生きることをはじめたときにはじめて見えてくる体験の実質です。それをシェアできれば、それはもう拡大せずにはいられない。というのもそれは、みんなが一つの生命の流れに合流する場をひらくからです。体験のこの実質をうまくシェアするため、今、ここだけに集中できるようなフレーミング、ワークショップ、イベントづくりの手腕が試されるところです。でももっと本質的なことは、世界の趨勢が旧態依然としていることに対する怒りや、犠牲者意識からくる嘆きや復讐心の一つ一つをゆるしていくことでしょう。焚き火の炎の暖かさのような体験の実質に集中することで、それもできると思うのですが、そのためのムードを盛り上げる工夫も必要かと思います。

「現実はかくあるべきだ」という自分の暗黙の期待を一瞬一瞬相対化し、手放しながら、「特別なもの」ではなく、今、ここに、たまたま目の前にあるものの中に、愛からなる世界を透かし見ては、これをシェアする。こうした生き方を続けることで、何が始まるのか、自分がどこへいけるのか、正直言って、私にはわかりません。

でも、ゆるしの道を歩き始めて、エゴを少なくとも相対化することをはじめると、自分がコントロールできること、予測したり計画できることは、紙に描いた書き割りみたいなもので、大したことがないことが分かってきます。「愛」にゆだねて、未知の世界を手さぐりしながら進むよろこびに比べれば、ですが。

それに、根拠のない自信というか、私は大丈夫という安心感はあります。ゆるしは、心にうかぶ様々な思いから「おそれ」の縁取りを取り払い、二元論を取り払うことで、私の心の一部に過ぎなかった思いを、私の存在全体に溶け込ませていきます。その時生まれる安心感こそ、「愛」の体感だっていえるかもしれません。脱力して、落下にすっかり身をゆだねても、ちゃんとやさしく受け止めてくれるものがある、そのことに気づき、また、その気持ち良さの味をしめてしまったので、さらにコントロールを手放して、もうちょっと高いところから飛び降りても大丈夫なことを確かめて見る・・・そんな感じです。信頼しきって赤ちゃんのように無防備になり、「愛」の懐に抱かれる・・・そんな他力本願で大丈夫なの? という声も聞こえて来そうですが、その「愛」の源泉は、今、ここで、自分の中に見つかるのですから、逆に外部の何者にも頼らなくていいってことでもある。おまかせすればするほど、何でも自分でやる力が湧いてくる。これがゆるしの道であり、愛の道だと言えると思うのです。

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