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『奇跡のコースとナウトピアの出会い 精神と社会の錬金術 3』

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隠れたおそれ

とりあえず人生の大半、自分の期待通りにうまくいっていて、問題が見当たらない、ゆるしの対象も見つからない人も多いかもしれません。私もそうでした。とはいえ、ACIM のワークをはじめて自分のおそれをしっかり見つめるようになると、それまで自分では幸せのあらわれだと思っていたことにも、べったりおそれが張りついているのにも、気づくようになります。

体がぎゅっと縮んでいて、それが疲弊感や凝り、冷えのような、不定愁訴のもとになってるのにも気づきました。縮み上がった身体の方にまず気づき、「なぜだろう?」と問い返して、知らないうちにとてもおそれていたものがあったってことに、あらためて気づかされるなんてこともしょっちゅうです。

中でもショックだったのは、愛している、大切にしていると思っている人ほど、自分が実は、ものすごくおそれているのに気づかされたこと。たとえば、長年一緒に暮らしているパートナーがいて、彼とは別段何の問題もなく、うまくいっているのですが、実は彼がたとえば家に戻ってきて、足音が近くだけで、自分の全身が総毛立ったり、その一挙一動に、びくびくおびえている自分に気づくようになってきました。

なぜそんなことが起こるのか考えてみて、思い当たったのは、自分の「外」にあるものに、自分が幸福でいられるかどうかの主導権を完全に握らせてしまっているというのは、とてもおそろしいことだということです。自分の「外」にあるというのは、自分のコントロールが効かないということですから。いつ、ふといなくなるかわからないし、病気になったり事故にあって死ぬ可能性だってあります。私を棄てていきなりどこかへ行ってしまったらどうしよう? 病気になったり事故にあって死んでしまったらどうしよう?そうしたものに、生死を託すほど依存するなんて、自殺行為じゃないでしょうか? つまり「あなたがいないと生きていけない」というのは、ロマンティックに聞こえますが、ACIM的にいうと、「愛」というより「おそれ」の領域に属するものなのです。

この種のおそれが高まるほど、少しでも安心していられるための保証が欲しくなります。つまり自分の期待通りのかたちに相手がおさまるように相手を理想化、偶像化すると同時に、そこから逸れないように、コントロールしたい気持ちが働きます。

相手に夢中になり、自分を幸福にする全ての力をその人にあずけてしまえばしまうほど、注文通りの姿で相手が現れないと、逆上してしまう。熱烈なファンほど、恐ろしいものはなく、何かのきっかけで期待がはずれ、幻滅すると今度は攻撃するようになる。ジョン・レノンもそうして殺されましたよね。そこまでいかなくても、「可愛さ余って憎さ百倍」、大切な人とほど、怒りを爆発させ、喧嘩しがちになるのは、よくあることではないでしょうか? 

直接攻撃はしなくても、「あなたが私の期待通りでいてくれないせいで」、「愛してくれないせいで」、私はこんなに苦しんでいる、辛がっているのよ・・・と苦しんでいる様子を見せて、相手の罪悪感をあおるという鬱屈した攻撃を仕掛けているのに気づくこともあります。そのとき、私たちが抱える何かネガティブなものーーあらゆる欠如や不全感、体調の悪さなどが口実として持ち出され、フォーカスをあてながら、苦しみのポーズを見せつけ相手の罪悪感をかきたてる芝居をするのに利用しつくされます。するとはじめはこじつけじみたものでも、これを続けるうちに、これらのネガティブなものは、増幅されて、支配的な現実になってしまいます。ACIM では、それが多くの病気の原因になっているともいいます。

先ほど見た「ゆるし」が、こうしたネガティブなもの一切から、自分の幸福に影を投げかける力をすべて消していったのの真反対のプロセスですね。ACIM でいう「愛」はこれとは逆に、自分の期待通りに動いてくれない、自分を十分愛してくれているように見えない相手を不断にゆるし続け、度外視するのを助けてくれる力です。どんなに失望しても、自分が無視されていると思えても、それを瞬時に忘れて、無条件の愛、信頼に立ち戻る心の体力のようなものです。その力は、災害現場でも、焼け野原でも、状況にかかわらず、自分の「中」から渾々と湧いてくる生き抜く力。と同時に、自分の「外」にある状況に左右されない、ゆるぎない幸福感の源泉です。ようするに、この手の依存状態の泥沼は、ACIM的には愛とはなんの関わりもない、対極にあるものだといえます。

ただ、この依存状態がある限り、自分の中に本当の「愛」の源泉を見つけ、そこから生きていくのは不可能になります。だから、本当に詳しく分析してあります。ACIMで「特別の関係」special relationship と呼ばれるものです。自分にとって「特別」な人が「特別」な状態であることで、自分もその力にあやかれる。そこに自分の幸福や、アイデンティティまで託してしまう関係です。相手がたとえば「自慢の息子」のような身近な生身の人相手の時は、葛藤が生じやすく、問題として自覚されやすいのですが、ペットのように口答えしない動物だったり、教師や指導者、医師やヒーラー、メディアの中のスターやスポーツ選手といったちょっと遠い存在だったり、それを手に入れ、身につけることで、自分も特別な存在になったという幻想にふけらせてくれる様々な商品、ファッション、車、家など、ものが相手の場合は、ほとんど気づかれもしません。あるいはこれ「さえ」守れば健康になったり美しくなるだけでなく、すべての問題が解決し救われると食事法や健康法も、特別の関係の一種だといっていいと思います。

これについて語り出すとまたきりがないのですが、ナウトピアとの関連の中で、一番問題になるところに焦点をしぼりましょう。それは、この関係の中にある限り、自分をおとしめ続けなければならないということですね。自分が自分でいられるにはどうしても、それが、その人が、これをしつづける必要があると、おすがりするわけですから。その度に、それなしでは、その人なしでは、自分は何もできない、何者でもないと、暗黙のうちに自分に言い聞かせ、無力な存在におとしめていることになります。

つまり、特別の関係の標的を熱烈に追いかけるほど、幻滅させられる可能性が高いだけでなく、無力感も増して、疲れてしまう。これだと自律性も、クリエィティビティも発揮しようがありません。

それでも−—私自身、ずっとそうだったのですが−−特別の関係の対象を、次から次へとジプシーのように渡り歩きながら生きていくのをやめられないのはなぜでしょうか? そんなもの一切なし、自分を飾リ、強く見える武装なしの裸の自分に向き合うのをとてもこわがっているからなのかもしれません。でもそうしたおそれの雲を払えば、先ほどから話しているACIMでいう愛の源泉が自分の中に見つかり、そこから渾々と愛が湧き始めた時に感じられる生命感、力、よろこび、ゆたかさは、特別の関係の標的になった代用品の数々をすべて色あせたみすぼらしいものにみせるはずなのですが。それは、どんな状況下でも、いつも、そこにあるものです。でも、それを間違えて自分の「外」に探し求め続ける限り、そのことにともなう「おそれ」の雲に覆われて、こちらの真の愛の源泉は見えないし、アクセス不能になってしまうのです。

特別な関係は、それを追いかける本人を無力にするだけでなく、その標的の価値もおとしめることになります。もちろんそれらは「特別なもの」として崇められだからこそ欲望の対象になったわけですが、その「特別さ」は、追いかける人の権勢誇示、自己顕示の道具として役に立つ限りでの「特別さ」に過ぎない。権勢を誇示してくれる、自慢できるようなその一面だけが重要、それだけが求められているわけで、相手をまるごと、無条件に愛しているわけではない。そこにあるのは愛というよりエゴイズムです。たとえば、美女の妻も、美しい時期をすぎたら、極端な話、重荷となり捨てられることになる。それでも相手にとって必要であり続けようとすれば、たえず自分が相手の役に立ち、意に適うことを証明しなければなりません。すると自分を見失うことはさけられません。親が押し付ける「特別」な期待に応える「いい子」であり続けようとして、自分が一体何をしたいのかさっぱりわからなくならない子に育ってしまったというのも、その一例です。

『ナウトピアへ』では、代表民主主義の手続き、たとえば、選挙制度が批判されています。その様々な理由は、本を直接読んでいただくこととして、この文脈で言えることに話を絞れば、このやり方では私たちと政治家との間に「特別の関係」の要素が入りこんで、おそれに満ちたもの、私たちの無力感を増し、自律性を削ぐものになりがちなのが、問題だと思われたからです。自分たちの未来を政治家に託し、おまかせしては、期待通りに動いてくれないと怒りを爆発させ、無力感を味わう・・・その繰り返しは、自分の「外」にあるものに自分の幸福を預けてしまう、これまで見てきた関係性のバリエーションの一つだといえます。

中道を見出すーーすべては自分の中に

じゃあ、選挙に行くなとか、愛する人とは、皆、別れよ、大好きなスターが出てくる映画やコンサートに行くなとか、食事に気をつけるのもすべてやめてしまえ・・・と言っているかというと、そういうわけでもありません。

自分が何かにすがりついていることに気づいたら、とにかくゆるす。自分の期待通りに動いてくれない相手をゆるすだけでなく、そんな相手にいつの間にか執着・依存して、思い通りにならなかったらどうしよう・・・とおそれで身震いしてる自分もゆるす。

このゆるしを本当に根気強く続けているうちに、自分の中の「愛」の源泉がひらいてきます。その兆候として、相手をぎゅっと握りしめ、しがみつこうとしていた手がゆるみ、関係全体の風通しが良くなること。それとともに、遊び心やユーモア、笑い、よろこび、思いやり、感謝の念が湧いてきます。

同じ人と付き合ったり、一緒に暮らしているかもしれませんが、そのトーンはずいぶん、変わってきます。アラン・コーエンは、この変化を「あなたのせいで私は死ぬ」から、「あなたのおかげで、私は生きてます」と言えるようになること、というふうに見事にまとめてくれています(『今まででいちばんやさしい<奇跡のコース>』フォレスト出版)。

恋人と特別の関係の中にいるとき、私たちは、「あなたがいないと生きていけない」と相手にしがみつきます。そして、相手が自分の期待通りに動いてくれない、とりわけ、自分を愛してくれていないと思うと、「あなたのせいで自分はこんなに苦しんでる」と、相手に苦しむ姿を見せつけ、罪悪感を抱かせようとします。その極端な例が、自分を「捨てた」相手に見せつけるための傷心自殺、「あなたのせいで私は死ぬ」でしょう。そこまでいかなくても、犠牲者意識を募らせ、相手に罪悪感を抱かせることで何とかコントロールしようとするのは、特別の関係の常套手段です。

ACIMでは、そんな私達を決して責めようとはしませんし、自分を責めろとも言っていません。それこそおそれやおそれを心に根付かせる罪悪感をあおることになるからです。ただただ、ゆるすようにとすすめています、そうした一つ一つの痛みや攻撃を丁寧にゆるしはじめると、自分の「中」の愛の源泉がひらかれてきます。そこで湧いてくる愛の中には、生命のつながり、相互依存性(仏教でいう縁起、「ご縁」ですね)の洞察が含まれている。そこから、「あなたのおかげで、私は生きています。ありがとう」と自然に言えるようになる。

「あなたがいないと生きていけない」というのと、「あなたのおかげで、私は生きている」というのは、一見似ています。実際、自分の前にいるのは、同じ人かもしれない。でもこのちょっとしたトーンの違いに、おそれから生きることから、愛から生きることへの決定的な転換があるのです。

ACIMはそんなふうに癒された関係を「神聖な関係」と呼んでいます。ただ、「神聖」なんて言葉を使うと、仰々しく聞こえますが、実際には、ありふれたこと。ささやかな日常生活のいたるところで、「特別な関係」をゆるしつづけ、「神聖な関係」へと癒していく転換は起こりえるし、実際起こっているんじゃないかと思っています。

もう一つ、重要な違いとして、「あなたなしで、生きていけない」というときのあなたは「特別な」あなた。単数形でしかありえない執着の対象ですが、「あなたのおかげで生きています。ありがとう」というときの「あなた」は単数形から、複数形へ、みんなへとひろがっていくところがあります。というのも、神聖な関係の中であらわれる「あなた」の中に私たちは、生命のつながりを見るからです。宇宙大に広がる生命の織物の中の、たまたまある一点に今目を走らせているのだけれど、それを通して宇宙が見える感覚です。特別な関係の中のものは「これこそ有名な・・・」みたいなニュアンスで、定冠詞の“the”がついているけれど、神聖な関係の中のものは、全体の中の、たまたま目に入った一つの例にすぎないという意味で、不定冠詞の“a ” がついているといえるかもしれません。その点、メルヘンの中に出てくるものに似ています。歴史的な記述は、西暦何年、どこどこの国の、何か「特別な」人について語ります。時空を特定した定冠詞ずくめの世界です。これに対して、メルヘンは、「昔々あるところに、ある・・・」と、不定冠詞ばかりではじまり、登場人物は固有の名前を持たず、ただ、王や王女、少年や少女と呼ばれる人物と動物たちからなってる。でもまさに、そのせいで、「それは、私かもしれない」、「今、ここでも起こり得る出来事」として、身に迫ってくる。距離のないつながりの世界が姿を現します。こうした普遍性は、「愛」がものを見るときのまなざしの特徴であるともACIM は語っています。

「愛」は、「おそれ」と違って、おおらかで、ものに執着しないだけでなく、一つ一つを切り離し、どれかを差別したりと選り好みするようなことはない。だから「愛」からなされることは、一見、一人の人にたいしてなされていても、それは愛の大海の一つの波頭にすぎず、これとつながる全ての人にむけてなされている。「あるとき、あるところで、<たとえば>こんなふうにあらわせるかもしれない」という、一つのたとえのようなものですね。

そういう点、『ナウトピアへ』で私が紹介した、パブリックスペースで通りがかりのあらゆる人と、初対面でも旧知の間柄のように一緒に協働作業をはじめたり、相手選ばずフリーフードを振る舞い歓待したりする運動などとも、とても親和性があります。「愛」から生きていると、自然とそうしたことがやりたくなるのではないかと思えるほどです。特別の関係の閉塞感とは逆の完全にひらかれた世界が生まれるのです。

話を元に戻しましょう。特別な関係は解消しなきゃいけない、だから選挙に行くなとか、愛する人とは別れよとか、大好きなスターが出てくる映画やコンサートには行くなとか、食事に気をつけるのもすべてやめてしまえ・・・と言っているのではないという話でした。なぜならそれも、一つの執着。否定的状態ではありますが、それと新たに特別な関係を結ぶことを意味するからです。

特別な関係を超えるとはむしろ、癒されたり、幸せを感じたりするのに、自分の外側に何かを探し回る必要はまったくない。それは、いつでも、どこでも、好きなだけ自分の中から湧き出てくるという洞察や実感と共に生きていくことだと言えるかもしれません。欲望から「おそれ」の要素が消えると、自然にそう感じるようになります。

しかしどうやって、と思われるかもしれません。ここで登場するのが「ゆるし」です。

私たちが何か欲望を持つとき、ふつう、いつもそこには、「思い通りにいかなかったらどうしよう」というネガティブな期待もついてまわります。つまりおそれに縁取られてる。あるいは二元性の世界の中にあるということですが、そうやってふらふら揺れている限り、安心できないし、今、ここですでに体験されるものにはなり得ません。

でもそうして、「今度こそ、思い通りになってほしい」「でも、またダメかもれない」と、期待とおそれの間でゆれる自分を、そのまま認めて、「ゆるす」こともできます。そのとき、自分が本当に求めていたものが、特別性から解放されて、体験の純粋な質として、すでに「今、ここ」にあると思えるようになってくる。

例えば、カタログの写真などを眺めていて、ある服がとても欲しくなったとします。先日、私にそういうことがあったのですが、そのとき、まず思ったのは、「今さら、こんな風に欲望に翻弄されている自分」って「情けないな」ということ。で、まずはその気持ちを「ゆるす」ことにしました。

すると見えて来たのは、どうして自分がその服に惹かれたかということ。英国調のツイードの服と合わせたセーターで、胸には炎が燃えているような編み込み模様がついてる。背景には古い石造りの建物と木々が見える。それらを背景にたたずむ、落ち着いた、知的なモデルの様子や表情・・・それらがなぜだか、今の自分を強烈に惹きつける、その気持ちに注目して、いろいろ言い換えてみます。連想するものすべて、書き出してみます。品位、落ち着いた感じ、時間を超得た感じ。歴史上のたくさんの人たちが感じたインスピレーションがこだまする、天井の高い壮麗な建物の中にいるような感じ。心の中にゆらめく火が、必然的なもの、永遠のもの以外は、すべて焼き尽くしてしまった後・・・などなど。そんなふうに、このカタログ写真のどこに私が惹かれたか、その要素を抽出しながらふくらませていくうちに、だんだん、気持ちは、「特別のもの」としてのこのセーターからだんだん遊離していきます。想像力の中に浮かぶこの世界の方がずっと強烈で深い奥行きを持っていて、私を夢中にしてくれる。このセーターはこの世界の余韻を私に知らせてくれる影にすぎないのではないかとさえ、思うようになります。

そんなふうにイメージを膨らませながら、胸の中にある自分の心の聖所、「こんなにも愛され、守られている・・・」という記憶の住処にそれらのイメージを招いて、この聖所にある光や暖かさと混ぜ合わせみました。

すると、これらの性質は、すでにここに、自分の中にふんだんにあって、決して失われることはないという気持ちが湧き上がって来ました。そのことに気づいた瞬間、自分がこれらの性質を身につけ「特別」になるには、ぜひこのセーターがいると自分お思い込ませて来た欠乏感、欲望を縁取り、きゅっと縮こまらせていた「おそれ」が消えて、ゆたかで満ち足りた、感じが、心の中でどんどん広がって生きました。おそれの縁取りが消えて、二元性の世界から解放された時、この感覚は、膨張性を持って、溢れ出て来ます。それにつれて、自分はこれを持っていない、だから欲しいと思っていたのでしたが、実は、これが表す性質は、私の中にすでにあって、溢れ出て、表現のはけ口を探している。だから私はこの写真になんとなく惹かれたんだとさえ、思われてくる。

と同時に、「今、ここ」の自分の周りのものが、すべて、なんとなく、自分が今、自分の中にあると求めた質で浸されて見えてくるのに気づかされました。たとえば、赤い色眼鏡をかけるとすべてが赤く見えますが、ちょうどそれと同じように、散らかった部屋は散らかったままあのに、そこにあるすべてが、たとえば、なんとなく落ち着いた品位をたたえて見えてくる。

おそれから、二元性の世界から解放されて、体験の純粋な「質」になるということは、それと名指せるような部分的なものであることをやめること。その代わりに、私のまなざしを、ものの感じ方、知覚全体を変化させてしまうということでもあるからです。

そんなふうに、すべてが落ち着いて、品位を讃えて見えてくると、すると当然、それにふさわしく居住まいをただし、振る舞いたいと思う。気づいたら片付け始めてる。というより、自然にあなたの中から、そのときそうした振る舞いは出てくるはず。そのときたまたま近づいてきた人も、周囲に発散されるそうした雰囲気に、知らぬ間に感化されて、しっとり落ち着いてくるかもしれません。

一瞬の気分として、儚く消え、忘れられて終わるかもしれないこの発見を、生き生きつなぎとめておくために、何が必要かがわかってきます。シェアすること、自由に表現することです。

もとはといえば、「特別なもの」、一枚のセーターに欲望をそそられ、喚起された欲望ですが、そこで求められていたものの本質を極めることで、絶対安全な場所、おそれの手の届かない場所、つまり自分の中にすでにあったことに気づく。そのときそれは、自然に表現されて、他の人とシェアすることができる純粋な体験の質になり、あらゆる「特別な」敷居を超えて、広がらずにはいられません。たとえば、「英国風のツイード服に合わせた炎を思わせる編み込みの入ったセーター」というと、多くの人には無縁の「特別なもの」。個人的な趣味の域を出るものではありません。でも、体験的に生きられ、内から発散されるその質、たとえば、落ち着き、品位、必然的なもの以外は、抜け落ちた永遠性・・・といえば、性別、年齢、性別、年齢、国境などあらゆる特別性を超え、さまざまなかたちで表現することができます。

特別な関係を超えるとは、特別欲望をそそられる全てを放棄しなきゃいけないということを意味するわけではないという話に戻りましょう。それは、むしろ、癒されたり、幸せを感じたりするのに、自分の外側に何かを探し回る必要はまったくない。それは、いつでも、どこでも、好きなだけ自分の中から湧き出てくるという洞察や実感と共に生きていくことだと述べました。

それは大変な解放感ですし、お金もかなり節約できます。「究極の癒し」、「究極の健康食」などを求めて、あれがいい、これがいいとおしゃべりする友達の傍らで、そうしたものはすべていらないとわかった自分の自由をありがたく噛みしめることになるかもしれません! 何といっても、楽です。そこで生まれた余剰のエネルギーはクリエィティブな発信力として使うことができます、そして、それまで癒しや幸せを感じるため是非とも必要だと思いこんできたすべて、つまり特別な関係の標的にしていたものとの関係も、自由なものに変容していきます。だから関係を断ち切る必要なんてどこにもない。先ほど感謝や一体感について触れましたが、遊び心や、平等な友情関係として、関係の変容があらわれることもあります。

たとえば、政治家を応援するときも、「その人に未来をたくす」というより、欠点もあり間違うこともある平等な人間と相手を見た上で、同意する点も多いから、友人として協力しましょうというスタンスになるかもしれません。

私の先ほどのセーターの例で言えば、結局、似たようなものを自分で手編みすることにしました。それには時間がたっぷりかかるし、うまくいくかどうかもまったくわかりません。少し編み進んでは、気に入らなくてほどいたりしなければならなくなるかもしれません。でもその間、私が感じた英国調のしっとり落ち着いた、時間を超えた、知的な世界を、存分味わい、展開させることができます。それを楽しむためにも、セーターと関わるのをやめないことにしたのです。「たかがセーター、されどセーター」といったところでしょうか。そんなふうに、一旦自分の中で、求めるものの体験の実質が見つかった後は、それを増幅させたり、分かち合いながら、楽しむことができます。人やものとの関わりも、自由で、創造的なものになります。その「特別」なあらわれに依存的にしがみつく必要など、もうありませんから!

私のパートナーはアーティストですが、あそびは仕事の種だというのが口癖で、世界を楽しむことにとても貪欲です。でも、それはのちの表現の糧。いつ、どのように生かされるかは予測不可能で、コントロールできたりするものでもないそうですが・・・そんな創造者としてのスタンスで、好きなもの、喜びを与えてくれるものに向かっていけば、「特別な関係」におちいりようもありません。これはブッダが、惑溺と禁欲の間のバランスとして説いた「中道」のスタンスに通ずるものがあると思っています。

画像は、大井敏恭 Mentalese 

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