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ナウトピアと『奇跡のコース』の出会いがもたらす社会変革への錬金術

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(Photograph by Kyoichi Watanabe)
社会を変えようとするとき、私たちは普通、現状にはないものを求めています。つまり「今、ここ」を「理想から程遠い」と否定した上で、「なんとかしなくては」と、代替案を持ちこみます。このアプローチ、一見、当たり前に聞こえますが、実はそこに社会がなかなか変わらない原因があるんじゃないかって考えるのがナウトピアの立場です。

私たちがいるのは、「今、ここ」だけなのに、それがいつも否定され、価値剥奪されてしまっては、新しい世界を作る自信も、力も湧いてきません。ナウトピアという言葉はそもそも、utopia now 「今、ここにあるユートピア」を縮めたもの。「今、ここ」にすでにあるもの、体験できるものの中に、新しい世界の萌芽を発見したり、表現することです。たとえば、地球温暖化や食の安全性の問題について、みんなを説得するのも大切だけど、何はともあれ、コミュニティガーデンをつくって、食べ物を育てる苦労やよろこびを共にしてみようよというのは、ナウトピアン的な方法です。言葉ばかりによる説得は、「今、ここ」で味わうことができるよろこびが口コミその他で広がっていく勢いには、とてもかないません。あるいは、電気をいつもつけっぱなしにする同居人に省エネしなきゃと口をすっぱくお説教しても、反感を買うことがしばしばですが、一緒に焚き火を起こして手をかざしながら「やっぱり、火っていいね。これに比べると電気は冷たいね」と切り出すとすんなり通じるところがあります。絵の具をたっぷり筆につけないと絵が描けず、線がかすんでしまうように、「今、ここ」に、新しい世界のエッセンスを、わずかでも、萌芽的にもまるごとふくむ体験を、共に味わいながら育てていくことからこそ、世界は変わるというのが、ナウトピアのやり方です。

これに対し、「今、ここ」にないものを、言葉や思想による説得から始め、「あらしめよう」とすると、そこで伝えたいものの実質とはあまり関わりのない「手続き」の迷路に迷い込む危険があります。説得の後には、多数者の指示を得て選挙に勝って、法律変えたり条例をつくる権力を手に入れる・・・というふうに。その間に妥協による妥協を重ね、疲弊したり、手段が目的化して、結局何がやりたかったのか見えなくなってしまうといった危険もつきものです。

しかしナウトピアのやり方をとると、この種の間接性や、手段と目的の分離はあり得ません。なぜならナウトピアの実践プロセスの一歩一歩にゴールが含まれ、ゴールが有効であるかの検証プロセスでもあり、またその成果の蓄積でもあるのですから。

とはいえ、今ここにないものを求めるのは、人の欲望の常。それに、こんな世界の中に理想世界の兆しをみようとするのは、焼け野原を見ながらそこにすでに生えてる草を見逃さずにして、それが森になるまで助け、見守ろうとするような注意深さや忍耐、あるいは無から素晴らしいものを生み出すアーティストの才能が必要といえるかもしれません。誰でもできるように理論と体験で、これを支えてくれるようなものが、ないものかと目を光らせていたときに私が出会ったのが、『奇跡のコース』(A Course in Miracles以下ACIMと略)です。これは、アメリカ、コロンビア大学で心理学の教鞭をとっていたヘレン・シャックマンという人が、1965年から72年にわたり、心の中に響いてくる声に従って書いたスピリチュアルなまなびのための本です。大部の書物ですが、あらましをあえて一言でまとめるなら、「この世の私たちのすべてのいとなみは、愛からによるものか、おそれからによるものか。愛から生きるようにしよう」というもの。

そして「おそれ」から生きるとは、ものがあるべき状態に「ない」という不全感、何かが足りない、「欠けている」という欠如感、そこからくる不安、焦燥感に駆り立てられている状況のことを言います。たとえば、半分だけ水が入ったコップを目にした時に、「半分もある」と考える人がいる反面、「半分しかない」と考える人がいるように、これは現実そのものがどうであるというより解釈の問題で、どこを見ても欠如や不全なものばかりが目につく心の状態があるというわけです。

それがどこからくるかというと、「神」とACIMでは呼ばれる「本当の自分」、「生命」の源泉とのつながりが切れた(と自分で思い込んでる)せいで、そんな自分の状態を周りに投影してしまうから。そういう時、私たちは、過去のしがらみに引きずられたり、未来の心配にわずらわされはするけれど、「今、ここ」にだけはどっしり安らうことができません、しあわせを感じることができない状態といってもいいでしょう。

そんなふうに「おそれ」から生きていると、人生のほとんどが、実質的な生というより防衛のバリケードを張りめぐらせることに費やされる。あるいは保証をもとめて、実質をともなわない「形」ばかりを追い求めることに費やされることになるとACIMではいいます。たとえば誰かとの愛を感じるより、結婚指輪を手に入れるための策略をめぐらせる。ゆたかさを味わうより貯蓄額が気になる。日々誇り高く、尊厳ある生活をするより、社会的地位のある職につくのが大事。なんでも「形」として持たないと安心できないないので、そのために「今、ここ」で、その実質を感じることを犠牲にする一種の「取引」をやめられません。しあわせそのものを味わうよりも、「いつか」それを味わえるようになるための条件づくり、状況づくりにいそしむ、といってもいいかもしれません。でもしあわせは「今、ここ」でしか感じられるものではないとすれば、結局、それを先送りにしてばかりいては、永遠に手に入ることはない。虚しい幻想の世界をさまようばかりで、そのための営みは全て無駄だってことになります。

その代替案として提唱されているのは、「生命」の源泉とのつながりを再び取り戻すことで、求めるものを抽象的な「形」としてではなく、体験的な「実質」として、「今、ここ」で感じられるようになること。つまり結婚指輪や貯蓄額や地位より、愛やゆたかさや尊厳そのものを味わうことです。平和のスローガンを掲げながら闘うのではなく、花を配ることです。生命とのつながりさえ取り戻し、自分の求めていたものが体験の質としてありありと感じられるようになれば、それは自分の中にすでに無限にあることに気づくし、自分の周りにもその兆し、萌芽がいたるところに顔をのぞかせているのが見えてくるでしょう。

何か欠けているものがあるとすれば、それをそれと認めて世話したり、目に見えるように表出させて、みんなと体験をシェアすることで、大きく成長させていくこと。つまり表現者として生きることだけなのです。そうすることで、微かな萌芽としてしか感じられなかったことも増幅されていきます。体験をともにして味をしめて、自分でもはじめる人たちの間で増殖していきます。つまりナウトピアをつくるとき、その根底には、おそれではなく愛から生きることがあったのです。「欠如」を嘆くのではなく、「今、ここにあるもの」から輝きを引き出し、「かたち」を追いかけるのをやめて「実質」を生きると言い換えてもいいでしょう。

難しく見えますが、たとえば、愛情をこめて誰かに対すると、やはり愛が返ってくる。喜びを与えると、喜びを与えられた人は別の誰かに同じものを自然に与えることになる、そんな当たり前のことを続けるというのが基本。先ほど、欠如感から「形」を追いかける人は、「取引」の世界で生きていると言いましたが、「実質」の世界に深く入っていくには、惜しげなく自分のすべてを差し出し、与え合うことで一つにつながっていく「ギフト」の精神が鍵になります。

すでにお分りいただけたかと思いますが、同じことが、私たちが、現状批判して社会を変えようとする時にも言えないかというのが、ナウトピアのアイデアなのです。

ACIMはそんなふうに、ナウトピアの理解を助けるためだけでなく、どうすれば、それがつくれるようになるかといった実践的な方法のアイデアも豊富です。ACIM のプログラム全体が、おそれから愛へと、人生の舵を取り直すためのレッスンなのですから。

その中でもすばらしいのは、私たちが抱くおそれそのものを、道具として使って、愛へと変容させる錬金術的なテクニックでしょう。愛されたい、お金が欲しいといった個人的なものから、原発を止めたいといったものまで、私たちが抱く欲望の全てを、すでに萌芽的に感じられる成就の体験の表出に転換することで、新しい世界をつくるクリエィティブなエネルギーとして使い尽くすことができます。

このイベントでは、こうしたスピリチュアルな自己実現テクニックによって、ナウトピアの建設が加速化される可能性についてお話、ディスカッションで理解を深めと同時に、ちょっとした瞑想したり、体を動かしたりといったワークも行うことで、まずは何よりそのエッセンスを体験してもらえればと思っています。

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