私が今、本拠地の一つにしてる田舎町では、商店街はウィークディーの日中もみんなシャッターをおろして死んだよう。昔からある個人商店で残っているのは電気屋さんくらい。それまで待ちの顔だった老舗さえ姿を消した。代わりに量販店、とくに百円ショップばかりが、巨大化してる。「他店がここより安ければ差額を払います」というスーパーさえあるくらい。そうしたところに卸している業者の人の話を聞くと、世にも残酷な状態で、たとえば、気候不順などで仕入れ値が高騰しても、同じ価格でしか買ってくれないので、売れば売るほど赤字が出ても、卸し続けなければならないこともあるとか。「一円でも安く」買いたいと、値段ばかりを追っかける消費者は、もちろんそんな裏事情について考えはしないだろう。そんなインターネットを開くと、同じ商品の最安値をチェックできるサイトもある。
勤め仕事をやめて、現金収入はここ2年間のうちにぐっと減った私のこと、安くものが買えれること自体、ありがたいのだけど、「一円でも安いもの」を追っかけてると、気持ちがだんだん荒んでくる気がして、この手の店はなるだけ行かないことにしてる。いらないもの、無駄なものを買わずに済ませたり、自分や周りの人が、いらないものをリサイクル、リメイクしてお金のいらない生活をした方が、スマートでクリエィティブだし、エレガントだなって思う。また、少々高めでも、知っている人が心を込めて、丁寧につくったものを買って、大切に使い、壊れた時には修理を頼みながら長持ちさせることで節約した方が、人間関係もやしなえて、心ゆたかに生きていける。ゴミも出なくて環境負荷も低いというおまけつき。
「一円でも安いもの」を追っかけてると、気持ちが荒んでくるのはなぜだろう。自分の方ではなるだけ「少なく」出して、向こうからなるだけ「多く」を手に入れようと目を走らせる癖がつくわけだけど、それって基本的に、「奪う」発想だからだ。
でも、そういう人たちは同時に、やっぱり、「一円でも安く」労働力を買いたいという、同じく「奪う」発想の資本主義の競争の中、低賃金で長時間こき使われている人たちでもある。そんな彼らが、今度は自分の方が「奪う」人になって、生産者や卸売業者を苦しめながら、一円でも、ものを安く買おうとする。この「奪う」連鎖は、本当に悲しいもので、延々と続けば続くほど、その一切の元凶である資本主義の利潤追求マシーンはビクともせず、ますます巨大化するばかり。
この「奪う」連鎖を突き崩すナウトピアン的なやり方は、逆に「贈る」発想でできた経済圏を仲間内で作って、少しずつ広げていくことだって思う。
たとえば、大好きで、心から尊敬してる近所の家具職人さんが、注意深く管理された地元の森の木で、丹精込めて作った手作りの家具。私の収入には不釣り合いに高額だけど、とても素敵。普段の付き合いから、その誠実な人柄を知っていて、信頼している。またいつもお世話になってるし、彼もハッピーになると私もうれしいし、これからも末長くいい家具が作れるように買い支えたいので買うことにしましょ・・・と買い物する時、その時に払うお金は、「奪う」ためではなくて、「贈る」ものになる。彼との人間関係も深まって、たとえば、いつか私が困った時には、私のものを買ってくれる可能性がある。それをあてにしているわけではないけどね。
私が『ナウトピアへ』という本を出した時、それが税込3240円もするので、北海道の田舎でマイペースな自営業(カフェ経営や有機・自然農業や職人やアーティスト)して生活している私の友達には、ちょっと高すぎるな・・・と思って、売り込む気もぜんぜんなかった。にもかかわらず、噂を聞きつけ、迷いもせずにあっさり買ってくれるので、びっくりしてしまった。
なぜだろうって思ったのだけど、そういえば、私自身、必要なものがあれば、なるだけ彼らから買うようにしているし、友達を連れて彼らの店や工房に行って、ビジネスを広げる手伝いを普段からしてきたから。当たり前といえば当たり前のこと。でもそうしてきたのは、私の方が何かを売る立場になった時に買ってもらおうなんて下心があったからじゃない。彼らの仕事を評価、尊敬していたからと、純粋に彼らが好きだったから。素朴なことだけど、ここにあるのは「奪う」のではなくて、「贈る」経済圏であるのは確か。
このぽかぽかしたつながりが充満した世界から、ときどき抜け出て、看板ばかり巨大で、いつでも撤去できるような仮住まいのようなつくりをした、「1円でも安く」ものを買うための量販店が立ち並ぶ、ごみごみした主要自動車道路などを見ると、あまりの違いに唖然としてしまう。浦島太郎が竜宮城からもどってきたときの気分もかくやという感じだ。
というわけで、まずはなるだけ「贈る」発想でお金を払う、そんな取引が交わされるコミュニティに身を置ければ、って思う。単に私がそうしたいからというだけじゃなくて、そういう人たちが一人でも増えて、「贈る」発想で支え合いながらお金を使う経済圏をどんどん大きくしていくことが、この悲しい連鎖からみんなで抜け出る、いい道だって思えるから。
地元の人たちと主に経済活動をする地産地消、ローカリゼーションは、「贈る」経済と相性がいい。ローカルに根をはるということは、人間関係、信頼関係を育むことだから。地元の自然を破壊したり、有害物質を垂れ流したり、人を酷使して「奪い」嫌われるやいなや、商売は成り立たなくなってしまうから。とはいっても、必ずしも、ローカルな人とでなければ「贈る」経済ができないとは思わない。離れていても、長く信頼感のある取引をすることは可能だって思う。
もちろん、自然から、人から「奪う」発想でどんどん膨れ上がる巨大資本とつながっていないことは絶対必要だって思う。でも、独立した自営業者でも、よりいいものをつくりたいという職人気質や、人との信頼関係、つながりを育てることよりも、それらを犠牲にしても利潤を膨らます方に重点をおくと、もう立派に「奪う」経済圏の住人だってえいえる。
「贈る」経済圏のいいところは、どんな生産も、元をたどれば行き着く自然(製造業の場合)や、新しいアイデアなどのインスピレーション(知的労働の場合)などの性質ともうまくかみ合うところだ。太陽の日の光にしろ、雨にしろ、自然は全く無償で材料を与えてくれるし、インスピレーションも、それが得やすい状況づくりはできても、最終的にはただ与えられるもの。コントロールもできなければ、対価も払いようがない。この生理に忠実に、そのまま人間の世界にも延長させて、経済圏を築こうとすれば、「贈る」発想がやはり主体になる必要がある。
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「贈る」発想でものづくりしたり、対価を支払うよろこびの深みにはまるに連れ、お金の存在に矛盾を感じるようになってくる。
まず、よろこびが最大になるのは、「すべて」を贈りあう時だってことに気づかされる。
「やらなきゃいけない」からと、いやいやながら、やっつけ仕事をしているときは、ストレスも高まり疲れる。
でも、それよりずっと長時間の重労働をしていても、好きなことを、よろこんでやっているとき、力の出し惜しみをせず、自分の持てるもの「すべて」をこめて仕事する時は、不思議と疲れないものだ。もちろん身体は一時的に疲れても、休息すれば、パワーアップ。やればやるほど元気が出るのに気づく。
これこそ職人気質の醍醐味。それ自体、何の問題もないけれど、量産することはできないし、オートメーションややっつけ仕事で量産されたものと価格競争に入ると、ひとたまりもない。もちろんそんなの見向きもしない人を顧客にした「贈る」経済圏にどっぷり浸って入れればいいけれど、現在の状況では、そんな人、まれだろう。
買う方には別の矛盾が生じてくる。買う喜びが最大になるのは、そこに最大の価値、「すべて」を認める時、心奪われ、魅了され、恋に落ち、このためには、全財産を投げ出してもいいって思う時。値切ること、値付けることは、これに対して、それにジャッジメントを下して、「すべて」だったものを、比較できる部分的な存在に貶めてしまうこと。
でも、全財産は一度しか投げ出せないのが現状だ。そんなしあわせな買い物をしながら毎日生きていくことはできない。
お金さえ介在させていなければ、出し惜しみせず、今自分がもってるもの「すべて」をこめた贈り物を、いくらでも送り合えるのにね。生そのものは、無限で、無尽蔵だから ギフトの世界に生きるとは、この無限の世界に、経済活動をふたたび戻し、解き放つことだということができるかも。お金が間に入ってると、そこに有限性の枷がかけられ、飛翔がさまたげられる。
でもお金を介在させないギフトのやりとりでは、「すべて」を部分的な存在に貶め、値踏みする、このジャッジメントを取り去ることができる。いや、ジャッジメントを取り去ることができないと、ギフトって本当の意味では受けとれない。
ギフトのいい受け取り手は、期待していたものとは別のものを差し出されても、それがいらないと思っても、他ならぬその人から、たっぷりの気持ちとともにこれが贈られたというその事実だけで、大喜びして受け取れる人。何が起こっても、風の日も雨の日も日々是良日。測り難い神の意志も、最終的にはよきものをもたらしてくれると、喜んで受け取る人のように。エゴによるこのコントロールを徹底排除したこの態度が、別の次元の底抜けのよろこびの端緒をひらく。
ギフトを贈り手に関していえば、そのよろこびが一番高まるのは、自分の「すべて」、自分自身の生き様を、「すべて」の人に贈ること。表現すること。そうすることで、自分を、それまで知らなかった自分の深い部分を明るみに出し、あらためて知ること。これも、ジャッジメント、値踏み、評価されること、受けを計算していては、なかなか自由にできないことといえるかも。