ローカリゼーション

持続可能な生活は、我慢というよりおつきあい

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(由仁実験芸術農場の洗濯物干場。環境負荷ゼロに近く、普通の物干し立てのようにコンクリートの重しをつけなくても、根っこが生えてる分、まずは倒れない)

田舎にいるときの私は、札幌にいるときより、たぶん、エネルギー消費随分低いはず。まず、食卓にのるものが、すべて地元のもの。家の庭で採れた豆とじゃがいもは、毎日のように食べてるし、お茶もハーブティーは庭でとったもの。春から秋まで、少なくともベリー類の果物は、常時何かしら実ってる。スーパーに行くように、「今、何かないかな」と、食べ物求めて庭に出て行く習慣がついた。
それ以外は、無農薬・無化学肥料で栽培している近隣農家に直接買いに行く。頭の中に、「今頃、〜農園に行けば、・・・を分けてもらえるはず」というカレンダーができてきたので、農家をめぐるお買い物も無駄なく効率的にできるようになってきた。もうちょっとたくさんずつ買いいれたら、マーケット運営ができるかも、と思うくらい。

私もとしさんも、基本的に無農薬のもので暮らしたいので、スーパーに行くのは、基本的に最後の手段という感じ。無農薬でやっている農家、探せば地元にもたくさんあるのだけれど、地元のお店、スーパーには、ほとんど置いていないのだ。

そうやって暮らし始めて3年も経つと、季節ごと、というより週ごとに、この土地で収穫でき、食べれるもののカレンダーと、その美味しい食べ方のレシピブック、採れすぎたものを無駄にしないための保存食つくりの作業工程などが、頭と体に染み込んでしまう。すべて何てことのない、平凡な繰り返しなのだけど、「やっぱりここで、暮らしているんだな」という土地との一体感、地に足ついた安心感がじわじわこみ上げてくるのが、気に入ってる。

それに、おつきあいの楽しみも、たっぷりある。野菜を買いに行った先の農家の人との立ち話。摘み取る前の畑の野菜の姿を眺めて、親しめる。庭で育っていくものは、そのすべてのプロセスにも関われるし、愛着や感謝が湧いてくるし、生命の不思議、驚異に敬虔な気分にさせられることもある。そういった自然とのおつきあいも満載なのだ。

そうやって暮らしを楽しむうちに、気がついてみると(私はコーヒー、としさんはチョコレートがやめられないのがネックになっているけれど)、口にするものほとんどが、5キロ圏内。食べ物すべて地場産でまかなったら、一世帯あたり、消費する全エネルギーの2割省エネしたのに等しいそうだけど、楽々それくらいは、行っててるんじゃないかな。

で、たまに街のスーパーに行くと、真冬なのに夏野菜があったり、年中イチゴのケーキがあったり、トロピカルフルーツがならんでたりして、びっくり。それはそれで楽しいし、口にすることはあるけれど、ここ数年の田舎暮らしで育った味覚と身体感覚が、受け付けなくなってしまった。まず風味がなくて、まずい。それに、何となく、体が拒絶する気がする。

口にするお水は、すべて近くの湧き水を汲んで使うようになってから、水道水との関係もだんだん希薄になってきている。皿洗いと洗濯、お風呂やシャワーにはお世話になるけどね。ボイラーのスイッチを入れてお湯が蛇口から出るようにするのは、1日に1時間だけ、お風呂かシャワーに入るときだけにしてる。節約、省エネしたいというより、蛇口さえひねれば、水だけでなく、お湯さえ出るというのが、現実と遊離してて、何となく気持ち悪くなってきているから。

季節外れの作物や冷凍食品、加工食品(昔ながらの作り方でつくったものはのぞく)は、トラックや空輸で遠くから取り寄せてたり、ハウスで暖房したりと、エネルギーがいっぱいかかっているのは周知の通り。いつでもどこでも、どんな状況でも「欲しいものは何でも手に入る」、どんなに寒いところでも、「蛇口をひねれば24時間いつでも、即、お湯が出る」。そんな快適さを求めて、持続不可能な都市型近代生活がエネルギーをじゃんじゃん浪費しながら、今もいとなまれてる。私もそれにどっぷり浸かって暮らしてきた。でも、このままじゃダメなんだっていう気もあって、もっと省エネしなきゃとか、いろんな快適さ、便利さ我慢しなきゃと心のどこかでやましい気分をかかえてきた。

でも、半自給的な田舎暮らしをはじめて、実際にかなりの省エネを達成してから、ふりかえって思うのは、「改める」とか、「諦める」とか、「禁欲」に走る感覚とは、かなりちがうこと。むしろ、身の回りの現実と、きちんとおつきあいするって感じかな。この地球上の、特定の土地で生きている私たちは、私たちの生命を支えてくれているコンテキストがある。四季のめぐり、自然の恵み、生きていくのに必要なものを労働してつくってくれている人たち・・・田舎で暮らしてると、すべてとは言えなくても、その大部分が目に見える。だからきちんと向き合って、おつきあいすることができる。おつきあいしているから、相手の事情も見えてくる。相手の都合がいいときに、必要なものを分けてもらおうとするのは当然だし、相手を困らせるような、無理な注文も自然としなくなる。それが礼儀だから。たとえば、真冬にナスが食べたいなんて、思わなくなる。我慢しているというより、おつきあいの対象が、目の前にいるわけだからね。いろいろ思いやることが出てくるけれども、感謝したり、一緒に喜びを分かち合うことも多い。

こちらから、都会で、いつでもどこでも欲しいものが魔法のように手に入る「便利」な生活をしている人たちを眺めると、この地球で、他の数百万の生き物たちとゆたかに、感謝しながら、一緒に生きていくという壮大なコンテキスト、関係を一切断ち切った、孤立した真空のカプセルの中で、非現実的な夢を見ながら、生きているだけのように見えたりする。迷惑だけかけるってところだけ、周りとしっかりつながりながら・・・ね。だからどちらかというと、気の毒なことの方が多い。

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