社会三分節論

シュタイナーの経済論とギフト・エコノミー

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社会三分節論をひも解いていて、一つ感慨深かった・・・というか、厳しいことを言うなと思ったのは、「精神労働者は贈与で生きるべし」とされていること。というのも、私は物書き、パートナーは絵描き。お金にならないなりに、なんとかやっていこうとしているのだけれど、「そんな悪あがきはやめて、あきらめなさい」と言われているよう。

 

ただシュタイナーの経済論で言えば、「贈与」は、資本に投入される「融資」としてのお金、必要物資や労働力に習われる「決済」としてのお金と同等の経済プロセスの中のお金の重要な流れの一つとされてる。もうちょっと細かく言えば、決済したあと残る剰余価値は全て精神生活への「贈与」に当てられるべしとのこと。まさに知識人のパラダイス。

 

そこには、ただ、ちゃんとした根もがある。剰余価値が生まれるほど生産性を発揮出来るとき、その背後には、精神生活の支えがあると考えるのだ。それは、新しい技術や機械の発明といった直接的な形をとることもあれば、微分法の発見といった、それらすべてを可能にするもっと根本的な貢献もあれば、生きがいを与えたり、価値観を更新したり、何をなすべきかについて再考を迫るような、文化、芸術のいとなみも含まれている。

 

ついでに言えば、シュタイナーの経済論では、資本はそれを一番、生かす能力のある人の元になければならない。資本を託された人のその能力が首尾よく発揮されるときに、剰余価値が生まれる。キャピタル、ドイツ語だとカピーテルの語源「頭部」が連想させるように、精神的な能力に、いつも寄り沿って動く双子の兄弟のようなもの。だから投資された資本が膨らんで、再投資に必要な分を差し引いてもあまりが来る場合、その分を精神生活に流しこみお返しするのも筋だってことになる。

 

剰余価値を生み出せるほど、立派に管理した人たちのおかげだから、彼らがまずはその恩恵を受けるべきではないかとも思うけど、シュタイナーの描く理想社会では、資本はそもそも私有されてはおらず、非営利の連合体の管理の下にある。だから剰余価値が生まれても、それを私用に着服したり、埋蔵する主体はないので、すべて精神生活の担い手や機関へと流れこむ。

資本を生かせる能力のある人は、その能力を発揮する限り、管理者としての権限を持つけれど、それができなくなったら、資本は、これを生かせる力を持つ別の人のところへ随時動く中立的なものになるのだそうだ。とても理にかなってると思うけれど、そもそもどうやって始めればいいのやら。

 

ただ、精神労働者の立場からすると、精神生活がそうした贈与の原理で支えられるべきだというくだり、心情的にはとてもよくわかる気がする。アメリカの詩人、ルイス・ハイドは『ギフトーエロスの交易』という本の中で、英語でギフトという言葉に「才能」と「贈りもの」という二つの意味があるのは偶然ではないこと。才能を発揮することで成り立つ仕事は、それが真正なものであればあるほど、贈りものの原理で動くことを示している。まず、仕事ができること自体、たっぷりギフトをもらっている。世知辛い世の中で、絵を描いたり、文章を書いたりしながら生きていけるのは、その間、生活必需品を作って支えてくれてる人あってこそ。また精神労働の極まるところおとずれるインスピレーションの体験そのものが。「私が書いたのではない、私を貫いたギフトの風が書いたのだ」というロレンスの言葉にあるように。どこまでも自分が空っぽになり、謙虚に膝まづくことができないと、そもそも近づけない領域なのだ。

 

また、真剣な創造行為になればなるほど、私たちはそこに自分のすべてをこめて贈ろうとする。しかも、特定の人のためでなく、すべての人、すべてのもののために。そうしてはじめて、天のギフトの扉も開き、インスピレーションの流れに合流することができる。

 

またそうやって働くことそのものの中にある喜びが、すでに対価として余りある、自分ってなんて恵まれているんだろうって、感謝することしきり(といっても、喜びだけで、お腹は満たされないことは確かだけど・・・)

 

そうした一切が、「自分はこれだけ仕事のしたのだから、これだけ対価としてもらう権利がある」といった通常の賃金労働の態度を寄せ付けない、全く異質の世界なのだ。だってそれだと、仕事は、「自分のため」にやることになってしまう。自己完結したエゴの領域に閉じ込められてしまう。「すべてのもののために」働くことが何よりも必要とされているのに・・・ そんな精神労働の実感にふさわしいなりわいのあり方は、「すべてのために働いて、すべてから生かしてもらう」という世界全体に開いたあり方。あらゆる人たちの労働の成果から生まれた剰余価値が混ざり合って、精神労働者達を生かすというシュタイナーの構想は、その実感にかなり近いところにあるかも。

 

でもそう言うと、「通常の賃金労働者」を見下しているように聞こえるかもしれない。けれど、シュタイナーによると、そもそも、あらゆる労働は賃金と分離されるべしとのこと。彼の理想が実現されると、そもそも賃金労働者はいなくなるのだ。

 

というのも、労働はすべて、他者への献身。みんな、自分のためにではなく、人のために働いてる。とすれば、その人に必要なものは、やっぱり自分のためでなく「人のために働く」他者の労働成果からくるべきだから。彼自身の言葉を借りると、

 

個々人が、自分の仕事の成果から自分が受け取るものを、権利として主張せず、その成果を周りと分かち合うこと。また彼自身の欲しいものが自分自身の仕事の成果からでなく、他者の仕事の成果から満たされること。こうした度合いが高まれば高まるほど、そこに関わるすべての人々は癒されていく。(1908年3月12日の講演、「職業と所得」より)

 

つまり、贈り贈られ合う、ギフトエコノミーの喜びが社会にみなぎるようにしようというのだ。自分を生かしてもらうものを、他者からいただく。つまり、自分はみんなに生かしてもらってる・・・というのは、ふかーい安心感を呼ぶ。と同時に、私たちを限りなく謙虚にしていく。エゴではなくて、魂が喜ぶ経済観だ。どうせもらうなら、予期していないのに、いきなりもらうサプライズギフトのようにいただけたら最高・・・というわけで、シュタイナーの理想に沿って、私の夢も、どんどん膨らんでいく。

 

 

 

 

 

 

 

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