非暴力

東洋の英知から学ぶナウトピアのつくり方

  • LINEで送る

貪欲と欠乏の危機感の悪循環を止めるには?

サンフランシスコにいた時は毎日のように禅センターで座禅して、異国暮らしの中でも、自分のルーツを忘れないように(私の家は曹洞宗だ)ご先祖様に敬意を表していたけれど、とりたてて仏教徒と、私はとても言えはない。

でも、縁起の法という世界を徹底して物同士の相互関係から見る方法は、つくづくすごいと思う。

ものすごく知的、明晰に、全体像を見すえる様子はちょっとクールだけど、そうやることで同時に嫌いな人や敵も含め皆つながっていることがあらためてわかり、ゆるしやあわれみ、慈愛の熱が、しずかに、じんわり広がっていく。明晰さあたたかさのバランスがとてもいいのだ。

論理、科学一点張りだとやっていけないけれど、スピリチュアルなだけでも出口がない気がするときなど、いいバランスメーカになるって思う。

仏教学者で環境活動家として知られるジョアンナ・メーシーも指摘しているように、社会に必要な変化を起こすために、問題の根元がどこにあるかピンポイントで教えてくれる。のみならず、その解決のための行動に乗り出す情熱、勇気も、そのつながりの一体感の中から汲み取る道も示してくれる。たとえば、彼女の『世界は恋人、世界は私』の中で引かれている、『起世因本経』中の仏教の創生説に次のようにある。

米が初めて生えてきた時、もみがらも糠も持たず、収穫しても、1日でまた実った。なのに、1人の怠け者が、楽をするために、1回の収穫で2食分とって、次の日は何もしないことをおぼえると、やがて皆がその真似をするようになり、それが4日分、8日分と増えていった。そうして皆、米を貯めこむことを覚えた。それにともない米も変化して、殻で覆われ、刈り取られてもすぐには実らなくなり、刈り跡は枯れた株が残るばかり。

はじめ、米は、籾殻にも包まれていなくて、取っても翌日にはまた実っていたというのは、非現実的に聞こえるけれど、
でも、人間が少しでも「楽したい」と思い、その日そのときに必要な以上刈り取り、貯め出した瞬間、米の方も身構えるように自己保存にはしり、簡単に自分を人間に渡さなくなるというのは、別の意味で現実をついているっていえないだろうか。

実際、必要以上にものを手に入れようとする貪欲さのおかげで、農業の産業化がすすみ、生態系の循環が破壊され、作物にも害虫や病気が発生しやすくなってしまった。それに農薬や化学肥料で対抗しようとで対処しようとするものだから、ますます土壌は痩せ、汚染され、生産力を失っていく。化石燃料依存による地球温暖化は異常気象の一因にもなって、ますます農業に打撃を加える。

つまり貪欲さから、自然を不自然な扱いをして酷使し、拷問にかけるように無理やり食べ物を実らせようとし続けた結果、自然の方でも原初の楽園状態を失って、気前の良い実りを人間に差し出さなくなってしまったわけだ。

この悪循環を止めるためにどうすればいいんだろう? 欲を持つなというのは、簡単だけど、わかっていても止められないのが人間の常。
ここではナウトピアふうに、ポジティブにやる道を考えたい。

自分が必要とする分だけならば、気前よく与えてくれていた時点で、人間が満足していればよかったのである。このあたりまえに対する満足感、感謝と驚異の念を人間が失ったとき、「少しでも楽して、もっと欲しい」貪欲さに歯止めがかからなくなってしまった。

欠乏感を抱く代わりに、自然のゆたかさに注目すること。もちろんそれは、ゆたかさを実際にとりもどすための自然保護の努力と切り離せない。ただ、そうした作業の際にも、自然の病んで生産力を失った部分よりも、だんだん回復していく豊饒さや生命力といったポジティブな質の方にあえて注目することが肝心だ。

なぜか。たとえば、コップに半分だけ水が入っているという同じ事実も、「半分も水がある!」とあるものに注目して満足、感謝して受け取ることもできれば、「半分しかない!」と欠如の方に注目して危機感を抱きならが見ることもできる。欠如よりもあるものに注目することは、事実というより解釈の問題で、この解釈は私たちの意思で、コントロールすることができる。

欠如の方から事実を解釈すると、焦燥感や貪欲さが出てくるのに対し、あるものの方に注目することで、満ち足りた安心感や感謝、祝祭感、与えたいという気持ちが生まれてくる。

人類の大半がもし後者の道をたどる方を重視して生きてくれば、その後の愚行の一切は生まれなかったといえるかもしれない。自分の必要とするものは、何もしなくても満たしてもらえたときに、この事実に対して、驚異の念を持ち、感謝をささげ、これを祝い、満足し続けてさえいればよかったのだ。

そのために必要なのは、与えられた現実の美しさ、慈しみ、深さをじっくり味わえる感受性の鋭さ、気づきの深さ。

「欲しいものをガマン」する禁欲というより、質素なあたりまえの毎日を、品よく美的にも知的にも倫理的にも満足し続ける素敵な生活を送る力。

みんながそんな生活を送れるようになるために、「あたりまえ」を見直し、再定義し続ける学問や、そのゆたかさを誰でも感じられるようにするアート、何気ない普段の日常そのものを祝う祭りなどが待望される。

私有財産制と暴力による秩序維持

IMG_1415

前回は、ブッダが語ったとされる『起世因本経』に見られる創生説を紹介。そこにのちの人類のあゆみが象徴的に予言されているように見える話をした。

人間が自然のめぐみを感謝して受け取るのをやめて、すこしでも楽に、たくさん手に入れようとする人たちが出てきた結果、だんだん自然のめぐみも乏しくなり、必要な食べ物を手に入れるための人間の労働も複雑でたいへんなものになっていくというくだりだ。

実はこの話には続きがあって、それがますます人類の歴史を圧縮して、シンプルに伝えているように読めるのだ。

つまり自然の生産力が落ちて、食べ物が手に入らなくなるかもしれないという危機意識と欠乏感が高まるにつれ、自分の所有物を他から区別し守ろうとする人たちが現れたというのである。

人々は土地を作で仕切り、自分の食糧源を確保するために、ほかの人が入ってこれないようにした。

ようするに私有財産制の起源を説いていると言える。「これは自分のもの!」という所有意識は欠乏感とはペアになって「少しでもたくさんもらうぞ!」といった貪欲さをエスカレートさせていく。そうすると、格差が生まれ、不公平感を抱く人が増え、犯罪が横行し始めるのはもう時間の問題だ。

やがて、欲深な者が隣近所の田んぼから米を盗むようになった。皆が注意すると、もうしないと約束したが、結局は盗みを繰り返した。注意してもきかないので、その人は罰として打たれた。こうして、土地を私有する制度の登場とともに、盗みや嘘や虐待や暴力を、人々は知ることになったのだ。

悪事が横行し、世の中がはなはだしい無秩序に覆われてきたため、人々は、自分たちの中から『怒るべきときに怒り、非難すべきことを非難して」自分たちを守ってくれる人を選出して、その報酬として、稲作しなくても米をもらえる人を定めた。こうして支配者が出現し、その強大な力による支配により、やっと秩序がもたらされるようになった。これが、王と武士階級の起源で、役割の定着の文化にしたがって、司祭、庶民、奴隷などに分かれ、身分制が生まれた。

暴力横行する世の中で、無理に秩序を打ち立てようとする中で権力・身分のグラデーションに基づくトップダウンの権力も生まれる。泥棒の危険も高まる。泥棒から守ってもらうために、警察、軍隊が必要になり、武力を蓄えた人が、それに乗じて支配し始めて、身分制ができるというふうに。あからさまな物理的暴力は鳴りをひそめる代わりに、暴力が社会構造の中に偏在し始めるのだ。

この話の中には、3つ「悪い」と思われるものが登場する。収穫率が低下した稲、泥棒、身分制度。とはいえ、さすが仏教。縁起の法から、すべてをつながった関係の中で捉えるので、西洋的な善悪二元論のように「悪」が裁きの対象として、他とは切り離して語られることはない。むしろ、私自身もふくめたみんなの行為の結果として、どんなふうに生じてきたかを冷静に見つめている。

たとえば人間が少しでも楽してたくさん得ようとするもんだから、自然も酷使され生産力が落ち、食料欠乏の危機感が生まれ、安心するために必要以上に貯め込もうとする人が現れる、すると格差が広がり、不公平感が生まれ、泥棒が横行するようになり、泥棒から身を守るために武装した社会権力が生まれるというふうに・・・すべてがすべてと関係するこの世界の中では、特定の悪者をはじき出して、退治することはできない。高慢にも我こそは「裁き手」だと思うと、裁き手が裁かれる人の中に含まれてるパラドックスを犯すのも避けがたい。

けれど、どんな「態度」のおかげで、人類が悪循環の中にはまってしまったかはかなりシンプルに特定できる。欠乏感を所有で解決すること。不信感を自己防衛や暴力で解決すること。

そんなふうにどこでどんな間違いを人間が犯したかが特定できれば、どうすればそこから抜け出れるかも、かなりクリアにみえてくる。ようするに逆のことをすればいいのである。

前回述べたように、欠乏感を抱かないこともポイントだけど、もう一つ、人類を暴力が横行する悪循環に中に閉じ込めたものとして、不信を自己防衛と暴力で解決しようとしたことがあげられる。

これも、ずばり、その逆を行うことで、リセットできるはず。信頼すること、自分を守ろうとしないこと、許すこと、非暴力に徹すること。ガンジーのサティーヤグラハ(非暴力・不服従)は、私の知る限りこれを一番体系的に行ったものだ。

暴力の悪循環を止めるには?

30代の若き日のガンジーは、イギリス在住のインド人のために「インディアン・オピニオン」という雑誌を主宰していて、インド独立のための彼の意見を、インタビュー形式で述べていた。

その一話に、独立のためには武力行使もいとわないという血気盛んな活動家の青年が登場。ガンジーに、目的のためには手段を選んではいられないとあの手この手で説得しようと試みる。これに対して反論すべく、ガンジーが話し出したのが、以下の泥棒に悩まされる家のたとえ話。泥棒から身を守るためにとるさまざまな「手段」がそれぞれまったく違う結果を招くことを理解してもらおうと試みる。ちょっと長くなるけれど、全文引いてみよう。

あの武装した泥棒があなたの品物を持って行った。あなたはそのことを忘れられず、激怒して、あなたはその悪党を、罰したいと思っている。それは自分のためではなく、世間の人たちのためだと思っている。そこであなたは人を集め、悪党の家に攻撃をかけた。悪党はすでにそれを知っていて、逃走してしまっている。悪党はこれを知り、大いに怒り、他の盗賊たちも集めて結託して、あなたの家を白昼、略奪に来るぞと言ってよこした。強いあなたはそんなことで恐れはせず、ますます武装して自分の家を守り備える。すると、この間、あなたの家に近づけない盗賊たちは、あなたの近所の家で悪さをするようになる。「私はみなさんのために泥棒と戦っているんだ。もちろん私の品物も盗まれましたが、この戦いの重要さと比べると、たいしたことではない」とあなたはいう。それに対して近所の人々は「以前、ここは盗みなど入ったことのない、平和なところだった。でもあなたが賊と戦い初めてからというもの、物騒になり、泥棒がよく入るようになってしまった」と口々にうったえる。あなたは窮地に立たされる。近所の人々がいうことは正しい、自分より貧しく、身を守ることのできない彼らに、あなたは同情も覚えるようになった。さあ、あなたは何をすべきだろうか? 盗賊たちを見逃してやろうか? しかし売られた喧嘩を途中で放棄しては、あなたの体面はつぶれてしまう。体面は誰にとっても大切なものだ。あなたは貧しい人たちに言う。「心配しないで。さあ、私の財産を私はあなたがたのためになげうち、あなたたちに武器を渡そう。武器の使い方を教えよう。これで悪党を見逃さず、殺してしまいなさい」。すると戦闘は激しくなった。盗賊たちも仲間をまし、武装を強めた。人々は自分の手で、事態をますます困窮させてしまった。泥棒に敵意を持った結果、安眠を売り不眠を買ってしまった。平和そのものだった村を不穏な場所にしてしまった。以前は死が訪れた時に、静かに死を迎えていたものだったが、今では、いつ殺されるか分かりもしない状況になってしまった。あなたが泥棒をやめさせるためにとるであろう一つ目の手段はこれですが、この手段がここで招いた結果は、誇張したものではない。少し辛抱強く考えれば、あなたにもそれがわかるでしょう。

さあ、今度は、もう一つ別の手段を考えましょう。あなたは泥棒を愚かな人間だと思い、いつかチャンスがあれば、そのことを説いてわからせてあげようと心に決めた。泥棒だって人間だとあなたは考える。いったいどんな理由で盗みをはじめたんだろう? その事情があなたにどうしてわかるだろう? それがわからない以上、あなたには、単純に罰することはできない。あなたにとって最善の道は、時が来れば、彼が盗みを続ける原因をとりのぞいてあげることだ。このようにあれこれ考えているうちに、あのお兄様がまた盗みにやってきた。あなたは腹をたてるというより、哀れみを覚えた。この人は病んでいると思った。あなたは故意に扉や窓を開けたままにしておいた。ただ、寝る場所は変え、財は全て持っていけるように、まとめておいてあげた。泥棒はやってきて、びっくりしてしまった。これはまた、なんと奇妙な様子だったからだ。品物は持って行ったが、心はどうも落ち着かない。村であなたの噂をきいて、あなたが慈悲深い人であるのを知るようになり、後悔して、あなたに許しを請うた。品物を返しにやってきて、泥棒稼業をやめ、あなたに使えるようになった。あなたは、彼にちゃんとした仕事を与えてあげた。これが、泥棒をやめさせる二つ目の手段です。

手段を変えると全然違う結果がでることが、これであなたにも分かったでしょう。すべての泥棒がこのようにふるまうとか、すべての人にあなたのような慈悲心があると証明したいのではありません。良い結果をもたらすためには、良い手段が必要であること、両者は切っても切り離せないとは、示したいと思います。さらに、いつもではありませんが、ほとんどの場合、武器の力より慈悲の力の方がもっと強力であることも示したいと思います。武器には害がありますが、慈悲に害があることは決してありません。(M. K. ガーンディー『真の独立への道』岩波文庫101ページ。田中敏雄訳を一部英訳を参照しながら改筆)

もっと強大な暴力で封じ込めることで、暴力をもみ消そうとする最初の手段の話は、風刺にも取れる。警察や軍隊の起源だといえるから。権力で統べられた多くの国家がたどったのはこちらの道だ。

それに対して、「二つ目の手段」としてガンジーが説くケースでは、泥棒に対する恐れや復讐心の代わりに、憐れみ、同情、兄弟のような連帯感といった慈悲の念から行動するもの。もちろん、この話のようなハッピーエンドに終わる保証はない。全財産ごと持って行かれた上に、命も奪われることだってあるだろう。でもそうした「不信」の虜になると、「一つ目の手段」の悪循環からは逃れられない。「不信」代わりに、人間性に対する「信頼」を貫こうとするとき、結果的に破れ、殺されることすらあっても、その人は勝利しているというのがポイントだ。というのも、そのときその人は、少なくとも、彼が泥棒に対して軍隊を雇ったときのように、死傷者を出し、復讐心を煽り・・・暴力の悪循環を自分のところで止めるのに成功したのだから。また、全財産を「どうぞ持って行ってください」と手渡すことで、前回確認したように、格差と不公平感、暴力の起源になった私有財産制、「所有」と「自己防衛」のシステムの外に出ることもできたのだから。

ガンジーのこの精神を文字通り実践した人に、インド人の思想家、教育者のサティシュ・クマールがいる。彼は若い日、1万4000キロを無一文で徒歩で歩いて核大国の首脳に核兵器の放棄を説きに行くというアクションを行った。無一文で徒歩で歩くというのは、ガンジーのたとえ話の中で、泥棒から身を守るために軍隊を雇う人のまさに正反対。自分を守ろうとする姿勢を捨て、自分を世界と運命に明け渡す、自己防衛の放棄の究極のスタイルだといえる。お金をもたずにちゃんと生きて旅を全うするには、助ける人は必ず現れるという、人間性に対する深い信頼も必要だ。命がけでも妥協や留保抜きになされたそのメッセージは極めて明瞭で、彼が何をしようとしているか、わかる人には即座に伝わる。旅が続くにつれ、一緒に歩こうとする人も現れて、目的地に着く頃には大行進になったという。そんなふうにして、ガンジーの精神も今に受け継がれている。

  • LINEで送る