一週間くらい続くリトリートに参加すると、それが、ラディカルな、いい内容のものであればあるほど、3日目くらいから、帰りはじめる人、体調が悪くなったと出てこない人、さぼって街に遊びに行ったりする人、現れだします(笑)。
心が緩み、解放されればされるほど、
これまで、感じたくなくて、蓋をして閉じ込めていたものも、その奥から浮上してくるのですね。
浮上したこの闇をどうするかなのですが、
外向的な人は、投影をはじめて、ティーチャーやティーチングや、リトリートのセッティングなどに対する苦情をいい始め、
内向的な人は、自分を責め始めたり、体調を崩していったりします。
私自身もこれまで、さんざん、体験してきたことなので(笑)、その辛さも、わかります。
私が主催させていただいている瞑想会ですら、会の直後は、心が安らかになったとか、よろこびのフィードバックを沢山、いただくのですが、しばらくすると、みなさん、このプロセスが始まるみたいで、悩みの相談が少しずつ増えてきます。
あるいは、会には参加されなくても、本やブログを読んで、そこで勧められていたことを熱心に実践された結果、しばらくは、素晴らしい気分だったのだけれど、その後、憂鬱感や脱力感に見舞われてしまったと言う方もいらっしゃいます。
もしかすると、自分もその渦中にあるかも? と言う人に、まず言いたいのは、
1、その時、どんなに辛い感情が噴出してきても、それは失敗ではなくて、逆にうまくいっている兆候なのだということです。渦中にいるときは、辛いばかりで、そんなこと、とても信じられないかもしれませんが、先に進んで振り返ると、わかります!
この時点で、出てきた闇の深さに圧倒されて、「これは私の道ではない」と引き返す人、結構多いと思うのですが、もったいないです!
二つ目に、ぜひ、言いたいのは、
2、心の奥にこれまで秘めていた闇がでてきたのは、あなた自身、それを許容できる器になれたってことでもある。つまり、純粋な気づきの、あらゆるものが、ありのままであることを、ゆるす広がりとして、あなた自身、待機できるようになったって証拠だってことです!
ちょっとややこしい説明になってしまいましたが、ようするに「浮上していいよ」という許可を与えたのはあなた自身だし、だから、あなたには、すでに、それを受け止め、癒す力があるってことなのですよ。
というわけで、そこから、逃げない、また、それを人や自分に投影して責めるのもやめて、がっしり受け止める準備が、すでにあなたに整ってるってことです。それに、おそらくそれが、唯一の根本治癒への道だし、スピリチュアルな道の次のステップを踏むってことでもある。
癒しの目標設定
ただ、それをどう癒すかですよね。そこでもう一つ、言い添えておきたいことがあります。
3、癒しの目標設定を、この辛い感覚が消えることには、置かない方がいいということです。
むしろ、その辛い感覚がありのままであることを、ゆるし、受け入れる気づきであることに置いてください!
気づきとして、この感覚をありのままに受け止め、抱擁できるということ、それ自体が、すでに癒しなんだと思います。
不快な感覚そのものは、「思い出してみたら、いつの間にか消えてる〜 」みたいな消え方しかしない感じなので、「消そう」としても仕方がないんですね。
というより、「消そう」とすることそのものが、ありのままの状態に対する抵抗、つまりエゴなので、辛い感覚、かえって助長される可能性あります! 「嫌だ」と思うことそれ自体の中に、「嫌さ」を膨らませる力があるのですね。叩けば叩くほど、勢いが増していきます。
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「苦しんでいる」と訴える人が現れた時に、ルパートさんが必ずする質問があります。
それは、「一生、この苦しみを抱えて生きていけますか?」というものです!
「何て残酷な!」って思いますよね。私も思ったのですが、でも、理にかなってます。と言うのも、この質問に対して本気で「イエス」と言える時、抵抗が0になってるってことですし、純粋な気づきとして、その中にこの苦しみを完全に浸せたってことですから。
それができると、つら〜い感覚に対しても、「いていいよ〜」「あなたもいい味出してるね〜」って感じ、あるいは、むずがる子を、笑いながらあやしているお母さんみたいな感じで、自分の中に、かくまえるようになります。
気づきのこのやさし〜い抱擁に合流して、辛さを辛さのままに受け止め、ゆるすことができる。
それ自体に癒しがあります。そんな気づきであることに、どうぞ、フォーカスしてください。
一言で言えば、客体(辛い感覚)に対して、いい感じに無関心になることです。
客体の影響を受けない、純粋な気づきでいることを練習できるいいチャンスとして、これを使い尽くすぞ! と言うくらいがいいと思います。
その場で、楽になろうなどと思わない。ただ、純粋な気づきでいようとする。
それが、私自身、何度も、不快感や辛さを消そう、結果を出そうと躍起になる「抵抗としての癒し」が不発に終わるというどうどうめぐりをいやと言うほど経た末、たどりついた結論です!
コースの言葉で言えば、ただ、「聖霊の視点を選ぶ」それだけですね。
余計なことをしない、期待しないのが、本当に、一番です。
結局することはといえば
自分はあくまで、純粋な気づきのゆるしている広がりの側にいる。
と同時に、辛さは辛さのままに、できるだけ生々しく感じ切る。
そして、前者の中に後者を浸していくことです。
軸を守る
ただ、無理も禁物です。
圧倒されそうになって、気づきの側に自分を感じるという軸が揺らぎだして、そちらに思いがさらわれそうになったら、ひとまず中断して、たっぷり休息をとってください。
つまり、その辛い感覚を感じることから手を引いて、ただ気づきの中に安らう、あるいは何でも、リラックスできることをしてください。
そうやって、たっぷり休息をとり、そしてまた余力が出てきたら、また感じてみる・・・・行ったり来たりくらいがいいかもしれません。
私はこの感覚ではない、この感覚がありのままに現れるのをゆるしている、気づきの広がりの方にいる・・・この軸を保持して、そこから揺らがないことが何より大切だからです。
それが揺らがない範囲内で、少しずつ、辛い感覚に、やさしく近づき、
気づきの海の水を、この感覚の中に、自然に浸みこませるように、じわじわと感じていくのですね。
それが基本です。その上で、実際にやれるセラピー的なこととして、いろんなバリエーション、考えられます。
辛い感覚を、身体の動きでも、声でも、絵でも何でも、この辛さをじっくり、できるだけ生のままで感じながら、
同時に、気づきの中にがっしりと、包み込むのも忘れないで(この点で、単なる溜まっている感情の「ぶちまけ」とは異なります。いわゆる「ぶちまけ」には、「軸」はありません。だから、感情にさらわれてしまうだけです)表現できれば、おそらく、どんな方法も、有効なのではないかと思います。
人により状況により、何が一番自然で、しっくりきて、効果が上がるかはさまざまだと思います。色々試してみてください。
私の場合、辛い感覚を生で感じることと、それをがっしりと気づきで受けとめることとの間のバランスが一番とりやすいのは、書くことです。
誰に見せることも意図せず、だからこそ、抑制を完全に解除させて、心にあるもの、思いつくことをすべて書いていくジャーナリング、いいです。
心に秘めたどんなに暗いものを、そこで吐き出しても、純粋な気づきで受け止められているから大丈夫、安全だと感じられる状況で書かれるといいかもしれません。
儀式的な手続きをあえてやることで、純粋な気づきでがっしりと受け止められ、守られている感じが得られるのなら、その力を借りるのも、いいと思います!
たとえば、この手の表現を、祈りや瞑想ではじめて、終わりもそれでしめくくるとか、その時々に一番「聖なる場所」と感じられるところでやるとか・・・そうすることで、守られている感覚を保つことができれば、何でも有効だと思います。
奇跡のコース関係のリトリートで、「聖霊に手紙を書く」というワークをやったことがありますが、これもいいやり方だと思います。リア王がジョン・スミスに手紙を書いてる感じですね。
仲間の助けを借りる
信頼できる仲間がいる場合は、その人に向かって話す方法もありです。
誰に向かって話すか、それを決める一番の条件は、あなたが語ることが何であれ、それを、純粋な気づきでがっしり受け止める、その加勢をしてくれる人だってことですね。それは1人でもできますが、2人以上の援軍が加わると、鬼に金棒だってことです。
簡単に言えば、そこで何が語られても、ジャッジしない人を選ぶのが肝心です。
「無条件の愛」というと、どうしても大袈裟になってしまいますが、自分が何をしでかそうと、どんなとんでもないことを考えようと、根本のところで、愛してくれてるそんな人がいたら、適任者です!
「今の世の中、なかなかそんな人、見つからないよ〜」 と言う方は、事情を説明して、そう言うルールで、話を聞いてくれる仲間を募ってみられるのはどうでしょう? 全然、ジャッジしないで人の話を聞くのは難しくても、自分がジャッジしているのに気づいた瞬間、即、それを手しながら聞くって、同意してもらえれば、いいわけです!
私のブログの中で、「クリアリング」と言う言葉でご紹介しているセッション、参考になるかもしれません。エッセンスは、ほぼ同じです。詳しくはこちらをみてください。
最初は、このブログでご紹介している「2人組セッション」をされるといいかもしれません。タイマーをセットしてやるので、気楽に始められます。
役に立つタイミングと、逆に妨げになるタイミングがあったりして微妙ですが、インスピレーションがあって、また、いいお相手など見つかったら、ぜひ試してみてください。
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心がゆるみ、解放されるにつれて出てくる闇に一番悩まされていた時、
私は主に『奇跡のコース』を学んでいました。
その学習仲間と、週1のペースで、Expression session 表現セッション というオンラインの会に、参加させてもらっていたことがあります。
お互いを、その完璧な姿、スピリットとしての姿、純粋な気づきとしての姿としてだけ、見続ける。そう約束した上で、残っているエゴの感情、不安、恐れなどを吐き出し合う会です。
この会の基本は、その人も、私も分かち合っている、存在の光、純粋な気づき、スピリットだけを見続けること。そこで、何が話されても何が起こっても、ただ、ひたすら、これだけを見続ける・・・それだけです。
その安全さの中で、実際、何でも腹蔵なく打ち明けることができるようになりました。
何であれ、その時感じている思いを、正直に、生々しく、その場で、感じながら出せば出すほど、うまくいきます。
逆に言えば、クールに格好つけたり、優等生風に振る舞っても、何も起こりません!
どんなにドロドロした思いが出てきても、居合わせた人たちが、自分を、エゴではなく、スピリットとして、純粋な気づきとして見てくれている・・・
その追い風で、そこでたとえ何を話しても、話されたとたん、心から剥がれて、些細で小さなこと、幻想にすぎないことを見抜けるようにもなりました。
コース学習者は、相手の話を聞きながら、ついついジャッジしてしまって「とんでもないこと、考える人だな〜」などと一瞬思ってしまっても、それを、「その人」の問題としてではなく、「自分の」問題として見つめ、自分を癒すきっかけとして使う訓練を特に積んできています。
私の心を動揺させるものは何であれ、私の心の中にある問題をそこに投影してしまったからだという理解が、背景にあるからです。だから、余計、何を話しても大丈夫、安心できるわけですね。
と同時に、自分は話し手にはならず、相手の話を聞いただけでも、セッションが終わった時には、心がすっきり、晴れやかになること、よくありました。人の話を聞きながら、その内容に誘発されて出てきた自分のジャッジメントと、それにまつわる投影を洗い流すことができたからです。
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そこまでディープなセッションの形をとらなくても、同じようなスピリチュアルな道をいく人たちと信頼関係を築いて、
つらいときにはすぐにコンタクトをとって、シェアする機会を持たれると、いいと思います。
いい出会いがあったら、チャンスを逃さず、つながってください! スピリチュアルな道の途上で出会う関係って、空間的な距離の影響、受けにくいです。ほとんど会えない遠くに住んでいる人、あるいはリアルではまだ会ったことのない人と、ディープな関係、維持すること、可能です。空間を超えたところでつながれるからです。
私自身もそれ、いっぱいしました!
今は、定期的にやる表現セッションはもうやっていません。
でも、ピンチの時には、「シェアしたいことがあるからつきあって!」と、すぐに電話やZoomで合流できる仲間が全国各地にいます。
だんだん、頼る頻度は、少なくなり、今はほとんど稀になってきましたが、今の私があるのは彼らのおかげって言えるほど。感謝してます🙏💓
逆に、この道の外にいる人に助けを求めるのはおすすめしません(たとえば、精神病院に連れて行かれるおそれがあります💦)