「神様」とはペットのようなもの?

いわゆる「神様」について語ろうとすると、いつも、言葉の選択に困ってしまう。
神というと、何か仰々しい「特別のもの」、権威的なものを思い浮かべる人が多いから。自分は絶対正しいと考える、自己正当化するための砦。この名の下に、どんな狂気さえ正当化される始末だものねえ。言ってみれば、エゴを無敵・不滅にするための最終兵器として「神様」があるって立場だけど、それは、私が感じているものとはたぶん、正反対。私が感じているものは、何か「特別なもの」どころか、雑草のようにどこにでもあるもの。あまりにささやかなので、静かで、名もなく、ただあるだけなので、騒々しい世の中で、なかなか気づかれることはない。けれど、そんなの構わず、いつもいつもそばにいて、影で私たちを支えてくれてる。いつも一緒にいる、慣れ親しんだペットのようなもの。呼ばない時は、いるのも気づかない静けさで、じっと控えている。呼べば必ずやってきて、どんな時も、「無条件の愛そのもの」という万能の薬で私を癒してくれる。

ペットのようなんていうと、言うと、真面目な宗教者に叱られるかもしれないけれど、私といつも一緒の神様は、このたとえをとても気に入ってくれたようで、大喜びの様子。

すると、「神」という言葉が、再び、フレッシュな、ピカピカした言葉に見えてきたよ。正直言って、何と呼ぼうと、いいのかもしれない。一人一人、自分で一番しっくりくる呼び方をすればいいんだと思う。

『奇跡のコース』を始めてから、「神様」ともう少し、積極的に関わるようになった。そこで気づいたことは、本当の「神様」とは、エゴを正当化するための砦というより、それを解体するためのもの。私たちがやること、なすことは、普段、エゴの支配下にあり、どうしても自己中心的だ。

そこから解放されるために、エゴとは正反対の原理で動く存在、すべてとつながって、愛そのものであるような存在を心の中に探す。

そこでは、自分の生命が、すべてのものと内側からつながっていて、内側から触れ、自分と一つのものとして、愛でたりいつくしんだり、把握したりできる・・・そんな驚きと喜びを知ってる場所。心の内なる発電所のようなもので、どんな辛い時にも、疲れた時にも、状況を問わず、どんなときにも、幸せな状態に、心を整えてくれる。

そんな箇所がみつかったら、そこにすべての思い、欲望、意識を集中させる。それ以外のものは、何もいらない、考えられないというくらいまで。自分のすべてをそこにゆだね、あらゆる決断も、そこから行うようにする。本当にそれができたとき、自己変容が起こり、新しい自分に生まれ変わることができる。

ゆるし

と言っても、一朝一夕でできるわけではない。あ、エゴがのさばり出したと気づくたびに、これをゆるす必要がある。

ゆるしの対象になるのは、「失礼な人」でも、「心身の不調」でも、「金欠状態」でもいい。とにかく心の中に、「最高の幸せな状態」に少しでもかげをさす「愛」以外のものが見つかったら、即座にこの「神」を呼び、正直にその傷や汚れをさらす。信頼しきって、ひらききって・・・すると次の瞬間にはそれはなくなり、再び私の心は、愛で満たされ、後にあるのは感謝ばかり。手放したい思いを、晒して、委ねるだけ。そうして、中身を入れ替えてもらう。このプロセスがゆるしだ。

ゆるしが完了したときに感じられる感謝の念があまりに大きいので、不機嫌の原因となったトラブルの元凶にまで感謝してしまうほどだ。それは本当に一瞬で起こるので、意識に上るのは、この感謝する瞬間ばかり。そのせいで感謝するために生きてるんだ、そのためにこの人生ってあるんだって思えるほどだ。

『奇跡のコース』を学ぶとは、まず第一に、このゆるしを、まるで呼吸するように、いつもいつもやり続けてるってことを意味する。

そのたびに、自分とものとの間のラインが、一つ、また一つと消えていく。それは、私の中にそれがあり、その中に私がある、一体の領域がひろがっていくこと。それは内がわから眺めた時のことだけど。同時に、その外からみれば、手放せること。それが自分の所有物になるかとか、自分の期待をみたしてくれるかなどは、どうでもいい(いずれにしろ一つなのだから)ってことでもある。

「心から」だけ

とはいえ、そうやって神様に全面的に頼りきって、大変容を遂げれるのは、あくまで心の「中」の話。神様、少なくとも私の神様は、外界にあるものの操作には関わらない。心の状態だけ、しっかり整え、感謝で満たしてくれるだけ。自由に、勇敢に、創造的に行動できるように、感情の基調は整えてくれるだけ。あとは自分で動かなきゃいけない。つまり、困った時の神頼みに答えてくれたり、魔法のような奇跡をもたらしてくれる存在じゃない。

幸いにも!エゴが作ったストーリーが一旦始まると、なんとかそれをハッピーエンドにしようと、みんなそのストーリーの中でもがく。そのために神様さえ頼みにする勢い。でもそこで願いが叶っても、それはエゴに栄養を供給してますます肥大させることにしかならない。

「私に依存するな、私のようになるために」というのは、父性愛の最高の表現だって思ってる。

音楽を手掛かりに

でも、そのストーリーの全体のトーン、流れ、どんな雰囲気で、一瞬一瞬生きるか・・
その基調が整うだけで、全体が、本当に、本当に楽になる。

ゲーテの『形態学』の中のたとえを使えば、ピアニストの手の一本一本の指は、なぜこんな重労働を続けなきゃいけないかとぼやきながら、駆けずり回ってる。でもある時、自分たちが奏でている音楽をおぼろげながら耳にしたり、美しい音楽を奏でようとしているピアニストの意思とつながったりすることがある。その度に恍惚となり、また自分の役目に励む。これとちょうど同じように、私も毎瞬毎瞬、勝手な方向に動きたくなるエゴの思いを消してくれる。また、自分だけで頑張ろうと躍起になったり、「うまくいかなかったらどうしよう?」と怖がったりするのは、自分が「指でしかない」と思いこみ、「ピアニスト」という本当の自分に目をつむること。訳のわからない重労働の中で、消耗しては嘆くことを繰り返すばかり。そんなちっぽけな自分より「大いなる存在」、ピアニストの意思や音楽の美しさに委ねて、恍惚としながら、自分の役目を果たして生きていければ、毎日パラダイスなのに。

人生全体を貫く音楽は、あくせくした人生の進行〜慌ただしい指の動き〜とは全然別のレベルから来る。神様に呼びかけるとは、この別のレベルについて思いを馳せること。それによって、自分が今巻き込まれているストーリーの舞台裏が、時々見え隠れする。その瞬間、それをすかさず捉えることさえできれば、そこからストーリー全体の意味が全く新たな形で見えてきたり。場合によってはそれから降りたり、心機一転、新しいストーリーを始めることもできる。「ゆるし」はそのためのテクニックの一つだ。