アメリカで、「感謝のカフェ」というカフェの雰囲気に魅了された後、そのオーナーのエンゲルハート夫妻が、従業員教育を、一般公開しているリトリートに行った話をしました。
そこで、やったことを、一言で言えば、
どんな人に会っても、
あなたがたとえどんな人であっても、どんなに役立たずでも、殺人犯だったことがわかっても、
それでも根っこのところは、いい人であるのを、信頼してる。
その根っこのところで、私はあなたを愛している。
そんなまなざしで眺める訓練です。
誰かの存在価値を、そんなふうに、無条件に受容し、愛する能力ほど、今の世の中欠乏してるものはないし、
さまざまな社会問題や環境問題なども、そこから派生してきていることについても、話しました。
だから、ひとたび、これができるようになったら、いろんなところで、応用がききます。
中でも、リトリート中に私たちがよくやったのは、「クリアリング」、浄化という手法でした。
やり方はとてもシンプルで、
誰かが、心に浮かぶこと、何でも口にして話している間、
他の人は、この無条件受容の態度で、ただ、聞く。それだけです。
それだけで、話している人は、だんだんリラックスして、気持ちも晴れていく。
その兆候がみえたところで、終了。今度は、聞き役と話役を交代して同じことをやる
簡単カウンセリングのようなものです。
このクリアリングを、感謝のカフェのすべての従業員は、仕事に着く前に、全員、必ず行い、
その時間の時給も支払っているのだそうです。
ということは、経営者側にとっては、かなりのコストになるのですが、
それでも、絶対、ためになってる、どころか、感謝のカフェ全体が、従業員すべてがクリアリングしてから仕事にのぞむことで支えられてるとさえ言うのですね。
心に何か気がかりなことがあると、今、ここに、本当にいることができません。
目の前の人のニーズも見えなくなるし、それはサービス業としてはいただけません。
*
ただ、私たちが普通カウンセリングというときに連想するものと違うのは、
聞き手は、「聞く」以外に何もやらないことです。
相手の話を聞いていて、明らかに「自分は解決策を知ってる!」と思って、
アドヴァイスしたり、力になったりしたくなっても、
少なくともクリアリングの最中は、それを口にはしません。
あるいは、相手がお金に困っている話を耳にして、
自分は貸せたり、良い仕事口を知っていても、
少なくともクリアリングの最中は、それを口にしません。
ひたすら、相手に無条件の愛を注ぎながら、それでもあなたは良い人、それでもあなたを信頼しています、それでもあなたを愛しています・・・そう思いながら、話をただ聞くだけです。
それだけで、どうして心が晴れるの?と思うかもしれません。
無条件の愛は、それだけで、心を安らかに、満たされた気持ちにしてくれます。
その気持ちの中で、あらためて自分の悩みを口にすると、
「な~んだ、こんなにちっぽけなことで、私、悩んでたんだ」と笑いとばせるような心の状態になるのですね。
あらゆる問題が「ちっぽけ」に見えてくるほど、大きな大きな愛の中に、聞き手と一緒に入っていくわけです。
そう考えると、なぜ、クリアリングでは、通常の悩み相談のように、相手の悩みにアドヴァイスをしてはいけないかも、わかります。
アドヴァイスをすることで、私たちは、相手の悩みのストーリーに加担して、その中で一役を演じることになってしまうからです。
つまり、悩みがちっぽけな、笑い飛ばせるようなものに見えてくるのを助けるというより、
「大変だ、大変だ」と、一緒に走り回り、ストーリーを、リアルにするのに、加担してしまうことになります。
たとえていえば、どんなに曇った空も、雲の上に行けば、太陽がありますよね。
クリアリングは、相手と一緒に、雲の上へと上昇し、心の太陽の側から、全てが眺められるようにするためのもので、
雲そのものをいじったり、操作することではないのです。
問題を「解決」するというより、
それらがひとりでに「解消」していく境地に到達できるように、
互いに助け合う。
それがクリアリングです。
形と存在の癒着をクリアにする あなたは形以上の存在だ
とはいえ、クリアリングは具体的に何をクリアにするのでしょう?
いくら心を暗く陰らせているとはいえ、悩みのうちには、ちゃんと対処する必要があるものもたくさんあります。
タオイストとしてのリーダー、あるいはクリアリングの相手に、無条件の愛を注いでもらうことで、危機的な状況のただ中でも落ち着きが取り戻せるかもしれません。だからといって、対処を必要とする問題自体が、物理的に消えるわけではありません。
教育、とくに子育て中の場合、子供に無条件の愛を注いで何でも肯定していたら、しつけができないのではないかという疑問も湧いてきます。
具体的に、クリアリングは具体的に何をクリアにするのでしょう?
この辺を、それこそクリアに見るのに私を助けてくれたのは、アメリカの社会心理学者、ブレーネ・ブラウンの子育て論です。
結局のところ彼女も、子育てで一番大切なのは、存在レベルで子供を無条件受容すること、無条件に愛することの重要性を語っています。
一言で言えば、「たとえどんなときも、あなたはありのままで無限の価値があり、愛されてることは揺るがない」こってことです。
このたった一つのことだけを、表情や、言葉、行動など、あらゆることを通して、またあらゆる機会を通して、子供に、伝え続ける。このとてもシンプルなことが、すべての基本だってことです。
こんなふうに、いうと、「では、自由放任主義」なのか。
「どんな重大なミスも、間違いも、見過ごしちゃっていいのか?」って疑問が湧いてきます。
ブレーネさんの説明は単刀直入で、クリアです。子供が何か悪いことをしたときに、訂正する必要は、もちろん、ある。
けれど、そのとき何より重要なのは、「あなたがしたことは悪い」と、「あなた自身が悪い」をしっかり区別すること。そして、悪いのは、あくまで「あなたがしたこと」「あなたの行動」であって、「あなた自身」ではないこと、訂正は行動レベルにあって、存在レベルにあるのではないことを伝えることだというのです。
つまり、「何があっても、あなたがそこにいるありがたさ、あなたの存在の価値は、無限大のままで、揺るがない。
私のあなたへの愛も、びくともしない」
そのことを、まずはしっかり子供と共有する。
その上で、「でも今のやり方は、間違ってたわね」と、行動レベルでの訂正を促すわけです。
すると、まず、子供は安心できますね。
気持ちの余裕ができるので、間違いを正すのも、気楽にできます。
子供が、それを理解すると、実際、私の友達の子供は、そうしたこと、あるそうですが、
そのうち、たとえば、「悪い子ね」と、うっかり言ってしまっても、
「僕は悪い子ではない。たまたま今、わるいことをした、いい子なんだよ」って、言い返されるようになるかもしれません。
*
「悪い子ね」と言わずに、「(あなたはいい子だけど)、あなたがやったことは悪い」と伝えるのは、微妙な違いに見えます。
その違いは、逆のケースを考えると、もっと歴然としてくるかもしれません。
つまり、自分のやったことのせいで、
「悪い子だ」と言われて育った場合。
「あなた自身が悪い」と言われることは、存在レベルで否定されることです。
そこにある言外のメッセージは、私の期待通りに動かない限り、あなたは価値がない、愛される資格はない。つまり、裁かれるということです。
すると、ありのままでは、自分は存在価値はないし、愛される資格はない
人の期待に沿うように、動かない限りは・・・
という欠如感が心に植えつけられてしまいます。
自分の存在価値を示し、愛されるために
せわしなく努力して、気を使い続け
人の期待される自分であろうとする
欠如感に突き動かされるメンタリティーのできあがりというわけです。
*
ブレーネ さんのそんな話を聞くと、特に私なんて、子供がいないせいか、親の立場より、
子供の立場に、感情移入してしまいます。
私自身がすでにそうやって育ってしまったんですけれど・・・どうすればいいんでしょう?
って思うのですね。
愛されるには、痩せて、美しくなきゃいけない、
あるいは、美しいもので身を飾らなきゃいけない、
出しゃばってはならない、つつましやかでなきゃいけない、
仕事ができなきゃいけない、賢くなきゃいけない、
場を読んで、ふさわしい行動ができなきゃいけない・・・
そう思って、努力しようとしたり、
逆に、それができないので、自分を責めて、自己嫌悪に落ちいる
そんな癖がすでに身についてしまってるんですけど・・・
そう言いたくなりますよね!
それでも、大丈夫です! クリアリングがクリアにするのは、まさに、そこなのですから!
あなたがたとえどんなであろうと、どう振る舞おうと、
揺るがず、全く同じように愛してるという
無条件の愛を示してくれる人が現れたら、
特別な形の達成に、自分の価値がかかってる、愛されるかどうかがかかってるという信念は、崩れていきます。
つまり、無条件の愛は、
存在レベルのその人の輝きを、
その人が一時的にとらわれている形のレベルでのその人のありよう(行動、達成、外見など)との混同状態から解き放ち、
解き放ち、見せてくれるのです。
つまり、クリアリングが「解消」するのは、
存在と「ありよう」の混同、癒着なのですね。
「ありよう」は良かったり、悪かったりします。
でも、それに全く関わりなく、その人の「存在」には無限の価値がある。
無条件の愛は、そのことを再確認しながら、
「ありよう」と「存在」の価値の混同を切り離し、
「ありよう」によって、その人の「存在」の価値は、
規定されないことは決してない。
そのことを思い出させてくれるのですね。
いわば、太陽を雲の中に見ようとする過ちをやめて、
分離して、太陽を太陽として見れるようにするわけです。
自分には、何をしても、何があっても、揺るぎない、太陽のように燦々と輝く「存在価値」が自分に、あるってことが、
本当に腑に落ちると、ちょっと失敗したからといって、
天地がひっくりかえったように、罪悪感にかられて、いつまでもウジウジ悩んだり、
それが人に知られないように、一生懸命隠そうとして、かえってこじらせたり、しなくなります。
これがクリアリングです。
つまり、「自分は間違った行動をしてしまった」ということ自体をクリアにするのではなく、
「そのことが、その人の本質的な価値、愛される資格を損なうことがあり得る」という思いをクリアにするわけです。
だからこそ、悩みを打ち明けられたからといって、その悩みを解決するためのアドヴァイスは、少なくともクリアリングの最中はしないのです。
その代わりに、たとえどんな酷い打ち明け話があっても、
「それにも関わらず、あなたの価値は変わらない。私のあなたに対する愛は、ちっとも変わらない」ってことを全身で表現しながら、ただ聞く。
そうすることで、打ち明けているも安心し、「そんなに深刻なことではなかった」とか、「まるで笑い話だな」と思ったり、
事態の深刻さは、全く変わらないけれど、
また、一からやり直すエネルギーが身体中にみなぎるのを感じ始め、
放っておいても、自分で問題解決することができるようになるというわけです。
聞き手の心構えとして エゴは非個人的なもの
相手がどんなことをしていても、
また、どんな打ち明け話が始まっても、
それでも、この人は、存在の上ではいい人、完璧な人・・・
そう思いながら人の話を聞いたり、とてもできそうにない
と思われる方もいるかもしれません。
私もそうでした!
一つヒントになるかもしれない、考え方のコツとして、
もし仮に、この人の人生の全ストーリーを、生い立ちから、何もかも、私が知ることができたら、
こんなことを言ったり、こんなことをしたりするのも、もっともだ! って思うかもしれない・・
そう考えるんです。
一人一人のエゴは、とても個人的なもののように見えます。
でも実は、長年の条件付けの所産。その人のエゴを条件づけてきた現実の多くを私たちは社会的、集合的に皆共有しています。だから内容も結構、似たり寄ったり。程度差はあっても、わかるところ、多いです。「私にも、そんなところ、あるある・・・」って思ってしまいます。
この条件づけが強ければ強いほど、「ああ、みんなの苦しみを、一身に背負って、苦しんでいるんだな」と、見ることさえできるでしょう。
そんなふうに、その人が背負っている条件付けを非個人的なものとしてみて、「こんなことを考えたり、言ったりするのも、無理もないわ」と理解し始めると、
だんだんこの条件付けが、その人の存在との癒着から離れ、剥がれて見えるようになるのです。
心身(ボディマインド)との付き合い方
この辺で、心身の話をした方がいいかもしれません。
非二元で、ボディ・マインド、「心身」と呼ばれるものがあります。それは、その人の身体と、その身体と分かち難く働く心の集合体です。生い立ち、文化、受けた教育など、これまでの体験のよって、いろいろな形で条件づけられています。プログラミングに従って、機械的に働く、それ自体、非個人的なものです。それ自体、特に悪いものではないし、大切な目的のために活用することができます。
では何が問題かというと、「心身」こそ自分だって思うことです。もちろん、この世界にいる限り、心身の中に、私たち、いるわけですが、だからといって、それが私だって思う必要、ありませんよね。たとえば、服を着ていないと、外には出れませんが、服を自分だと思ってはいませんよね。
でも、服を自分だと思うのと同じような間違いを犯して、「心身」の側にアイデンティティがあって、「それが、自分だ!」と思う時、「エゴ」と呼ばれるあらゆる心の働きが生まれます。
心身を自分だと思うのは、実際、つらいことです。だって、心身は実際、欠陥だらけです。一生懸命メンテナンスしても、時と共に老いていくのは必至ですし。
私なんて本当におっちょこちょいだし、注意力がないし、理想的な体型、容姿をしているとはとても言い難いし、とにかく悲惨な心身を抱えています。
だからといって、もし、絶望してしまったり、「太り過ぎだ」とか、「なんて忘れっぽいんだ!」と非難された時に、シュックを感じたり、落ち込んだとすれば、私は心身と自分を同一視して、それが自分だって思っていることになりますよね。
実際、エゴはいつも、その手の悩みをかかえています。というのも、エゴが自分だと思っている、心身は、有限で、欠陥を抱えている上に、刻一刻と、老い、朽ちていっているのですから。
私たちが抱く、欠如の信念の大元は、実はここにあるのですね! 欠陥だらけで、脆弱な心身を、自分と思っているので、いつも、何かが足りない、不全感にさいなまれているのです。また、鎧兜に身を固め、自分を防衛して、守らなければならないとも思ってます。
*
話を元に戻しましょう。では、「心身=自分」だと思わないと、どうなるのでしょう?
たとえばそんな人が、「太りすぎだ!」とか、「なんて忘れっぽいんだ!」と非難された時、どう反応するでしょう?
たとえば、私の場合。今は、かっとなったり、ショックを感じることはありませんが、たとえば、「あなたの着ている服、趣味悪いわ」とか、「あなたのメガネ、度数、あってるの?」と言われた時ぐらいの反応はするかもしれません(笑)
心身は自分ではない。けれど、心身があるから、この世界を体験したり、その中で立ち回ったりできる。その意味で、大切な道具ではありますものね。道具を貶された時くらいの反応はします(笑)。
服を着ないと、普通外には出られなかったり、目が悪いと、メガネをかけないと、ものが見えません。それとちょうど同じように、この世界を体験して、その中で立ち回るのに、どうしても身につけなければいけない、大切なキット一式のようなものと、心身を、見なすようになります。
歳を重ねるにつれ、性能が落ちたり、着け心地悪くなってきたりします。解決できる問題は解決しますし、修復できるところは、もちろんするけれど、仕方ないいところは、まあ、それもいいか・・・この中でできることをやろう・・・そう思いながら、心身と付き合うのは、エゴではありません。
もちろん自分が服を身につけたり、メガネをかけたりしていることを、いちいち意識しながら四六時中生きているわけではないのと同じように、心身も、ほとんど自分の一部だと思えるほどです。
でも、アイデンティティがだんだん、
あらゆるものとつながった、愛そのものとしての自分の本性の方に移り、
「こちらこそ本当の自分だ!」と思えるようになればなるほど、
心身との間に、自然に、距離感を感じるようになってきます。でもその距離感は、心身を否定したり、なおざりにするというより、逆にいたわるように働きます。だって、距離をもって、心身をながめているのは、愛そのものですから。
大切な道具として、愛情深くメンテするようになります。
私の場合など、自分を心身だと思っていたときよりも、ずっと心身に対して優しく接するようになりました。特別な健康法は、何もやっていませんが、
疲れた時には、しっかり休ませますし、
少々、不調があっても、「そういう時期なのね」と別に気にせず、その範囲内でできることをする。
ただ、必要を感じたら、いつでも病院にチェックに行きます。
つまり、ごくごく普通に振る舞ってます(笑)
*
先ほど、私の心身は「悲惨な状態」にあるって、言いましたが、その限界に対して、憤りを感じるというより、いたわりを感じるようになってきます。
心身との自己同一視が失われた時、心身に対する過剰な期待や執着や、そこからくる愛憎関係も剥がれ落ちたからです。
というのも、心身を自分だと思っている限り、心身がどんな状態にあるかに、私の人の幸せがかかっていることになりますよね。
心身には、「健やかで、美しく、理想的な状態にあるように、頑張ってくれないと困る」わけです。だからそこにたくさん投資して、過剰な期待をかけるようにもなります。そのせいで、大切にしているつもりが、逆に酷使してしまうこともあるかもれません。私もそうですが、極端なダイエットとリバウンドを繰り返したことのある人には、おなじみのプロセスですね。
でも、心身を自分と思わなくなるにつれ、心身は、「不完全なりに頑張ってるね。ご苦労様」と声をかけたくなるような、いたわりの対象になるというわけです。
なぜそれができるかというと、私自身の本当の価値は別のところにあること、そちらの方は、ゆるぎがないから。何につけても、余裕が生まれ、適度に放っておけるようになるからです。
*
自分の心身の条件付けに対して、いたわれることができるようになると、他者の心身の条件付けに対しても、同じように、いたわることができるようになります。
と同時に、その条件付けを透かして、その奥にあるその人の存在の光をみることができるようになります。
たとえば、私の知り合いに、お母さんがあまりに心配性で、自分の子育てや、やることなすことに過干渉で耐えられないとこぼしていた人がいました。
ただ、このお母さん、戦争中や戦後にものすごく苦労した人なのですよね。その強力な条件付けの中で、愛を表現すると、心配性として出てしまう。でも彼女としては、そうすることで、せいいっぱいの愛を表現しようとしていたんですね。
そのことが一旦、理解できたら、
そうやって条件付けられ、心配に影らされる以前の、お母さんの愛そのもの、そこに透かし見ながら、それだけを受け取ろうとすることが、彼女にもできるようになりました。ランプシェードを透かして、その奥の光だけを見ようとするように。
その時に見えてくるのが、お母さんのゆるぎない存在価値、お母さんのプレゼンス というわけです。
どんなに厚い雲(条件付け)に覆われていても、その背後に輝く太陽、
その人の本当の姿、その人の存在の輝きは、全然、損なわれていません。
ランプに、分厚いランプシェードがかかりすぎていて、奥の光が見えにくくなっているようなものです。
それでも、ただ、奥の光だけ、この分厚いランプシェードを透かしみるようにして、見続けることはできます!
先ほど、「僕は悪い子ではない。たまたま今、悪いことをした、いい子なんだよ」と答える子の話をしました。それをもじって、
「その人が悪いのではない、たまたま今、その人の条件付けが悪いんだ」と言うことができるかもしれません。
ランプシェードの分厚さにばかり注目していて、その奥に輝く光が見えなくなっていた時には、醜く見えていたこの覆いも、
光に透けて見え始めるにつれ、美しく、愛おしく、感じられてきます。
ちょっと変だけど、それなりにいい味出してる! 大切にいたわってあげたい!
って思うようになります。
でもそれは、「奥の光だけ見る」その姿勢があってこそ見える美しさであり、愛おしさなんですね。
どんなに分厚い条件付けに覆われていても、
ランプシェードの奥から現れ出る、その人の存在の輝きは、
あなたの存在の輝き、あるいは他のどの人の存在の輝きとも、まったく同じ輝きです。
見え始めるやいなや、それはあなたの存在と一つに溶け合い、あなたの中にも、理解と愛がそこに満ち始めます。つまりそうすることで、これを見るあなたの存在も、完全なものになる。
だとすれば、こちらだけ見るに越したこと、ありません!
フランスの非二元のティーチャー、フランシス・ルシールは、ある人に、「どんな人にも、犯罪者にも、そして、動物にも、気づきはあるのですか?」とたずねられて、「あなたはなぜ、その全てを気づきとして見ようとしないんですか?」と答えました。
気づきというのは、ここで言っている「存在」の光、すべてのものが分かち合っている共有の存在のことです。知性からそこに接近する時「理解」が、入り口になります。ジャッジメントというより、ああ、そんなわけだったんだ・・・って、その人の立場からものを見る感じの理解です。感情でそこに接近する時は、「愛」が入り口になりますし、知覚で接近する時には、「美」が入り口になります。
それを見るかどうかは、本当に、こちらの選択次第なのです。
「こんなにひどいことをしているこの人には、気づきがない」あるいは「まだまだ修行が足らない」とジャッジメントを下すたびに、
その奥にあるせっかくのこの光を見るのを拒絶していることになります。
それは、取りも直さず、自分の光を感じるのを拒絶しているのと同じことなのですね。
というのも、「この人、まだまだレベルが低い」「修行が足らない」とジャッジすることで、自分は人より一段上、賢い人の位置に立った気がしますが、その瞬間、私はその人から自分を切り離してしまいます。人と自分を切り離すのは、エゴです!
つまり、優位にたったどころか、その人同じ土俵に立ってしまったというわけ、エゴの中のどうどうめぐりの中に自分まで閉じ込めてしまったというわけです。
つまり、あの人はエゴ、でも私は愛の中にいるなんてできない。そのこと自体、私たちの人により違い、分離した部分を見ていることの証拠ですから。
私もその人も共ににエゴでいるか、
私もその人も一緒に気づき、愛の中にいるかしかないわけです。
表に現れた姿がどんなにものでも、ひたすらその奥にある存在の光だけに照準を合わせ、
それだけ見る・・・表に現れた姿がどんなにものでも、ひたすらその奥にある存在の光だけに照準を合わせ、それだけ見る・・・それができるかどうか、それだけが問われているわけです。
*
そんなことを言うと、盲目的な信仰に従って生きているように聞こえるかもしれません。
実際には、「盲目的」どころか、本当にその人に、そして自分に必要な洞察が得られることが多いです。
その人の光と一体化しているので、その人の何が、その光が表に出るのを妨げているのかも、肌身で感じられるようになるからです。
たとえば、「このランプシェードのここに大きな「瘤」があって、それが障害物になって、その奥に溢れてる光を陰らせてる。この「瘤」をこうすれば、多分外せて、大量の光、愛が表に出れるのに!」 そういったことが、体感でわかってくるんですね。
そういう意味で、助言はいくらでもできます。といってもそれは、ジャッジすることとは違う。その人の素晴らしさ、それは自分の素晴らしさでもあるのですが、そこから目をそらさないからこそ、出てくる洞察だからです。それは、本当に価値のあるものだけを、表に出すための洞察です。
でも、実際問題として、それ以外に、必要な洞察って、あるでしょうか? ダメなものをダメだって、いくら叩いても、そんなに意味がない気がします。
あらゆる人は、その奥にこの存在の光、愛をたたえています。
もちろん、それが、いろいろ、屈折して、ひねくれた形で表に出ている場合もたくさんありますが。
それは、下手くそなたとえ話、
でも、それで素晴らしいことを伝えようとしているたとえ話を聞いているのに似ています。
話は、ひねくれていて、混乱していて、わかりにくい。下品で不適切な言葉だらけで、耳を塞ぎたくなるかもしれません。
それでも、たとえ話を聞くとき、重要なのは、それが何を言わんとしているのか、その意味を把握することですよね。
辛抱強く、耳をすませて、ついにはその意味がわかり、その素晴らしさに心を打たれた、その瞬間、
たとえ話そのものがどんなにひどいものでも、笑ってゆるせますし、手放し、忘れ去ることができます。
分離した心身、エゴとしての私たちの性格や行いのすべては、
その奥にある存在の光、安らぎ、愛をなんとか表現しようとする
下手くそなたとえ話のようなものなんです。
実際、これができるようになると、次第に、
どんなにひねくれた形であれ、その人の条件づけの枠内で、
その人にできる精一杯の形で、愛を表現しようとしたり、愛を求めて叫んだりしてるって、
感じられるようになります。どんなにかすかであれ、そこで感じられる、愛に対するその人のこの憧れに、楽器同士をチューニングするように、共鳴させてみてください。すると、だんだん、その人の本来の姿が感じられてきます。
「二人組セッション」
リビングミラクルという、奇跡のコースの実践をベースにしたコミュニティの中には、
「二人組セッション」と呼ばれるワークがあります。仏教系の伝統から来ているそうです。
私はそこのメンバーによるリトリートで体験させていただきました。
だから、そこで教えられたバージョンしか知らないのですが、
やり方は、クリアリングとほぼ同じです。
ただ、話の聞き手は、相手の話を聞いている間、
「光はすでに来ています」「愛だけが存在します」といった、コースの引用、特にワークブックレッスンの言葉を使うことが多いのですが、
何があっても揺るがない、その人の存在価値の完璧さを表す言葉を、心の中で一心に念じながら聞きます。
話がどれほど、陰惨でも、攻撃的でも、それに反応することなく、動揺することなく
ひたすら、「光はすでに来ています」「愛だけが存在します」と念じながら、聴き続ける練習です。
結構きついので、時間を限定して行います。最初は3分から始めます。はじめと終わりに、その間、念じ続ける言葉を、2人とも、口に出して唱えます。時間が来たら、話し手と聞き手の役割を交代して、また同じように、言葉を唱えてから始めます。
慣れるにつれて、5分に伸ばすところまでやりました
リトリートから戻った後、普段の生活の中にも、同じことをやる機会、たっぷりあるのに気づきました。人の愚痴や悩みを聞く時、あるいは、自分や他の人に対して、感情的になってる相手の話を聞く時、もちろんそこでは、一緒に言葉を唱えたりはしませんし、相手は気づかないことがほとんどですが。「それにもかかわらず、この条件づけの背後に、この人の完璧な存在価値が、輝いている」のを目撃し続ける練習です!もちろんその間、必要な応答、会話、行動はとりながら行っています。
結構大変ですが、やりがいは、大ありです。
まず、その人に対する、強力な信頼の表現になります!
どんなにかすかであれ、良い部分、強い部分に、注目していると、
注目している部分が、実際に、浮きたち、生き生きと、見えてきます。
それをその人も、感応しはじめ、その人の言動もだんだん変わってきます。
ただ、話を聞いているだけなのに!
何より聞いている私自身の助けになります。
相手と自分は鏡合わせになっていて、相手の「ダメな」部分に注目していると、どんなにそれが正当なジャッジメントに思えても、自分も惨めな気持ちになってきますが、そんなの看過して、ひたすら「良いところ」「強いところ」だけに照準を合わせて見ていると、自分の「良さ」「強さ」も生き生きと感じられてくるからです。
しっとり系の自己愛があらわにしてくれるように、深いところで、私たちはつながっているからです。
しっとり系の自己愛があらわにしてくれるように、深いところで、私たちはつながっているからです。
だから、相手の存在価値に触れることで、それとつながる自分の存在価値に触れることもできます。
目の前の人に、クリアリングをするのは、自分がしてもらうのと、同じことも、だんだんわかってきます。
騙されたと思って、ぜひ、お試しください。
(写真は昔バークレーにあった感謝のカフェの入り口の花です)