ゆたかさから始まる仕事

犠牲知らずの仕事をめざす!

仕事は、やりたいことをあきらめて、やらねばならないことをやる自己犠牲の場だって考えられてる。多くの人にとって、仕事は、自分自身をささげる生贄の祭壇のようなもの。だって、過労死する人、ストレスから自殺する人もいるくらいだもの。時間や活力だけでなく、健康までささげているわけだからね。

しかも、犠牲をささげる先は、神様ではなく、私利と自己保存、利潤最大化をめざす企業。

何事も我慢が肝心。そうすれば、いつか花が咲くのだから。好きなことして生きていけるなんて、わがまま言っちゃいられない。「欲しがりません、勝つまでは」私たち日本人の多くは、戦争が終わったあともまだなお、そう信じこんで、滅私奉公。がむしゃらに働いてきた。

つまり、「今、ここ」で、しあわせに生きることより、「いつか」しあわせになるための準備、そのための条件を整えるのに奔走するために、仕事する。

絶えずなされる我慢我慢、この自己否定のためにだんだん感覚が、麻痺してきて、しあわせがなんだったかも忘れてしまい、いつのまにやらそのみすぼらしい代用品に、大枚をはたいて満足する始末。

そうこうするうちに、私たちが生きていくために本当の意味ではなくても構わないもの、どうせすぐに捨てられる、なまぬるい気慰めしか与えてくれないがらくたが大量に生産されていく。

その代償としてポイっと葬られるのは、何世代もの複雑な相互作用でやっと完成にこぎつけた壮麗な生き物の殿堂、私たちの生命を支える自然。

しかも、原発のような先の世代に巨大な負荷を置き土産に残すものさえ作られてきたのだからたまらない。

本当に地球のため、皆のためになることは何か、それを探り続けるには、感覚、知性のセンサーを研ぎ澄ませないと!

そのための大前提は自分を大切にすること。しかも、「いつか」ではなく、「今、ここ」で。今、あなたが身を置く場所がどこであれ、そこにどっぷりくつろぎながら、まわりのものが静かしずかでうつくしい調和をしっとり漲らせていくその様子をしみじみ味わってみよう。

それは決して難しいことではなくて、とても自然なことでもある。やることといえば、深呼吸して、力を抜いて、「今」の中にすっと身をあずければいいだけなのだから。決意次第で、いつでも、どこでも、どの瞬間の「今」でも、手にいれることができる。別に絶景地にいかなくても、騒音のただ中でも、散らかった家の片隅でも、大丈夫。何にも心配する必要はないんだよ、うんと自分を甘やかせて、瞬間の感覚に身をまかせていいんだ・・とゆるすことさえできれば、どんな混乱の中にも、調和が感じられてきて、「わが家」のようにくつろぎ、安んじて棲みつけるようになる。

そうしてはじめて、周りのものも目に入るようになる。生き物の、隣人の気持ちも慮れるような余裕もできてくる。だって、ここ以外に、まわりのものとつながり、共感しあえる唯一の入り口はないのだから。そこをまずは全開にしないとね。

人や自然や、すべての生きとし生けるものとつながる唯一のチャンネルである「今、ここ」。これを犠牲にして、「いつか、どこか」のために奔走すれば、自分自身も、周りで本当に何がおこっているかも見えなくなるのは当たり前。どんどん視野狭窄で、ひとりよがり。せいぜい、自分と同類の人たちとか人間の利益のことしか考えることしかできなくなる。まして地球の他の生き物と共感することは至難の技。だから、地球全体から見ると有害なものをつくる可能性の方がずっと高くなります。

つまり、自分のやりたいことを押し殺し、否定、麻痺させて、滅私奉公する企業戦士たちは、当人がしあわせになれないだけでなく、周りのものもまきぞえにしてしまうおそれがある。かくして、平気で環境を破壊したり、子供達の未来を奪ったりする仕事を平気で、延々と続けることもできるようになる。

たとえそこで、最新テクノロジーや、発明の才が発揮されても、その根底にあるのが、不便を解消しよう、もっと楽に、もっと効率的に、生産的になろうという発想であれば、同じ穴の狢だっていえる。「より良く」しようとあくせくすることは、ありのままの「今、ここ」に、安住するのを拒むってことだから。「今、ここ」は、「いつか、どこか」で、満たすための空っぽの場所にすぎないっていってるわけだから。でも、実在するのは、「今、ここ」。人や環境と出会えるのも、「今、ここ」。これと比べれば、「いつか、どこか」こそ、空っぽだって言えないかな?

「今、ここ」という唯一実在するものを「いつか、どこか」という空っぽなもののために犠牲にする。それは構造的な問題で、そこに関わる個人が「悪い」わけではない。

原発だって、これを作った人たちも、支え続けてきた人たちは、決して悪い人たちではなかった。自己犠牲的なまでの献身ぶりで一生懸命職務に励む誇り高い職人たちだった。でも、「今、ここ」にいる自分を大切にし、甘やかし、他の生き物たちや、地球全体とつながることだけは知らなかった。危険と汚染と背中合わせのエネルギーはいくらでも提供できても、生きとし生けるすべてのものとのつながりの回路から、愛のエネルギーを漲らせ、放射することはできなかった。そこが問題だったって言える。

この種の仕事からは、3.11を機にきっぱり足を洗いたいと思う。

今、ここにすべてがあるという前提からはじめる

「今、ここ」にどっしり腰を据えるには、それを愛して、肯定できる必要がある。
そのときに必要になってくるのが、ナウトピアのアプローチだ。ナウトピアとは、ユートピア・ナウを縮めたもの。理想状態は、すでに、今、ここにあるということ。というより、今、ここ以外に、その端緒はみつからないという考え方だ。

ユートピアの語源は、どこにもない場所だそうだけど、普通私たちは、この世界にどこかおかしいところがある、欠如したところ、不全なところがあるから、理想の世界をつくろうとする。ユートピアは、今、now ここにあるじゃないのというナウトピアはあえて、そこに疑義をさしはさむものだ。今、ここに必要なすべてがある。私たちはすでにパーフェクト、しあわせ。大丈夫だってことを認めて、これを素直に日々の生活で表現するのがナウトピアンだ。

とてもシンプル。一見、当たり前に見えるけど、世の趨勢は、これとは正反対の「このままではダメ」という前提で動いている。だから、それだけで結構、変革力があったりする。

というのも、今の世の中、多くの人がいろんなことを心配しながら生きている。
心配の根底にあるのは、何か欠けてる、十分じゃない、失うのが怖い・・・といった「欠乏のパラダイム」。

このパラダイムこそ、必要以上にものをためこむ貪欲をまねき、資源の枯渇、環境破壊をみちびく張本人だと言えるかも。

それはもちろん状況にもよるけど、多分に解釈の問題でもある。というのも、全く同じ現実も、そんなふうに、「欠けてること」に注目していきることもできれば、「こんなにある、すばらしい」と満足、幸せ、祝福の観点から生きることもできるからだ。これを「ゆたかさのパラダイム」と呼ぼう。

同じ現実を、すばらしい、と感謝して、満足して、受け取れる人は、貪欲にはならないし、自然、コミュニティ、地球を慈しむ人になりやすい。

欠乏か充溢か。どちらのパラダイムでものを見るかは、現実がどんな状態かにかかわらない。たとえば、コップに半分水が入っている時、「半分しかない!」と欠如に注目するか、「半分もある!」とあるものに注目するか。

あるいは、どう見ても何にもないように見える時ですら、「今は冬で、もう少ししたら花咲く春、実りの秋を迎えることができる」と思いながら、ゆったり、落ち着いて、待つことだってできる。それができれば、もうれっきとした「ゆたかさのパラダイム」内の住人だ。

注目した方に私たちはエネルギーを与えるので、「今、ここ」にすでにある「充溢」の側に注目し、それに感謝するとき、私たち欠如よりも存在に、不安よりもゆたかさや感謝の念をふくらませ、育てていくことができる。

私は数年前から、北海道の田舎に移り住んできているが、本当に素敵なところなのに地元の人たちが「ここは何もない」と口をそろえているのを遺憾に思っている。そう思う人たちが、都会へ出て行ったり、変な開発をしたりして、田舎をダメにしてるといえるかも。

もし、「今、ここ」にもっとどっしり腰を据えて、まわりをしっかり観察すれば、いろんな生き物がいて、空が、星がきれいで、空気が澄んでて、生きるために必要なものはなんだってあるのがわかる。

他の人たちがこれを気づいていないようだったら、気づけるような仕掛けをつくろう。例えば、同じ景色も、それを上手に切り取って見せてくれる窓のある場所で、くつろいでお茶ができれば、全然違って見えてくる。まだまだ滅多にしか会えない美しい花や蝶も、生態系を修復すれば、場所を埋め尽くすようになるかも! 育てていこう。これがナウトピアンの社会変革のアプローチだ。

そうやってできるのは、眼を見張るようなパラダイスになるかもしれない。とはいえ、すでに「今、ここ」にあるものを、ダメだと否定して、ブルドーザーで更地にして、一からやり直してもつくったユートピア的なパラダイスとは、似てるようで全然違う。

ナウトピアンのパラダイスは、「今、ここ」を否定するのではなく、祝福し、生かしながらできていくもの。だから、とっても自然で、場所に根ざしてる。

ナウトピアンのこのアプローチを自分自身に向けると、一種の成功哲学にもなる。

自分の現状が嫌い。生まれ変わるために、誰かに、何らかの方法にすがる。幸運を夢見てただ待ってる・・・そんなやり方をやめるってことだからね。だって、萌芽的なものであっても、私の「今、ここ」にすべての力があるって考えるわけだから。必要なことといえば、それを引き出すこと。今、ここでできるやり方で、表現し、みんなのために役立てようとすること。

例えば私の場合。本を書いて生きていける著作家になりたいのだけど、それにはたくさんの幸運や才能がいる。自分にそんなことができるか、油断すると心配になってくるし、おそれに心が塞がれてしまうこともある。でも、そんな暇があったら、書き続けた方がいい。

どんな小さな兆しでもいいので、私ってすでに作家!と思える芽を今の「ありのままの自分」の中に見つけて、そこをとにかく活用し続けること。

と同時に、自分のアイデアが人の役にたちそうなチャンスは逃さない。

ちょうど今の私のように。出版社が決まらなくても、手作り本なら、自力で作れる。それを、目の前にいる、それが役に立つかもしれない人のために、とりあえず、書き続ける。

心の葛藤、心配、不安のような雑念はとにかくうっちゃっておく。そうして、「今、ここ」にすでにある「ゆたかさ」を、目の前にいるひととシェアし続けることが肝心。

だって、先のことを考えたって、他の人たちと比較したって、仕方がないからね。とにかく、その都度、できることをやるのさ。

そんな方法で、何とか今まで道を切り開いてきている。

そうすることで、少なくとも、いろんな罠をかわしていける。たとえば、自分は不運な犠牲者、誰か自分の運命に責任とってよ・・・なんて世を嘆きながら受け身で生きていく暇もなくなるし。

受け身体質の人たちの期待に応えるべく、「俺に任せとけ」と、幸せへの手続きを独占しようとする人に騙されずにも済む。

しあわせになるには、何にもいらない。それは、自立のはじまり。真の生産者として生きるってことなんだ。