草の根活動の紹介

障害・贈与・つながりの感覚

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自然は人間にどんなふうに生きて欲しいって思ってるんだろう? 文明以前と思われる人たちの生活だとか、動物に育てられた人間の話だとか、ヒントになりそうなものはいくつかある。中でも私が一番気に入っているのは、すべての人が、この世に生まれ落ちたばかりの瞬間、まだ文明の手垢に染まってない状況について考えること。

「こんなに危険な世の中に、ピストルも持たず、裸で生まれてくるんだから、赤ちゃんは凄い」と安積遊歩さんは言う。生まれてすぐ、立てるようになる他の動物たちとちがって、食べさせてもらい、排泄を手伝ってもらわないと生きていけない無防備さ。周りの人たちが愛して、世話しているのを信じて、自分を開き、ゆだねきって生まれてくる。

さいわいなことに、それは片思いで終わらない。ほとんどの親たち、近親者にとって、赤ちゃんは存在自体が祝福そのもの。泣くこと以外に何にもできなくても、ただそこにいるだけで、天からの最高の贈りもの。それに応えるように、無条件の愛が降り注がれ、実際に世話してくれた人がいたおかげで、今ここにいる。赤ちゃんの状態で放置されていたら、そこで死んでしまっていたわけだから。

その後、文明がどんなに正反対のことを吹き込んで、渡る天下は鬼ばかりだと信じこませても、生まれたばかりの私たちが最初に体験する人間関係のかたちだ。これを、人間たちはかくあれかしという自然からのメッセージだと受け取ると、どうなるだろう?

そういえば、自然の方から私たちに関係する仕方も、こうした無条件の贈与のかたちをとることに気づかされる。どんなに人間が自然をコントロールして、たとえば食糧生産の過程を産業化しても、雨が降り、太陽が照ってくれているおかげで、私たちの生命が、すべての営みが成り立っていることは変わらない。しかも自然はそうした、私たちの生命を維持するために最も根本的に必要なものを贈ってくれながら、何も見返りを受けとらず、また、その恩に対して、私たちがどう応えるかに関しても、完全に恩知らずの破壊も含め、自由意志による選択の余地を与えてくれている。自然とのこの関係をそのまま人間同志の関係にも延長したときに現れるのが、無条件の贈与からなる関係的プロセスといえるかもしれない。それは文字通りとても自然な関係プロセスなのだ。

つながりの感覚は、世界をこの贈与の連鎖によってできたものとして、あらわにしていく、この感覚の中に沈潜するにつれ、自分が今ここに存在しているということ自体、無数のものからの贈り物なのだ。私は無数のものからの贈り物からなっている。と同時に私という存在も、他の無数のものへと捧げられる贈り物であるといった洞察も生まれてくる。それはいわば関係性の中にあますところなく織りこまれた存在として、私をあらためてとらえなおすことであり、世界に対する感謝と献身のゆるぎない基盤をなすことになる。

子供の記憶、自然との関係のほかにも人生のいろいろな側面が、このつながりの感覚を思い出させてくれる。病気のあと、自然治癒的に、健康が徐々に回復していくプロセス。そこでは、自分の身体が、自分をとりまく自然、環境、人々の気遣いや愛情から力をもらっているのにあらためて気づかされる。実際、どんなに私たちの意識的な生活が分離でなりたっていても、私たちの身体が、新陳代謝、呼吸をはじめ、環境との間のつながりの中で生きていることには、実際、変わりがないからだ。身体に直接関わること、私たちの本能的な部分とかかわる場面では、この感覚がよみがえる可能性が高いのはそのせいであろう。それはたとえば、どんなに美味しいはずのものも、人からそれを奪い、傍らでその人が恨めしそうにしているそばで食べてもちっとも美味しくないといったかたちで、日常的にも体験されることだ。あるいは、誰か知らない人が溺れたり、プラットフォームに落ちたりするのにいあわせて、その人を助けようと、思わず知らず自分の命の危険も顧みずにとびこんで助ける人としての話は、つきない。

この感覚を、さまざまな知識や洞察を加えながら発展させていくと、それは今目前にいる人やものとの関係を超えて、どんどん広がって行くだろう。たとえば、今の私たちの豊かな生活が、どこか見えないところにいる人や生き物に危害や搾取を与えることで成り立ってことにも耐えられなくなっていくことは、十分考えられる。「世界のすべてのものが幸せにならなければ、個人の幸せはあり得ない」という宮沢賢治の言葉は、高邁な理想どころか、私たちの身体の古層にわずかながらも残り、息づいているつながりの感覚がめざめるにつれ迫ってくるリアルな現実に他ならない。それは同時に、私ともの、およびその両者と関係するすべてのものの間に、より深い調和が生まれるよう、私自身がまずは行動するよう誘いかけていく。この感覚は、私たちに、社会を変えたいという動機を、とても自然な、純粋なかたちで与えてくれるものだ。

つまり、世界から不正をとりのぞき、平和を築くには、私たちすべてが、誰かの無条件な献身抜きで生きることができなかった赤ちゃんだった頃に体験したこの人間関係を思い出しさえすればいいのかもしれない。これを意図的に仕掛けるのが「歓待の社会運動」。詳しくは拙著『ナウトピアへ』の6章3節をのぞいていただきたい。

ともあれ、誰しも赤ちゃんのときには体現していたこのこの世界を思い出すために、一つの大きなきっかけを与えてくれるのが、障害者の存在だ。
「いわば、私たちはみな、2歳くらいまでは『重複重度障害者』だ」と言ったのも、安積遊歩さんだが、その言葉をもじって、「重複重度障害者は、私たちすべてが、2歳まで生きていた現実に戻してくれる存在だ」っていうこともできる。

「自分のことは自分で面倒をみろ」とか、自己責任論と競争主義が横行する今の世の中「助けて!」と言うことほど勇気がいることはない。でも、そうしてはじめて、生まれたばかりのわたしたちが皆、知っていた人間関係のパラダイスも、戻ってくる。それがいつだってできる障害者の人たちが、正直、うらやましくなることすらある。介護者がいるというのを、まるで口実のようにして、自分の周りに相互扶助と分かち合いと、腹を割ったコミュニケーションたっぷりのコミュニティをつくってしまう安積遊歩さんを見てると、とりわけ、そう思う。

でも、まあ、ないものねだりをする前に、まずは私から、赤ちゃんのように周囲を信頼しきって、自分をゆだね、助けを求めれる・・・弱さをさらす強い人になりたいって思う。

彼女と会ってから、「障害者」の定義が、自分の中でどんどん変わってきている。目から鱗が落ちっぱなしだ。

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