ナウトピアのつくり方

多数決を超え、まつりごとへ

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私は、政治の一番基本のところには、すべての人、生き物たちとのつながりの感覚があるって思ってる。スピリチュアルなことを政治と一緒くたにするのは、諸刃の剣かもしれない。でも、この一体感なくして、全く利害関係を異にする遠いところにいる会ったこともない人や、まだ生まれていない子供たちのことをわがことのように案じて行動するって、少なくとも私にはできないから。

自分と近親者の立場しか眼中にない視野の狭い人に正しい判断ができるとは思えない。本当の争点はそこにある。

このつながりの感覚から見てみると、今の政治制度、いろんなところがおかしいって、つくづく思う。

たとえば、多数決の制度。51%対49%で決まるときなど、49%の人たちの意見が犠牲になる。つながりの体験が教えるのはしかし徹底的な非暴力。誰も犠牲にしてはいけない。1%の人々であれ、犠牲にするのはまずい。

それに、斬新的なアイデアは、一人の人、少数の人から始まるのも、私たちの経験が教えるところだ。ガンディーも次のように言っている。

ただ人数が多いからといって、多数派の意見に少数派が合わせなければならないと思っている人は、多数派の言い分は常に正しいという迷信にとらわれている。物事はまさにその逆ではないか。
これまでの歴史の中で、幾度となく繰り返されてきたように、
すべての改革は、少数派が多数派に反対することから始まっている。
(ガンディー『ヒンドスワラジ』)

多数決に頼らず全員意見が一致するまで、話し合うのが、非暴力のやり方。そのためには、10人程度の小さな集まりである必要がある。その単位で決めたことを、代表者が、また10人くらいの町内会規模の集まりで話し合い、そこで決めたことを・・・というふうに上に持っていけるのが理想だろう。

ハンナ・アーレントの『革命について』では、ほぼ同時期に起こったフランス革命とアメリカ独立戦争を比較。フランス革命が恐怖政治に終わり、その後もなかなか王政から脱却できなかったのに対して、アメリカは民主主義の樹立に成功したのは、アメリカの方にはそうしたローカルな小さな評議会がたくさんあっためだったと分析した。それは手間がかかるようだけど、そのプロセスで、たくさんの市民が議論に参加して、問題を自分のものにすることができる。だから一旦決議が出て、新しい法律などができたときにも、市民の理解が行き届いていて、積極的な協力が得やすい体制にある。斬新な政治体制はできても、民衆の意識は旧態依然としたままといったこともなくなる。

実は、こうしたアメリカ発民主主義は、ジェファーソンが、アメリカ・インディアンのイロコイ族の風習に習ったものだというのも、その後の研究でわかってきた。

ただ、独立戦争が終わり、憲法を起草する段階になって、ジェファーソンは、イロコイ族の風習にはまったく異質の要素を、そこに取り込んでしまった。イギリスの議会制度ですでに使っていた多数決のシステムだ。そこから、今回の選挙結果も含め、その後の一切の悲劇がはじまる。

でも、多数決をしないで、全員が意見の一致をみるまで話し合い続けるなんて非現実的じゃないの? と思う人も多いかも。

イロコイ族にはその点、秘密兵器があった。「儀式」だ。
話し合いの前に厳かに儀式をして気持ちを整え、私たちはここで、神々やすべての生き物や7世代後の子孫の意志を代表しているんだということをはっきりさせる。つまりつながりの感覚をあらためて思い起こし、そこから、「生きとし生ける皆のためになるような」話し合いを始めたので、そんなに意見対立することもなかったという。儀式でととのえた、厳かで愛情深いこの雰囲気の中、エゴイスティックな部分利害だけを代表する人など、出ようがなかったから。個人的な事情や愛着を度外視して全体のために考える人たちが一緒に考えるとき、何が最善かについて、たいてい同じようなところに落ち着く、というのは、今も変わらない。

それでも意見対立して、緊張が高まるとまた儀式を行って、つながりの感覚に戻ろうとした。

この「儀式」の習慣も、ジェファーソンはもちろん、取り入れることがなかった。だから、一致しない意見を無理やりまとめる多数決のシステムが必要になったのだ。

といっても、今の政治システムに儀式を取り入れるのは、難しく見える。妥協案として、アーレントが提唱したように、個人的、あるいは部分的利害を守ることを政治の名に値しないものとし議会から一掃。公共的なもの、つまりみんなのために、一人一人が寄与しようとするものだけを政治の場では取り上げるようにする。儀式のように、エモーショナルで身体的な体験にはならない理詰めの道だけど、直接行動の草の根のアクションと一緒にやれば、それに近いところまで行けはしないだろうか? 行動は、全身でやるものだから。皆のために、皆の前で、自分にしかできない貢献をすることを彼女は「公共的幸福」と呼んだが、これは政治的に表現されたつながりの感覚の体験以外のなにものでもないのではないだろうか?

しかし「儀式」あるいは「公共的幸福」の力をつかって、皆が全体のために、意見一致するまで考えたアイデアで、国のような大きな単位が動くにはどうすればいいか?

やはり、ガンディーや老子が考えたような、顔の見える関係でできた小さな自治の村がゆるやかにつながるようなシステムがいいのだろう。村で全員一致で決めたことを、その地域の村代表の会議で議決し、そこで全員一致で決めたことを、その代表がもう少し大きな単位の会議に持って行き・・・・と繰り返す。

直接民主主義は、未来的に聞こえるけど、宮本常の『忘れられた日本人』などをひもとくと、日本の伝統にも根ざしてるってこと、わかります。村中の人たちが集まって、何日も自分たちの共通のことについて話し合う寄り合いの風習が、離島などについ最近まで残ってたというのだから。
スラブ系の国々にもVecheと呼ばれるこの種の習慣があった。ヴァイキングもそうだし。各地に様々な直接民主主義的な風習があった。そんなのを参考にする手もある。
今の政治システムからはちょっと想像もつかないけれど・・・
思い通りに政治が動いてくれない。そんな私たち対して彼のアドバイスは次の通り。これまで通り、自分以外の人たちの働きに期待し続け、誰かが動けば問題は解決すると考えている限り、わたしたちは、自分たちの目的を達成して、その成果を手にすることはできない。
自分の身は自分で守るしかない。
政府がいかに努力したところで、あなたたちを救うことはできない。
どれほどの権力があろうとも、国民の支持が得られない政府など無力だ。
だから、明日はもう政府はないと思いたまえ。
そのとき、あなた自身が政府となるのだ。
(『ガンディ 魂の言葉』)

つまりナウトピアだ!

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