ローカリゼーション

みんなの寺小屋構想 その後 

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共同のまなびの場、私たちの寺小屋について、夢見はじめると、止まらなくなる。みんなが自立し、自由になるための学校。「取る」よりも先に「与える」、競争するより、助け合う、しかも人の間の垣根を楽々超えて・・・そんな生き方を自然に身につけられる場所。そう「すべき」だからではなく、魂のそこから湧いてくるような本当のよろこび、本当の報酬って、そこにしかないから。つまりあくまで自分のため。それは、勇気を出して人を助けて、それをよろこんでもらえた時のうれしさを思い出してみるとわかる。与える人が実は一番与えられてる。与えて何かが減ることって、少なくとも心の世界では起こらないってちゃんと知ってるから。

そんな与えるよろこびを、いつも楽しんでいる人には、受け取るのもよろこびになる。だってそれは、与えてくれる人をよろこばせることだからね。相手をよろこばせるためにも、警戒心を解いて、遠慮しないで、大よろこびで受けとりたいって思う。

人生は、払った犠牲に見合ったものを対価として受け取る「取引」で成り立つ場所ではなく、本来「ギフト」がとび交う場所。つまり、自他ともによろこべるものを絶えず贈りながら、肝心な時には自分も助けてもらえるって、信頼して生きてく場所。ひょっとするとびっくりするような幸せな贈り物にも遭遇できるかも・・・とドキドキするような希望も育みながら・・・そんな感覚、そんな文化が、ここから発信されていくといいな。

だから、全員が教える人であり、学ぶ人でもあるというのは、この寺小屋の基本。両方やって初めて、この二つが本当は一つのことの表裏だって分かるからね。教えることで私たちは学び、学ぶことで、教えてる。これがうまくバランスして、一体化してるとき、そこには強制も依存もなく、みんな平等。暴力の萌芽になるものが、ほとんどなくなるので、いじめも起こりにくくなるのではないかな?

コアになるのは、やはり、ありのままで、すでに十分愛されてる・・・という安心感だろう。愛情深く、注意深くケアすれば、自然は本来ゆたかだし、いい人間関係も築ける。だから生きて行くのに必要なものは十分手に入るって、骨の髄から知ってる。そんな人は、まずは与える人になる。

逆にこれがないと、心にぽっかり穴が空いて、それをなんとか満たそうという欠如感にとりつかれてしまう。「与える」人というより「取る」人になってしまう。でも、いくら取っても、そこで得られたものは本来欲しかった人や自然との一体感の代用品にすぎないので、満足できず、もっともっと欲しくなる。そうやって誰かが、必要以上のものを貪欲にため込もうとすると、不足もどうしても生まれてしまう。そこから奪い合い、競争が始まり、不平等が始まる。そうやって、今も世の中が回ってる。

こうしたマインドセットも、やんわり解除させてく場にしたいと思うのだ。そのためには、愛情深く、注意深く自然や人をケアすれば、私たちは本来ゆたか。必要以上のものがゆたかに集まることを実地で証明するのが一番。地域に適した、そこでもともとふんだんにとれるものをふんだんにつくる。と同時に、ギフトが自然にたくさん集まる場をつくる。

ふつう私たちが「学校」呼ぶものが、欠如感や競争意識をあおるものだってことも思い起こす必要がある。この寺小屋も「学校」だと考える限り、ついつい同じことをここにも持ち込みがち。でも、問題なところをあらかじめ意識しておくことで、これも極力避けることができる。

たとえば学びを生活と分離させてしまうところ。「学ぶ」ためには、生きていくのに必要なことはできなくていい、親の手伝いする代わりに学校に行ってなさいというところ。私たちはそれを当たり前だと思うし、子供のためだって思ってる。でも本当にそうだろうか?

まだ自給的な生活が残っていた時代には、みんな、地域にふんだんにあるものを上手に使いまわして、また、これからも使い回せるように上手に管理してた。たとえば取り過ぎないようにしながら、衣食住に必要なものを地元でまかない、持続可能な生活を営んでいた。そこにあった知恵や技術は、相当なものだったはず。今も、お年寄りの話をきくと、「おじいちゃんはなんでもできた。畑の食べ物はもちろん、家も建てたし、雪靴も作ったし、橇だってつくってたよ」など聞いたりするのは、その名残。でも、とりたてて学校で教わるというより、暮らしの中で、家族の手伝いなどをしながら、自然に身につけていった。

そうしたものが今なぜ受け継がれなくなったかというと、理由はいろいろあるけれど、一番大きいと思われるのは、子供が学校に行かなきゃならなくなったこと。これと同時に、学びと暮らしが分離してしまう。学校では直接暮らしに関わることはほとんど教わらない。だから学校を卒業する頃には、暮らしに必要なもののほとんどは、専門家や企業にまかせて、そこからいちいち買わなきゃいけない人、つまり「消費者」ができあがる。でも、消費者であるには、お金がいる。というので、お金になる仕事につかねばならず、仕事が集まる都市に出て、実入りのいい仕事を得るための競争に身を投じなければならず、生活は忙しくなり・・・・お金が足りない、時間が足りないといった欠如の世界に住む「足りない君」に、いつのまにか仕立てられてしまうというわけだ。

もちろん学校は専門家もつくるし、専門家の中には、暮らしに必要なことの専門家もいる。ただ、専門家になるための学校教育は、地域に根ざしたものであることはまれだ。自給社会のように、そこにふんだんにあるものを持続可能に使い回すなんてことは、普通しない。企業が量産したものを、地球の裏側からでもどこでも、取り寄せて使うというのが前提になってる。なんでもどこでも、いくらでも手に入る。制約といえば、安く済まさなきゃということくらい。こんなやり方では、持続可能な暮らしはできないよ。

それに、「私に任しといて」という専門家の存在そのものが、他の人にはそれができない、あるいは結果的にできなくすることと表裏一体になってるともいえる。

誰もが必要とするものの生産手段を独占する人がでてくると、みんなその人を頼りにするしかなくなる。そうやって資本主義社会の中で階級の差が出てくることは、マルクスが分析した通り。

専門家はそれを知識や技術の世界でやる人だっていえる。

でも、ちょっと考えてみれば、これって不自然なことではないかな?

ものは使うと消耗するけれど、そもそも技術や思考は、稀少なものではないはず。教えれば教えるほど、増えていく。よく、教えることで、理解も深まったっていうけれど、教えて減る思いをすることなんてまずない。ますます力がついてくるわけだから。

とくに生きてくのに必要な知識やノウハウは、分けあってなんぼ。みんなたくさん持ってれば持ってるほどいい。

もちろん何かに長けた人がいることそのものは素晴らしいこと。ただ、問題なのは、その人にしかそれができない、他の人は、その人の作った物やサービスを大人しく買いなさいという役割分担ができてしまうこと。

と同時に、他の人が、その人に任せておけばいいか・・・ってお任せ体質になってしまうこと。

これは、責任も丸投げするってことでもある。だから、お任せした上で何か支障があったり事故があると、「どうしてくれるんだ!」と怒り出すことしかできなくなる。

もちろん、暮らしに必要なことは、全部、自分でやれなきゃならないというのも極論。たとえば原発の仕組みなんてわからなくても、自分で太陽光パネルを組み立てたり、水車からエネルギーをつくるやり方を知ってれば、エネルギーについて、単にすべてお任せ、責任丸投げする人にはならないはず。最終的には、人に任せることになっても、納得のいくつきあい方をするでしょう。

そんなふうに、納得して生きていく人を増やせる学びの場が欲しいな。

具体的には、衣食住、エネルギーなど、暮らしに必要なことを、暮らしに一体化したかたちでオールラウンドに身につけれる場所。

素人ばかり。でも、できることして助け合ううちに、みんなのできることも底上げされて行く。それが肝心なんだ。普通に暮らすのに、専門知識っていらないことが多い。美味しいご飯を作るのに、調理師の免許、あればあるでいいけど、別になくても構わないように。その都度、その都度の問題で、他の人よりちょっとばかり「長けた人」が、他の人に教える。暮らしの中で衣食住の知恵を自然に身につけていった自給社会の学びを、今の世界で再現したみたいな・・・

インターネットの世界では、すでにそれが始まっている。何か知りたいことがあって、グーグルなどの検索エンジンを使うと、いろんな情報をかき集めることができる。専門家と言える人が書いたものもあるけれど、大部分は、素人。中には疑わしい情報も多い。それでも、とっさに、入り口になることだけわかればいいという時には、十分役に立つんだよね。

それに、素人の強みっていうのもある。しがらみがないので、自由に判断できるということ。専門家はたいてい、既存のシステムに雇われたりして、そこと利害関係ができてしまっているので、「こんなやり方納得いかないよ〜」といった発想が、できなくなってるしね。原発もそうやって維持されてきた。

だからこの寺小屋にはあえて、組織立ったカリキュラムもつくらず、教える人の資格も、その場の合意以上は、問わない。「やれる!」という自己申告をまずは信頼する。

そんな寺小屋づくりが、今、始まろうとしています。参加、協力、みなさんに頼みます。