ディープ・エコロジー

北海道のナウトピア 1

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今回は私が拠点を置いている北海道のナウトピアについて、お話ししたい。とくに、ここ4年間、段階的に少しずつ移住を進めている田舎で進行中のナウトピア的な動きについて。といっても私が知っているのは、南空知と呼ばれる地域。北海道の真ん中よりはやや西側に位置する内陸部の田園地帯。札幌から車で東に1時間あまり行ったところにある由仁町に住みながら、隣の長沼町、栗山町、岩見沢市に住む人たちと交流しながら、気づいたことをもとにしている。

ここには、私が『ナウトピアへ』の中で紹介したような、ストリート・イベントするには、人口密度低い。コミュニティガーデンは都市部では、環境を組み替えたり、都市の定義を変えるインパクト大きいけれど、どこでも畑がある北海道の田舎ではあまり意味ない。北海道そのものが、すでにユートピア的な場所なのだ。

とはいえ、ナウトピア的な運動が必要とされていないも、いえないと思ってる。

どんなナウトピア的な運動が必要とされるか。それを考える端緒を与えてくれるのが、次のようなエピソードだ。

私のパートナーのとしさんが、アメリカのサンフランシスコから北海道の由仁町に移住することを決め、手に入れた耕作放棄地の土地の登記をするために、地元の司法書士の人を訪ねたときのこと。事情をきいた書士さんは、目をまるくして、

「まだいったいどうして、こんな何にもないところに来たのですか?」

それに対するとしさんの答えは、

「私は何にもないなんて思ってませんよ。ここには、何でもあるじゃないですか?」

その後、この話を他の移住者、たとえば東京から来られた中村さんなどに話すと、全く同じことを、町中いたるところで言われて、ほぼ同じ答えを返したという。移住者が誰でも体験する典型的なケースだと言える。

このずれはどこからくるのか? とりあえず、私自身もその一員である方がやりやすいので、そちらから考えてみましょう。
ここには「何でもある」という都市部からの移住者の答えが前提にしている「何でも」にあたることは何か?

「ここには、何でもある」その内実

まずは、食料自給率200パーセントの食料生産地に生きる安心感がある。自分は農業できなくても、しなくても、すぐ傍で、作物がたわわに実り、人手不足もあって取りきれず、ありあまって地に落ちて朽ちていくようすなどを目にしながら暮らすインパクトは大きい。ゆたかな大地に抱かれている安心感というか、都市部でサラリーマンが、あくせく働く動機になる「食べていけないかもしれない」といった欠乏感というものが、全くなくなる。もちろん、「現金がない!」という問題は、依然としてあるのだけれど、人のつながりも濃厚だし、こんなに食べ物余ってんだもの、いざとなると誰かが助けてくれるでしょ。土地はただ同然なので、自給的な暮らしの可能性もあるし、かろうじて2世代前くらいまで、何でも自分でやってた。そのスキルを近所のおじいさんのところに習いに行けるかも。

とはいえ、「何でもある」筆頭は、やはり、ゆったり動けて、一人静かにできるたっぷりとした空間。手付かずの生態系、原生林なども他の地域と比べると残っていること。大空、綺麗な空気、湧き水、雪。緑、山、生き物たち。

由仁町に来てから、としさんは、時計や天気予報を見る代わりに空を見て、今何時か、これから晴れるか、荒れるか・・・などを読みとる練習をしている。お百姓さんたちには全くかなわないし、ゆっくりとしか習熟できないけれど、ちょっとうまくなるたびに、自然とじかにつながる安心感に満たされていく。

実際、自然の光景は刻々と変わり、情報満載なので、何年かここに住んでると、カレンダーなしで、外を見れば、一年のどの時期かもちゃんとわかるようになる。ああまた、そろそろ、畑のあの作業が必要かな、この保存食作りを始める時期かな・・・とこれまた、具体的な作業をはじめる。そうすることで、私の人生と、自然のリズムが共振しはじめるのも、また何とも言えない安心感を醸し出す。

月とのつながりを深く感じる体質の私は、都市部に住んでいた時には月齢カレンダーを愛用していたけれど、ここにいると、それもいらなくなった。寝室の明るさで、月の様子が肌でわかるからだ。満月に近づくと、すべてがほの青くなって、部屋中のものにぼうっと月影がさしはじめ、新月に近いころには、暗く静まりかえるから。月齢カレンダーも、占星術もいらない。肌身で感じられる月のリズムには、意識化できなくても、いろんな情報がふくまれていて、必要なことは全てすでに体感できてるって思えるから。自然、宇宙とつながり、その中で自分も揺らめいて、呼吸しながら、このリズムに参加してるんだなという実感を、こうしたすべてが高めていく。

それからもちろん、圧倒的に高齢化いるけれど、親切な人々がいる。「ここでは50代までまだおねえさんだよ」と言われるほど。年齢を表す数字だけ見ると年寄りだらけだけど、みなとても元気。実年齢、健康年齢は都市部より圧倒的に高い。たとえば80代でもバリバリに活躍中の近所の家具職人の山本さんに、由仁実験芸術農場の家具はほとんど作ってもらった。腕も確か。仕事場には貴重な無垢の一枚板の木材がごろごろ転がっていて、「死ぬまでには片付けていて置いてくれと家族に泣きつかれているんですよ」と言われていたけれど、そうした家族の心配を少しは軽減させたといえるかも。

話がかなり横道にそれてしまったが、元に戻そう。

以上を鑑みるに、「何でもある」と見る時に見えてくるのは、すべて、北日本であれば、まあ、あたりまえにあるものばかり、ここだけにあるのではなく、どこにでも、いくらでもあるもの。ここにしかないものは何もない。(とはいえ、都市化の進行とともに、稀少価値、実際に出て来てるところが、怖いところだけれど)。でも全てつながり、相互作用しあい、バランスすることで、みんなが生きていく基盤になるつながりからなる繊細でゆたかな織物。生態的、文化的コモンズだ。

「ここには何もない」という言葉が前提としているもの

では、「ここには何にもない」という言葉が前提としているのは、何か?
人によって違うと思うけれど、典型的だと思われるのをあげると、
買い物ができるショッピングモールがない。娯楽施設がない。
あっと目を見張るような珍しいもの、他の土地にはないオリジナルなもの、
売り込める商品になるものが何もない。

つまり、稀少価値があるものがない→お金儲けの材料がない→「何もない?」
「ここにしかない」。差異化された希少なものを作り、発信して、経済価値に変えていかなきゃいけない経済至上主義の世界で刷り込まれた価値観。このメガネをかけるや、今、ここにすでに「何でもある」充満も、目に入らなくなってしまう。

といっても、教育、メディアなど、すべてのこの前提で動いているので、無理もない。経済価値とは別のものを求めて田舎暮らしをはじめた都市からの移住者だって、

大資本に入ってもらって、他にはなかなかどこにもないものを誘致してほしいけれど、なかなかそうもいかないので、自分たちでどうにかしよう。そうした草の根的なまちづくりは、それ自体、ナウトピア流といえるかも。ただ、やはり稀少性待望が強く、たとえば、地名と語呂合わせしたりなどと、苦し紛れの名産品づくり。古民家再生のプロジェクトの話し合いに参加すると、その古民家が、どれだけ由緒正しいか、小樽の鰊御殿の青山亭より価値がある(?)などと話してる具合。そのアイデアやセンスが悪いと言っているのではなく、そもそもそうやって「なんとか当たってやろう、話題をさらおう」とする態度、「何もない」ところに、何とかして「どこにもないもの」を持ち込んで、人を呼び、お金を呼びこもうというアプローチが、ナウトピアとは異質だと言える。

というのもナウトピアは、「今、ここ」の状況にすでに萌芽的であれ含まれたものから価値を引き出そうということだから。

それにはまた、「今、ここ」のありのままの状況に、愛着や誇りが持てないと、できることではない。稀少なスペクタクルに訴えるこの手のアプローチの悲しいところは、ありのままじゃダメだ、何か「特別なもの」をでっち上げ、それで箔でもつけないと、自分たちの場所は文字通り「何もない」ということを認めてるってことでもあること。状況に異質な何か特別なものに頼ろうとするたびに、私たちは自分の「ありのまま」の尊厳を否定することになる。

「ありのまま」で、「何でもある」、その調和、美しさは、見える人には見える。でも、そこを無視しながら、苦し紛れに持ちこまれた何か「特別なもの」は、農村風景の中に突如そびえる西洋の宮殿風の建物のように、そこに固有な調和を破壊してしまう。そしてまさにそのことが、本当に自分の価値を貶める結果になってしまうのだ。たとえていえば、素顔はとても、美人なのに(今、ここに、すでに「なんでもある」ことが見える目には、北海道の田舎はそう映るのだけど・・・)、下手くそな化粧どころか整形手術を繰り返すうちに、どんどんブスになっていく人のようなところがある。

先ほど、企業に頼らず、自分たちでなんとかしようとする人たちは一見、ナウトピア流に見えるけれど、そこで稀少性を「売り」にするアプローチをとられると、やはり違うな・・・と思えるポイントはまさにここにある。自分たちの「ありのまま」の存在を否定しながらやってるわけだから。これを肯定した時に自然に醸し出される尊厳こそが、新しい世界を作る力、内発的な権力の源泉なのだから。この源泉をふさぎながら、うわべだけ粉飾して何をやっても、新しい世界をつくる権力は湧いてこない。

稀少性待望型の町おこしアプローチが「悲しい」気持ちを呼び起こすもう一つの理由に、私たち自身が、こうしたアプローチの「犠牲者」だったのではないの?というのもある。
稀少なものを独占的に生産し、発信することで、お金儲けしようという資本主義の競争システムの中で取り残されて、資源もお金も人も吸い上げられ、過疎高齢化が進んだのが、まさに日本の「地方」。まさにその場所で、同じことを繰り返しても仕方がないのでは?

もう一つ、一種の親殺しにつながる可能性が高いというのもある。
たっぷりの生態的、文化的コモンズあってこそ、他にもない稀少なものも生まれてくる(まりもなど)。稀少で珍しいから、当然、経済価値も出る。でも、それらを「売り」にして、なんとか人やお金を呼び寄せようとつかみかかる目には、それを生み出し、今日なお生き残れるよう支え続けた生態的・文化的コモンズのウェブを織りなす相互作用の繊細さは見えない。この織物のほんの一部である自分の欲しいものだけを乱獲したり、あるいはその生産手段に直結するように見えるものを私有・独占して量産すれば、生態的コモンズは疲弊しすり減ってしまう。それを支える繊細なつながりのウェブも、歪んだり引き裂かれてしまう。

注目すべきは、プロダクトとしての稀少なものというより、それを生み出すコモンズの方ではないだろうか?

「あたりまえ」を見直す新たな潮流

とはいえ、希望はある。今、若い世代の人中心に、稀少な商品、体験にうったえようとする町おこしアプローチにうんざり。代わりに「あたりまえ」に注目しようというアプローチの人たちが出て来た。

たとえば、たとえば、でっち上げの名物よりも、どこにでもある普通の料理を、地元の安全でしっかりした材料だけで、しっかり出すローカルフードのお惣菜屋を長沼町で始めようとしている黒川文恵さん。

あるいは、食の危機に、自分でできることで応答しようと、岩見沢市の自宅のガレージで「やおやのveggy」という自然食、オーガニックの八百屋を始めて今年で4年目になる大徳郁子さん。

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農薬、化学肥料を使う大規模農家が多い地域で、それこそ稀少な無農薬・無化学肥料栽培農家から仕入れた地元野菜ががずらっと並ぶ彼女のお店はそれこそ、とても稀少なもの。でも彼女のモットーは、「安心、安全を売りにしない。あたりまえだから」というもの。数十年前までは、無農薬・無化学肥料の野菜しかなかったわけだし、安全・安心とはいえないかもしれないものを、取引対象にするなんてこともなかった。長い目でみればまさに「あたりまえのこと」をしてるにすぎない。

異常な社会の中で、それまで「あたりまえ」だったことが、とても稀少価値のあるものになり、経済価値のあるものになるというのは、実際よくあること。でもそれに乗じてお金儲けしたり、人を呼び寄せようなんて真っ平御免。

むしろ、本来あたりまえだけど、異常な社会で稀少になってしまったことを、ふたたびあたりまえにするのを目標にしている。

先ほど、ナウトピアは、コーオプテーションに対抗するために、
これがなければできない、ここでなければならない、儀式化する、制度化するきっかけをなすものがないようにすることで、形骸化まぬがれる。

私の本、『ナウトピアへ』の中でも、せっかくいい対抗運動が出て来て、成功し、人気をおさめても、それにともなう小道具やイメージを取り込んだものを商品化して、お金儲けのネタにする企業による模倣、「コーオプテーション」が続き、骨抜きにされてしまう話をした。コーオプテーションが問題なのは、せっかく私たちが作った文化が、コマーシャルで乗っ取られてしまうなんてものではない。ずっと深刻なのは、「それさえ」買い、使えば、何かやっている気になる幻想におちいってしまうせい。たとえば、特定の音楽を聞いたり、特定のファッション、トーンアウトのジーンズなどを身につけていれば、何となく、ラディカル、革命的になった気分を味わえるようになれれば、実際ラディカルな行動をしなくていい御免状をもらった気になるというふうに。

これに対抗するために有効だと思われるのは、「これがなきゃはじまらない」特定の小道具、儀式的な手続き、場所などを、極力もたないこと(そうした「かたち」へのこだわりがあると、たちまち商品化されるため)。「よろこび」のような体験の質だけを固守しながら、形骸化を拒むこと。theのつくもの、世界で一つしかない稀少なものになることを拒むこと。theがつきそうになったら、aのつくものに戻る。当たり前の、どこにでもある、目立たない、ささやかなものでい続けること。

本来「あたりまえ」のはずの安心安全野菜を、それと名指さず、theではなくaのついた「あたりまえ」なもののまま、扱うのもその一例だ。

郁子さんの場合、それは徹底していて、値段は、近所の人がスーパーがわりに利用できる価格帯におさめるように、なるだけ直販ルートをとるなどの工夫をしている。

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野菜の料理法の提案にも、この精神が現れている。「野菜そのものが新鮮で、美味しいので、何にもしない、最小限の料理しかしないのが、おすすめです。これこそ本当のファーストフード。よく時間がないから、加工品や買ったもので食事済ませるっていうけれど、いい野菜は、料理ほとんどしなくていいものなんです。素材そのものを味わいながら、作った人や、地元の自然に思いをはせて欲しい」とのこと。

野菜に特別なことは何もしない。「ありのまま」の素材の味を味わうことで、その生産をささえる自然や人のいとなみのつながりのウェブ、生態的文化的コモンズを直に感じれるようになる。郁子さんの八百屋の野菜で、毎日、素材の味を味わう最小限料理を続けることで、この「あたりまえ」をささえる「あたりまえ」の、でも今はとても脆弱で、稀少なものになってしまった自然や人とのつながりを、味覚、身体感覚の中で取り戻す練習ができるというわけだ。

野菜を食べたときの舌や身体の感覚で・・・というと、曖昧な気もするけれど、それを補うものとして、郁子さんと来島路子さんが、共同で作っている「野菜人」という瓦版のパンフレットにある情報も手伝ってくれる。

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というわけで、北海道のナウトピアというとき、私がその特徴としてあげたいのは、他にはない何か特別で稀少なものを探して、「何もない」と、場所をジャッジする視点を変えるように促す活動だ。それに参加し続けるうちに、「今、ここ」に、ありのままで、実は何でもあることに気づかせる。とくに私たちの生命をささえるつながりのウェブ、生態的文化的コモンズの充満を感じられるように、私たちの物の見方をやんわり変えていく。そうして視点を変えて、「今、ここ」にあるナウトピアというパラレルワールドを見出せる力を養う。
それを形骸化しやすい理屈や、コーオプトされやすいファッショナブルなかたちとしてではなく、よろこびの純粋な体験の質として、シェアする。
と同時に、歪み、引き裂かれて本当に「稀少なもの」にされてしまったものを修復して、ふたたび「あたりまえ」になるのを助ける。

これらのすべての要素をみごとにまとめあげる、北海道のナウトピアの真髄とでもいうべき活動として、やはり岩見沢市をベースにした「みどりのおやゆび・チュプ」がある。原生林の残る里山保全をベースにした活動だが、これについては、また次回。