ナウトピア人名録

ガレージの小宇宙 やおやの Veggiyのいくちゃん

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岩見沢市は、平らな土地で、大規模農家が多い。しかも、特に玉ねぎ農家が多いものだから、撒かれる農薬量は相当のもの。農薬を散布した畑からの虫の逃げ道をふさぐために、道にも農薬を撒くこともあるそうだ。私の知り合いの奥さんは、ちょうど梅干しを外に干している時に、そばの道を農薬散布車が農薬を撒き散らして行った。町内会で訴えると、農業への補助金の一部が、農薬の現物支給で代えられていたので、農薬が余り、道に撒いて回ったのだとか。

そこの山で、みんなそれぞれ、好きな生き物に扮して、その生き物を代表するという設定で「全生命の集い」という催しを主催させてもらったことがある。そのとき、前置きのスピーチに、「周りの鳥や虫の声に耳を澄ましてみましょう」というというセリフを入れていたけれど、現地に行ってみると、真夏なのに、鳥の声もしないし、虫の声もしない。ひたすらシーンとしているのでびっくり。もちろん、イベントのために、草刈りをしっかりしてあったこともあると思うけれど、山の麓に広がる農地との関係もありそうだ。

農薬で虫が全滅すると、当然それを食べる鳥もいなくなる。札幌の住宅地にある私の家の方が、虫の声も鳥の声も断然賑やかだった。田舎に行くほど昆虫も鳥もいなくなるというのは、飛行機で農薬散布するような大規模農家が多い北海道ではよくあること。

そんな岩見沢で、自然食の八百屋をいとなむ大徳郁子さんこといくちゃん。戦闘姿勢で、無農薬野菜の理解、普及に努めていると思いきや、おっとり自然体。このお店を開店した一番の動機はと聞くと、近所に共働きの家が多くて、忙しいお母さんに育てられている子供達の食生活が気になったとのこと。どうしても出来合いのもの、加工食品が増えて、安全や栄養状態が気になるだけでなく、きちんと家族揃って、食卓整え、手料理を食べる、食にまつわる文化の崩壊や情操面での影響が心配なのだそうだ。

もちろん共働き家庭で手料理をつくり続けるのは大変だけど、素材が本物、旬の新鮮なものだったら、そのまんま、ほとんど何にもしなくても、美味しく食べられること含めて、知ってもらいたい。確かに、採りたての美味しい野菜、たとえばイモやかぼちゃを無水鍋などでさっと茹でて、お塩やオリーブオイルをたらっと垂らしただけというのが、やっぱり、いちばんおいしいなって私も思う。あれこれ加えて調理すればするほど、まずくなってしまう。というより、素材の味がわからなくなって、自然とじかにコミュニケーションする楽しみが味わえなくなってしまう。

いくちゃんはまた、そのおしゃれで優雅な今の外見から、想像もつかないけれど、昔、男ばかりに混ざって土木工事の仕事をしていたことがあるという。力仕事で、まともにやっていたら、簡単に体を痛めてしまう。そんな中、最小限の力を使って、最大限の効果を出すような体の使い方の研究にはまっていたとか。例えば、呼吸の使い方。重いものも、深呼吸して、吐く息と一緒に、持ち上げると、楽に動かせること。膝と腰に負担が分散するように、膝を曲げて腰を低めるポーズをとるといいなど。最小限の努力から、最大のものを引き出す姿勢は、先ほどの「ほとんど調理しなくても、そのまんまで美味しい野菜」の探求に通ずるものがある。泥にまみれる肉体労働しながら、無駄がなくてエレガント、かつスマートな生きる知恵の研究をしていたなんて、さすがだ。

と同時に、もちろん、彼らが何を食べているかも気になった。体が資本のはずの肉体労働者の人たちが、コンビニのお弁当やカップラーメンで食事を済ませている。若さで今は持っていても、年を取ってからどうなるのだろうなどと心配だったとか。

だからと言って、言葉で危機意識を煽ったり、啓蒙活動に努めるようなことは、しないという。手間暇かけて、本当に納得できるいい食材を探す努力をしながら、それを表に出さない。「安心安全って、言わないんです。だってそれって、当たり前のことですから」というのが口癖だ。さりげなく口にされているようで、深い、この「当たり前」という言葉。その意味するところ、もうちょっと深く探りを入れてみたい。

思えば、人間の食の歴史を長いスパンで眺めてみると、無農薬、無添加の、地元で採れた季節のものをいただくって、本来、当たり前。遠くから取り寄せた季節はずれのものだとか、農薬、化学肥料、化石燃料を使って量産された食が出回るなんて、ここ数十年前に始まった異常事態に過ぎない。でも、そんな環境にどっぷり使って暮らしていても、体は、DNAは「当たり前」を覚えてる。だからこそ、それに出会えば、「そのまんまの美味しさ」に感動する。何より体が喜ぶ。だから、正論振りかざして、言葉で説得する必要もない。クレイジーな世の中で、しばらく忘れられていたこの「当たり前」を思い出してもらえればいいわけだから。

それは、お客さんのこの思い出す力、感性、味覚、何が健康的かを本能的に見分ける身体感覚を信頼する、当てにするってことでもある。

それに、食の危機、崩壊を訴える啓蒙的な態度の裏には、どうしても、お客さんがそのままでは「無知」で、そのままでは正しいチョイスができないという見下した前提がつきまとう。食習慣のように、プライベートで、愛着や、個人的な記憶が染み込んだことを頭ごなしに「間違ってる」なんて指摘されると、ムッとするし、反発を招いてしまう。良かれと思ってやることが、逆に事態を紛糾させることになりかねない。

こうした対立姿勢を避けながら、それでも必要な変化を起こすにはどうすればいいか?

何も言わず、ひたすら、本物の体験へと招待することだろう。

実際、お客さんに足らないところなんて、何にもない。もしあるとしたら、それは「当たり前」だったことを、「当たり前」として思い出すための一押しになるような、ちょっとした体験、きっかけ。またそこで得られた気づきを、継続的な習慣やライフスタイルに落とし込むためのサポート(例えば近所で手軽な値段でいつでもそれが手に入るとか)にすぎない。

だからあえて「当たり前」のことを、口にしない。それは、とても控えめに見えるけれど、食材に対して、お客さんに対して、揺るがぬ信頼がないとできることじゃない。ある意味とても強気で確信に満ちた姿勢といってもいいかも。好戦的な対立姿勢は一切とらないのに、だからこそ、みんなの生活にじわじわと浸透し、10年後には、本当にそれを「当たり前」にしてるような勢いがある。

気負いのない姿勢は、創業エピソードにも表れている。土木の仕事の後、しばらく農家の手伝いをした。無農薬の米農家で、今思えば、生産現場に馴染むための貴重な体験を積むと同時に、あらためて、「当たり前」の食に対する興味を確認したという。女一人でこれからどうやって生きていこうかな?と思った時に出会ったのが、札幌で棚をつけたコンパクトカーに無農薬野菜を積んで、仕入れては売っている長野夫妻。こういうスタイルだったら、始められそうと、とりあえず、車で売り歩くのを始めたけれど、本拠地を作ってお客さんを待つのもいいなと思いいたり、自宅ガレージを改造して、店作りを始めた。お店を開けている時には、車は路駐していて、お店をたたむ夕方には、中のものを全て片付けて、車を入れる。手間がかかるけれど、借金をしなくてすむし、家賃の支出もないから。できることから、DIYで、今、ここでできることから始める。まさにナウトピアン的な姿勢だ。

ガレージの周りには、手作り手書きの木の看板と、風船かづらやクレマチスなどのつる植物が絡み付いた生垣がある。野菜名を記した札も、すべて手書き。簡単なイラストや、商品についてのコメント、食べ方の説明も書いてある。無農薬、自然食品のすべてが概してそうであるように、とっても手間暇かけてある。それをさりげなく、ディスプレイする。だから一見すると、ちょっとかわいらしい八百屋。普通にショッピングをさっと楽しむこともできるけれど、立ち止まって野菜につけられた札に書き込まれた言葉を読んでいったり、郁子さんに質問して、個性豊かな生産農家の物語など聞き始めると、奥深い世界がそこに広がって、いくらでも、時間がつぶせる。車一台用の車庫を使った小さなスペースなのに、すごい情報量だ。時間をかけて見れば見るほど、いろんな発見、驚きがあるのも魅力だ。

「宣伝が下手なので」無理に宣伝しようとしたり、情報媒体での掲載を狙ったりはしなかったという。ただただマイペースに、郁子さんの美意識と流儀に貫かれた場所を手作りすることで、それに共鳴する人を引きつけていく。店の野菜そのものと、そこにいる郁子さん自身が、何よりもの宣伝媒体。ここにも、「そのまんまの素材で勝負」、「最小限のものから、最大限のものを引き出す」、「当たり前が一番」といったポリシーが貫かれてる。

郁子さんは、ミュージシャンで、ドラマーであり、コンサートのオーガナイザーもやる。元々表現者なのだ。私が彼女に初めて会ったのは、私の本についての岩見沢でのイベントだったけれど、自分の夢についてイメージ豊かに語る彼女の表現力は、粒ぞろいの参加者の中でも格別だった。

もちろん、口コミだけでお客さんを作っていくのは時間がかかったけれど、良質な固定客を作るにはやはりこれが一番。お客さん同士も元々知り合いだったり、通ううちに知り合いになったりして、ちょっとした立ち話ができるコミュニティスペースとしても機能してる。

気楽におしゃべりできる雰囲気があることで、どの野菜が特に美味しかったとか、それをどうやって食べたら、いいかとか、どんなものを皆、欲しがっているかとか、どこにいい農家があるかといった仕事のための情報収集も進む。

ドラマーとして、また音楽イベントのオーガナイザーとして今も活躍する郁子さん。コンサートがやめられない理由として、ミュージシャンが投げたかけた音楽が生み出す「感動」が、お客さんに届くと、それがお客さんの数で掛け合わされて、何倍にも膨れ上がり、その場を満たす。その姿を見て、自分も感動する。その快感に病みつきになってしまっているのだとか。

八百屋も全く同じだという。元気な野菜がたくさん並べられ、それを中心に、来た人の話も弾む。元気になって、思い思いの形で、何かそこに残していく。ちっちゃいガレージにありながら、そうやってどんどん場としてエネルギーを上げていく八百屋も、さながらライブ・コンサート会場のよう。

こうしたエネルギーのやりとりで、自分は生きてるんだ、とのこと。そしてもう一つ、八百屋と音楽の共通点があるとのこと。これについては彼女自身の言葉を引こう。

「食べ物や音楽を生み出す農家さんやアーティストたちの人柄に私がゾッコンで惚れ込んでリスペクトしているんです、私がまず感動してグラグラなんですね(笑)自分が感動したものでないと思いは届かないのだな~とか思っています」。

感動こそ、生きる力といういくちゃん。音楽や美味しい食べ物を媒体に、感動をどんどん広げていく、そんないくちゃんの活躍から、今後も目が離せない。

大徳郁子さんのやおやのVeggy 岩見沢市美園2条5丁目1−18 電話 090 5226 5585

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