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YouTube番組 ナウトピアだより1 ナウトピアとは?

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世界が変わるのを見たければ、見たい変化にまずは自分がなりなさい。

ガンディー

ナウトピアとは、ユートピア・ナウを縮めたものです。ユートピアは、もともと「どこにでもない場所」というのが語源だそうですが、それにnow「今!」をつけることで、逆の意味にひっくり返してしまいました。ナウトピアは「今、ここにある場所」。だから、あなたが今いる場所がどこであれ、あなた次第で、そこはナウトピアになります。

どこか別の時や場所に理想の地を求めて、「昔は良かったな」とか、「ここは何にもないからな」などとつぶやくのはやめて、足元をしっかり見つめることから始めようってことでもある。

あるいは、今が理想から程遠いのを状況のせいにして、「いつか、状況が整ったら」、ちゃんと生きようなんて思う。そうこうするうちに、ずるずる、どんどん時間が過ぎてしまってるってことにならないように。

あるいは、どこかの偉い人、権力をとっても腐敗していない善意の企業家や正義漢の政治家などが現れて、その人におまかせすれば、なんとかなるって思ってる。でも、なかなかそんな人が現れないし、現れたとしてもなかなか選挙に当選してくれないので、やきもきしてる。でも、フラストレーションがそんなふうにたまるのは、人任せにして、受身で待ってるだけだから。でも、自分の身体を使って動くことなら、今、ここで、すぐに始められる。そういう意味のnowでもある。自分なんて小さな力しか持たないって思い込んでいるかもしれないけれど、そんなこと、やってみないとわからない。どんなに不利な状況でも、その時にできることってある。それをやろうって意味でもある

山火事で動物たちが逃げまどっている時に、ひとしずくずつ、くちばしに水を加えて運んでは、火にかけ続けるインディアンの神話に出てくるハチドリのように、ナウトピアンは、「できること」をやり続ける人たちだ。

自分のみたい世界に生きれるかどうかは、今日1日をどう生きるか、今、ここで何をするかといった、「今、ここ」での選択と決断の問題なんだって、考えるわけです。だから、あえてユートピアという言葉に、「ナウ」をつけたわけです。

ナウトピアだよりNews from Nowtopia というタイトルは、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』News from Nowhereのもじりです。

たまたま、私たちは北海道にいるので、北海道からのたよりになっています。
でも、北海道が、由仁実験芸術農場が特別な場所なわけじゃない。決意次第で、いつでも、どこでも、あなたのいるところがナウトピアになるわけですから。

特別な場所や状況なんてどこにもない。なぜならそれをつくるのが、あなたの役割なのだからという考え方も、ナウトピアにはふくまれています。

ネルソン・マンデラは、大統領就任演説の中で、「私たちがもっともおそれているもの。それは、自分が無力だということではない。自分ははかり知れない力を持っているということだ。私たちがもっとも恐れるもの、それは我々の光であって、闇ではない」と述べました。

これはとても深いところで、真実をついている言葉だと思います。「飛ぶのが怖い」せいで、何でもコントロールして見通しがきくものにしようとする私たちのちっぽけなエゴが、私たちの可能性、人生そのものも見通しのきく小さな範囲に押し込めてしまおうとするからです。

「これさえ解決できれば、それさえ手に入れれば、あそこに住むことさえできれば、うまくいくのに・・・」というように、いいわけしながら、いつまでもやりたいことに踏み切れない。それは特定の状況やものに依存してしまってるってことですね。とくに私たちが身を置く消費社会は、お金で買えるモノやサービスに、自分の人生を作る力をあずけてしまう。そんなメンタリティをせっせっせとつくってる気がします。あらゆるものにおすがりしながら、自分の中にある「はかりしれない力」にだけは、頼らなくていいように仕向けてる。それって、本当の意味で、生きてるっていえるんでしょうか? すでに大きく成長しているのに、翔ぶのが怖くて、巣の中から出れない鳥のような状態だっていえないでしょうか?

ナウトピアの考え方には、見たい世界をつくるために、依存できる特別なモノや状況、とくにお金で買える商品やサービスなんてどこにもないよ。思い切って自分の翼で空を飛ぼうよという提案もふくまれています。

三栗さんの「パーマカルチャー研究所」が面白いと思ったのは、そんな「特別なもの」への依存、一切抜き。自分の中の「はかり知れない力」だけ依拠すべく、あるものすべて生かすDIYで、新しい世界をつくろうと頑張っていらっしゃるところ。

たとえば、看板は、専門業者に立派なものを作って貰えば、見栄えもするし、人も集まるかもしれないけれど、あえて、そこにたまたまあったダンボールでつくるのが、三栗家流。大げさにやるほど、環境負荷高まっていきますしね。研究所は三栗家の住む札幌郊外のアパートと、フィールドと呼ばれるその近所、藻岩山麓の原野が残る土地からなっています。

パーマカルチャー研究所の常任研究員は、次の4名。

代表                三栗祐己 (番組に出ている彼)
むかしの暮らし研究部・食品担当   三栗沙恵 (彼の奥さん)
発明・料理・電化製品分解担当    三栗雄大 (長男 7歳)
子育ち担当             三栗小雪 (長女 3歳)

要するに、家族です。でも、これは「ごっこ遊び」ではありません。その証拠に、4人家族で、月の電気代500円前後という、驚異的な省エネ生活を、楽しく、エレガントに続けている。冷蔵庫なしで、ベジタリアンの発酵食品を中心にした昔ながらの食を、ハンデをほとんど感じさせないほど美味しく作り続ける奥さんの沙恵さんの腕も、たいしたものです。でもその一切の中心には、「子育担当」(だって、これも自分でやるものだものね)ですくすく育っていく小雪ちゃんの存在があります。私たちがこんなふうに暮らし続ける限り、生命は続き、成長・繁栄し続けることの象徴。実際、すべての家庭がこんな生活できるようになったら、地上の生命も共栄共存できる!

それに研究所の趣旨は、それが、どこにでもある家族の日常の暮らしを舞台に、可能なことを、身をもって示していくことだって考えると、整合性がある。

つまり、遊び心はたっぷりでも、遊びではないのです。

お金を使ったり、「特別な」人やものを入手して、形や状況を先に整えて、カッコいい、先端的な研究所を作る人が、スーパーカーで、地上をスピーディーに自由にぶんぶん乗り回している人に例えられるとすると、三栗さんの研究所はこれに対して、ポンコツ車で、空を飛ぼうとしてるといえるかも。そうやって、普通の人たちが、普通の状態でできることの「はかりしれなさ」を、みんなを代表してためしてるわけです。

話をもとにもどしましょう。

だから、「ナウトピアだより」の舞台もどこにでもある場所だし、それに出てくる人も、どこにでもある普通の人だって思ってください。番組そのものも、どこにでもいる素人の撮ったもので、実際、下手くそです。言い訳するわけではありませんがね〜 だからこそ、あなたにもできる。そんな徹底したアンチ・ヒーローのメンタリティでつくりました。

問題解決、すべてお任せできるヒーローめいた特別な存在がどこにもいなくなることで、依存関係がなくなりますし。また、完全に平等、みんなが主人公になる対等な立場でつながれます。

とても他人の話を聞いているとは思えないような、親しみも湧いてくる。

メルヘンは、いつも、「昔、昔、あるところに、ある〜が住んでいました」から始まりますよね。「何年、どこの国に、何という名前の人がいました・・・」と、時空を固定することもしないし、固有名詞も出てこない。定冠詞“the”もつけられていない、ひたすら不定冠詞“a”を付せられた、どこにでもいる人、どこにでもある出来事。だからこそ、それは、話を聞いてる「私たち」自身の話になるのです。

そこまで映像で表現するのは、今回はまだなかなか難しかったけれど、そんな感覚で、見ていただけると、うれしいです。たとえば、三栗さんの話も、「あるところに、4人家族がいました」というふうに。あらこれってうちとそっくり、うちでも何かやれるかもって思っていただければ、って思うのです。

そうやって、毎日、こつこつ新しい世界の種を撒いている、世界中に散らばる一見ごく普通の人たちが、手を取り合って、古い世界の蛹の殻にちょっとずつできた割れ目が合流し始め、
みるみる広がる亀裂の間から、新しい世界の身体が躍り出てくる。

「ナウトピアだより」が、そんな脱皮をすすめる一助を担えたら、こんなにうれしいことはありません。

最後に、ビデオ中で、目をつぶって、見たい世界をイメージするエクセサイスを入れていることについて。
違和感があるかもしれません。なぜそんなことをするのか、一言、説明しておきますね。

私たちは、自分の見たい世界を、今、ここに「ある」ものというより、「ない」ものだという前提で動くことが多いですよね。これは、理想状態を「どこにもない場所」とみなすユートピアの立場です。このやり方をとると、どうしても、一つの世界をなす、生きた状態であるはずのものが、紙に書かれた文字のように抽象的に捉えられてしまいます。理想をちっとも実感できないで、その実現のためになされる行動は、「こうでなきゃいけない」と意気込んだ、一面的、硬直的なものになりがちです。よろこびや安心感からというより、不安やあせりから、悪あがきするようなものになりがちです。やればやるほど、無駄な遠回りをしたり、手段が目的と矛盾したりして、「こんなはずじゃなかった」という結果をまねいてしまうことも多い。それらを避けるために、暗い現実の中でも、あえて、見たい世界は、今、ここに「ある」んだよという前提からはじめるのが、ナウトピアなのです。

でも「ない」と思われるものをどうやって「ある」ものにするのか。そのためのテクニックの一つが、想像力を使って、見たい世界の質にひたりきるイメージングです。他にも、どんなに小さなことであれ、今、ここにみられる「きざし」に目を向けること。また、その時々にできる行動をやり続けることも、これらのテクニックに数え入れられるでしょう。

これらのテクニックを組み合わせることで、自分の見たい世界の体験のクオリティが、「よろこび」や「安心感」として、今、ここで先取りされて味われるようになります。それらこそ、ナウトピアのエッセンス。見たい世界を、自由にのびのび表現するための絵の具のようなもの。これがみなぎってくると、自分の見たい世界が、絵のように一つの全体をなす生きたものだってことがわかるし、頭で抽象的に考えていただけのときよりも、いろんなかたちで、ずっと自由に表現できるってことに気づくでしょう。

逆に言えば、この絵の具なしで、つまり不安や焦り、おそれから行動することはやめましょうというのも、ナウトピアのメッセージの中心にあるものなのです。

この続きを読みたい方は、こちらをクリック PDF版ナウトピアだより1(無料)
ナウトピアについて体系的に知りたい方は、こちらをクリック『ナウトピアへ サンフランシスコの直接行動』

パーマカルチャー研究所
ホームページ http://permaculture-lab.jimdo.com
ブログ http://plaza.rakuten.co.jp/hokkaidopapa

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