奇跡のコース

カースティンさん来日について思うこと

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聖霊のうながし(と思われる感覚)に従う度に、 最近、新しい人とつながり、いろんなことに巻きこまれて、めまいを感じることしきり。

カースティンさん来日の件では、オーガナイザーに通訳に、ホスト・・・特に北海道のイベントは一人何役も引きうけることになったうえ

しかもそのほとんどは、初めての体験という無謀さです。

つまり心配し始めると、キリはない状態。ただただ、「聖霊のうながしにしたがっているのだもの。聖霊が助けてくれるはず・・・」という能天気さばかりが頼りです。

「我が家」の感覚がもっと、動態的になったと言ってもいいかも。
これまで、自分の領分を守り、住み慣れた領域から離れずにいることこそ、安心だ
そう思ってきたけれど、

今は、未知の領域にどんどん突入しながらも、
聖霊の手の中で、その意志を果たしてるっていう安心感が、「我が家」の感覚を与えてくれてます。

どこまで忙しくなるか、底知れない。そんな状態の中、犠牲者意識知らずに、
ハッピーでいつづけるのに欠かせないと思ったのが、
目的を見失わないこと。

そしてその目的はいつも「形」を超えたところにあること。

たとえば、私の目的は、カースティンさんをみんなに会わせることでも、
彼女の言葉や本をみんなに広めることでもない。

カースティンさん、彼女の言葉、本を「通して」
私たち全員の共通のソース、真の自己である聖霊に、イエスに、もっとクリアに、もっと深くつながることなのですね。

そしてそれは、あくまで自分の心の中にある。

私は今回のカースティンさんの日本ツアーの手伝いや、
ラファエルさんのインタビューの手伝いなど、
そこで私がやることになること、いろいろ考えられるけど、
そのあらゆることを、「通して」
自分の心の中にあるこのソースに、とにかく、全開でつながっていくぞ!
というのが、あくまで目的だってこと!

そこのところさえ忘れずにいれば、
「形」の中のあらゆる迷い、失敗、消耗感など
すべてがぜーんぶ透明化されて、
ただ、聖霊の、イエスの光と愛の中に溶けていく。

すると、ストレスも、疲れも、自己犠牲感も知らずにいられるし、
共有されたこのソースの中、
カースティンさんやラファエルとも、
イベントやリトリートに参加してくださるみなさんとも、
対等な立場で、
一体でいられるんじゃないかしら。

たとえばカースティンさんに教祖的な「特別性」を見て、
依存することからも免れることできますね!
それだけは、やりたくないと思います。

また、「ホスト」や「オーガナイザー」や「通訳」といった「役割」の自己概念の中、
この役割を果たすには「まだまだ不十分」な自分を責めたり、罪悪感にさいなまれたりするのも、避けたいです。

これもやっぱり、「目的」を見失わないでいることで、はじめてできることなのでしょうね。
役割は、たまたま、今、自分が、聖霊の、イエスの意志に従おうとしてとってるかりそめの「形」にすぎない。
重要なのは、これを「通して」、なされること。そちらに注目していきたいです。

そうは言いながら、やっぱり、ピンと来る人、ガイドされているって感じる人、
みんなにカースティンさんに会ってほしいのは、
私たち一人一人の心の中にある、この共有のソースに近づくプロセスが、とても加速化されるって思うから。

私たちが人を見るとき、普通、思い込み、決めつけ、ジャッジメント、つまり投影の分厚い壁を通して見てますよね。
この壁を透かして、無垢な顔を見るために、コースのトレーニングがあるわけです。

カースティンさんも、このトレーニングを極めて壁を見透かせるように自分を鍛え抜いた人の一人。オンラインでしか対面したことがないのですが、それでも、彼女に見つめられるだけで、するすると、果物の皮を剥かれるように罪悪感が剥けて、無垢性が顔を出して、ふっと息づき、リラックスでき、一体感が味わえる、そんな体験をしました。それだけで、コース全体が、何を言わんとしているのか、私たちに何をさせようとしているのか、体感でわかった気がしました。

その時に、するっと剥けた罪悪感の皮のあまりが、少しこびりついていたのにあとで気づいて、それを振り払うためのゆるしをすることになったのですが、その時に思ったのは、「何年分かのゆるしを1日でやった」ようなすっきりとした感じです。本当にありがたいことです。

そんなカースティンさんには、いくら感謝しても足らない。でもあくまで、目的は、共通のソースに、対等の立場で身を浸すこと。そう思ってます。

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