奇跡のコース

スピリットによる縁組カップル スピリットが自分を通して愛を表現するのをゆるす! 

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リビングミラクルコミュニティでは、スピリットのうながしで結婚するカップルがたくさん出ています。一昨日放映されたジェイソンがホストする番組、From the Bottom Upでも、ちょうどこのテーマが話題に上がっていました。

エゴ主導で、私たちが結婚相手を選ぶ時は、まさに仮説的シミュレーション思考がフル回転。一番将来性のありそうな相手、無難で、安定した生活が待っていそうな相手を選んだりします。まるでショッピングでもするように、最適で、お手頃な相手を探したりもします。

打算は抜き、生粋の恋愛結婚のときも、過去の刷りこみにもとづいた無意識の衝動に従っていることが多く、自分が人生の中で、繰り返し演じているパターンに格好のパートナーをいつの間にか選んでいることもあります。何度離婚結婚を繰り返しても、似たタイプの人と似たような問題を繰り返してしまうのはこの口です。

スピリットのガイダンスに従った結婚は、このような問題とは全く無縁。そこで結ばれた二人は大抵、エゴの取り消しや目覚めのプロセスを加速化させ、多くの人のためにもなるような共同関係を築くのだそう。コミュニティの中で、スピリットが縁組をしているように感じられることがあるとディヴィッドは言います。

たとえばエリックはとても知的。コースを完全に理解しているけれど、教義を直接体験しているとは言いがたく、自分の感情との接点が希薄なクールなタイプ。そんな彼は、感受性が強く、スピリチュアルな深い体験をしながら、感情をコントロールするのが苦手のアーメルとガイダンスに導かれ結婚しています。水と油のような二人の関係はもちろん困難だったけれど、おかげでエリックは自分の感情に触れることができ、作曲をはじめ、シンガーソングライターとして活躍し始めます。アーメルは自分のスピリチュアルな体験について、明晰に語れるようになり、ディヴィッドと一緒に世界をまたにかけた講演旅行をするようになりました。

ジェイソンもこの種の結婚の経験者ですが、彼によるとスピリットのガイダンスに従った関係は、罪悪感がない、気楽で、軽やかなものになるのが特徴なのだそうです。

というのも、罪悪感とはそもそも、自分で自分の人生をコントロールしようとするところから来るものだからです。私は〜したい」「〜すべきだ」と思ってやろうとしたことは、「自分で」選択して、「自分で」やっていたわけだから、当然責任をとらなければならなくなります。

でも、スピリットのガイダンスに従っている時には、自分で選んでるわけではありません。結婚のような大切なことまでスピリットに従うというと、エゴにとってみれば侮辱のようにも感じられますが、責任を負う必要もなければ、罪悪感を感じる必要もない。その点、とても軽やかで、解放的ですらある!

それどころか、この関係が何を意味するのか、自分で理解する必要もないのです! 番組の中で、実際今、スピリットの促しで恋愛中のリンダという女性が出てくるのですが、彼女が強調しているのはそこでした。コミュニティに来てしばらくしてから、彼女はリチャードという別のメンバーに強烈に惹きつけられているのを気づいたのだけれど、それが何を意味するのか、なぜこんなことになったのか、さっぱりわからない。彼はどう見ても自分の好きなタイプではない。でも、その「わからなさ」を逆に大切にしたいとも言っていました。自分で納得して、ドラマを演じ出すと、それは「私の」関係になり、エゴの所有物になり、コントロールの対象になってしまいます。

何もコントロールしようとせず、「わからない」まま、スピリットと感情を見つめるだけ。これが私のためになるのか、役に立つのか、この先、どうなるのか? などとは考えず、ただ今、この瞬間のよろこびを味わうだけ。結末がどうなるかも気にしない。そこで何が起こっても、それがスピリットの意思。すべて良きことのために起こっているのだと信じて、ゆだね、個人的にとらない。

そんなリンダの態度を見て、ディヴィッドは、コースのテキスト2章6節「怖れと葛藤」の中に、「身体の思いをマインドのレベルに上げてしまうと、怖れが生じる」として、このレベルの混同を戒めている箇所について語り始めます。恋愛感情も身体の思いの一つ。ですが、それを理解しようとせず、正しいことかどうかといったジャッジメントも完全に放棄することで、これをマインドのレベルに上げずに済みます。そうすることで、恋愛中の人にありがちな、恥の感覚や相手を傷つけてしまったのではないかという思いなど、さまざまなかたちで感じられる怖れや罪悪感の蜘蛛の巣に捉えられずにすみます。

これはゆるしのコツでもありますね。感情が湧き上がるのをゆるし、そのありのままを、まるで他人の感情であるかのように、スピリットとともに見つめるだけ。とにかく、責めない、ジャッジしない。

「自分が」ハグしたいからハグする、キスしたいからキスしたいからキスする・・・ではなく、
スピリットが自分を通して愛を表現するのをゆるす。

そうすることで、愛は怖れにさえぎられずに、全宇宙に広がっていきます。もはや「男」「女」といった役割も超えて、ただスピリット、キリストのそばにいる幸せを共にする神聖な関係が、そうしてはじまるのだそうです。

しかし究極の安らぎは、「台本はすでに書かれている」感覚にまで達して、すべては「自分が」するのではない。一つ一つの出来事が台本通りに展開していくのを、リラックスして、見せてもらっているだけ。そう思う時にやってくるのだそう。番組の途中で、インドから来たトゥルナードという女性が、インドの 見合い結婚 arranged marriage について語ります。ディヴィッドに言わせると、台本はすでに書かれているのなら、あらゆる結婚はある意味、アレンジされていることになる。
恋愛や結婚一つとっても、そこからどんどんおそれの要素を抜いていく点で、彼ら、本当に徹底してますね。そうやって、観客席で映画でも楽しむように、人生を生きる。

そんなふうに考えていくときに感じられる安らぎに、虜になってる私です。

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