奇跡のコース

時間の取り消しごっこ  時間を抜け出たところに見つかる幸福!

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最近、時間の取り消しごっこにはまっています。

昨夜、いつもより寝つきが悪い。なぜだろうと思ったら、体がいつもより冷えてる。なぜだろう? と思ったら、体じゅうが、ラズベリー漬け! げっぷとともに口から出て来そうなくらいなことに気づきました。
つまり、ラズベリーを食べ過ぎたせいで、身体が冷えてる!
後悔し始めると同時に、どうやって治そうかな? 起きて三年番茶でも飲もうかな? などど考え始めました。

でも、次の瞬間、「また横に広がる線の時間の因果関係に落ちこんじゃったわ!」と思い直し、すぐにゆるしを開始。

何をゆるしたかというと、
たとえば、自分がラズベリーを食べ過ぎたと言う「罪」の「罰」を今受けているとか、体の冷えをもたらすラズベリーの成分の「犠牲者」であるとか、
この件にまつわる諸々の思い。思いつく限り、一切合切。
聖霊に手渡して行きます。
そして、「私の本当の姿を教えてください」と祈ります。

すると、じわじわと感じられてくるのですね。
「アイデアは、ソースを離れることはない」のだから、
何があろうと、私は「神から創造されたままの私」、神の子であることが。
あとは、両手を、心を空にして、神の愛を受け取ります。
すると、身体がどんどん熱くなり、冷えもふっとんでしまいました。

横に広がる因果関係を、垂直的な因果関係で断ち切る!

たとえば、ラズベリーを食べ過ぎた→ラズベリーは冷えをもたらす成分を含んでいる→身体が冷えて眠りが浅くなる・・・・

というのは、横に広がる線の時間をなす因果関係ですが、
その中に迷い込んだと思ったら、ただちに、

今、この瞬間に感じられる、垂直的な因果関係
神の子は父から分離していないこと、「神(原因)=神の子(結果)」。
神の子としての私は、生まれたばかりの完璧な姿!

に立ち戻ります。すると、光の柱に包まれたような心地がして、
時間的前後関係から、するっと抜け出て、
聖霊とともに、全く新たな目で
全てをとらえ直し、眺めることができるようになります。

この光の柱は、横に広がる線の時間の中では、今、この瞬間、この刹那。薄く研がれた刃のように感じられます。本当に狭く感じられるところですが、

一旦、そこを見つけ、するっと入り込むと、痛みや悩みや問題がたちまち消えていきます。

入り口は狭くても、内部は無限大。それこそ、玉座のように光り輝く場所です。

自分の本来の姿は、栄光の光の中で、王者のように強く、堂々と、何者にも揺らがずにいることがわかります。

この「王者」のような存在が、ラズベリーの冷えをもたらす成分ごときに悩まされるなんて笑止千万! 蟻がひしめくような世界の中の、何かの犠牲者になるなんてあり得ない! その笑いの中で、この因果関係が織り成す線の時間が崩壊していくのですね!

本当のヒーリングというのは、どんな薬を処方し、どんなふうに暮らし、何をすれば、元気になれるといった、線の時間の中での処置ではなくて、今、ここの垂直の刃のきらめきのなかにとびこんで、
いつでも新たになれる技なのだと思います。

私が今はまっているのは、この「時間の取り消しごっこ」。

「今、この瞬間に感じていること」以外のこと
たとえば過去や未来についてのことが、頭をかすめたら、
すべてこうやってゆるし、リセットすることにしています。

私たちよく、
「過ぎ去ったことを患っても仕方がない」とか、
「まだ起きていないことを心配しても、仕方がない」とよくいいますよね。
あれを徹底してやるわけです。

やってみると、
幸福感がどんどん、どんどん高まっていきます!

そもそも私たちが心底からの幸福をなかなか感じられないのは、
過去—現在—未来へと横に進む、
直線の時間でものをとらえているからだってことも見えてきて、面白いです。

たとえば、
あのとき、あんなことをしたばっかりに、今、苦しめられてる。
若い頃、もう少し勉強していれば、今頃、もっといい仕事についていたのに・・・

といった後悔。
過去の「罪」を悔やみ、現在をその「罰」としてとらえるわけで、
直線の時間の中にいるからこそ、感じられるものです。

でも、垂直の因果関係の光の柱に包まれた時、そのすべては、どうでもいい幻として消え失せ、
どんなことがあろうと、私は無垢、無罪、神に創られたままの、ピカピカの私だってことが分かります!

あるいは、
ひどい親に育てられたおかげで、私は今も情緒不安定。
こんな体質を遺伝的に受け継いだせいで、病気がち。
汚染を垂れ流し、食品添加物づけの商品ばかりを売りつける社会のせいで、アレルギー体質になってしまった・・・

というふうに、「自分は犠牲者だ」という思いもそうです。

遺伝や化学物質に身体が反応して病気になったりするのは、科学的に証明された客観的事実。だから、犠牲者であるのも客観的事実ではないかという声が上がりそうですが、コース的にはそう考えないのですね。レッスン281にもあるように、「私は私の思考以外の何にも傷つけられることはありません」。

自分が抱いている「犠牲になっている」という思い、そこからくる不安や怒りこそが、自分を傷つけているという考え方をとります。

そこから考えても、唯一の癒し、ヒーリングは、直線の時間の中に私たちを閉じ込める因果関係の思考をすべて手放し、今、この瞬間、まっさらになることからくるのですね。

あるいは、明日のために今日を犠牲にする「欲しがりません、勝つまでは」メンタリティ。
「いつか」幸せになるために、たとえばお金儲けにいそしんで、
幸せになるひまもないまま、いつの間にか何が幸せなのかも忘れてしまう。
「今、この瞬間」の幸福を否定し、未来に先送りしていく、直線的時間づくりの典型的パターンですね。

未来について、様々な期待を抱いている・・・というと、聞こえは良いですが、
その期待の出所が、
「現状のままでは、ダメ」という
「今、ここ」にいる神の子としての自分の否定に根ざしていて、
その結果感じられる、不全感、何か欠けた感じを未来に投影しただけだとすると、どうでしょう?

期待の裏に「もし期待通りにいかなかったらどうしよう?」という不安がべっとりこびりついて、落ち着かない。
たとえ、期待通りのことが起こっても、満たされた感じはしないのではないでしょうか?

コースの学習も時間軸を強化しながら進める限り
やればやるほど目標から遠ざかることになりかねません。

たとえば、「私はまだまだ」「贖罪や啓示、悟りは、遠い未来の目標だわ」
その前に、「あれもやらねば」「これもやらねば」と思いながらやってもうまくいきません。第一、楽しくない。

何か準備をしなければならないと思い続ける限り、「聖なる瞬間」は体験できないのですね。それは、「今」にしか体験できないものだから。

というわけで、私は、いつも、「今」「今」「今」・・・・今、この瞬間に、どこまで遠くに行けるだろう? どんな未知の領域に連れ去られるだろう? そう思ってワクワクしながら、テキストを読み、レッスンをするようにしています。

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