奇跡のコース

映画 Mr. Nobody に見る 本当の選択とは? 

  • LINEで送る

先週末、コースの教師、ディヴィッド・ホーフマイスターさんとそのコミュニティの面々が開催した オンライン・リトリートは、Quantum Expansion 量子的拡大 がテーマ。私は参加していないのですが、内容の一部が今、だんだん、Speakerにアップされはじめたので、早速、聴き始めました。同じタイトルのオンラインリトリート、彼らは何度かやっていますが、一番の奥義に直接切りこむようなものばかり。今回もかなり深い内容です。私が聞いたのは三分の一くらいですが、その中で、とくに印象にのこったところ、シェアさせていただきますね。

それは、Mr. Nobodyという映画を途中でみんなで観て、その内容について話しながら、本当の選択とは何かについて考えていくあたりです。本当の選択は、恐れか愛か、エゴかスピリットかというコースおなじみのテーマですが、映画の具体的ストーリーの中で見ると、理解が立体的になって、自分の生活にも関連づけやすくなりますね。

この映画は、118歳になって、死を目前にした主人公、ニモ・ノーバディが、ある記者に向かって自分の人生の回想を語るという設定で進みます。

彼の両親は、彼が9歳のときに、離婚して、彼は「これからお父さんと生きたいか、お母さんと生きたいか、自分で選択して」と両親に迫られます。でも、どちらにするかどうしても決めることができず、最後まで迷い続けます。この選択は、9歳の彼にとってあまりに辛い、不可能なものだったので、118歳になって、死を目前にしたニモの回想の中で、ニモは自分がどちらを選択したかわからなくなってしまっているほどです。

この回想の中で語られるその後の彼の人生は、この時点から、お父さんといるのを選んだ人生のストーリーと、お母さんといるのを選んだ人生のストーリーの二つに分裂して、その二つのストーリーが、パラレルワールドのように同時進行しながら語られることになります。で、記者も、あなたは結局、どちらと生きるのを選んだのですか? と混乱するのですが、ニモには、どれが真実だったかわからない。

同じことは、人生の中で彼につきつけられた他の選択でも起こります。例えば、回想の中、彼は、自分が出会ったアンナ、エリース、ジーンという三人の女の子のうち、誰と結婚したかわかりません。そして、それぞれの女性と結婚した三つのストーリーのバージョンを同時に、ランダムに視点を切り替えながら語っていくのです。

それぞれの女性と結婚したストーリーもまた、同様にして、それぞれいくつかのストーリーに分裂していきます。こんな具合に、彼の人生は、選択をせまられるたびに、さまざまな可能性のストーリーの断片に分裂していくんですね。最終的に、彼の人生は様々な可能性のよせ集めになっていきます。そのうえ、時系列もかなり前後がスイッチしていて、直線の時間が、だんだん崩れて同時性に向かってる様子を見せるものだから、一つのストーリーラインで展開する普通の映画を見慣れた人には、ちょっとびっくりするような映画になっています。

コース的にいうと、選択とは、特別性の問題。特別な愛はいつも、数ある可能性の中から、自分にとって特別なものを選び、「私はこっちが好き!」と言えますが、本当の愛、スピリットの愛は、選択を知りません。するということはない。どんな「特別なもの」にも向かわず、あらゆるものに向かいます。

だから選択できずに増殖していく彼のストーリーは、スピリットの愛のパロディのようにもとれる。

でも、それぞれのストーリーの中に入ると、そこには、その人だけを選んだ「特別の愛の関係」しかないのですね。たとえば、「お母さんといる」とか、「エリースといる」選択がなされた後は、その人「だけ」との愛想関係のストーリーが繰り広げられていきます。

実際、彼の回想で語られるさまざまな可能性のストーリーは、特別の愛の関係のサンプル・ブックのよう。どれも、苦悩と悲惨に彩られ、死の匂いが最初から立ちこめています。

そのあるストーリーの中で、彼はソウルメートと結ばれたり、お金持ちになったり、一見良さそうなことも起こるのですが、ディヴィッドに言わせれば、全ては、特別性の道、エゴの選んだ道であり、死に通じているという点で全く等価。映画の中でも、しばらくすると、また離れ離れになったり、虚しさが感じられてきたりというふうに、苦悩が現れてきます。

誰と結婚するかとか、職業としてどれを選ぶかといったことは、大きな選択に見えますが、その中の「どれ」を選ぶか、その選択肢そのものの中には、幸せはないというのが、一貫して語られてるというのですね。

そこで、じゃあ本当の選択は何かというと、恐れか愛か、エゴか聖霊かというコースおなじみのテーマになります!

つまり、映画で「パパとママ、どちらと暮らすのを選ぶか」「アンナとエリースとジーンのうち、誰と結婚するか?」というかたちで表現されていたような、
AかBかCか・・・の「どれ」を選ぶか? 「どれ」を愛するか? 
といった、「どれ?」の問題じゃないってことです。
それはすべてエゴを選んだ上で、エゴが突きつける選択肢にすぎない。

そこでどんな素晴らしい、適切な答えを選んだところで、
その答えは、いずれも特別の愛の関係を結ぶための問いになり、
しばらくすると、不安と苦悩が姿を表します。

本当の問いは、

そうやって性懲りも無く、「特別」な「部分」をいつまでも求め続けたいのか?

それとも、

「すべて」を愛し、受け入れ、ワンネスを体験したいのか? 

ということなんですね。

この本当の選択は、映画のラストでなされます。

もう一度、9歳の時のその選択のシーンが回想の中で再演されるのですが、そこで彼は、電車で去っていく母の方に向かって走らず、父とプラットホームに残ることもしません。

その代わりに、父の方でも母の方でもない第三の方向、森の中に駆けて行くのです! そこですべてと一つになる。その時、彼は大きな落ち葉を空に向かって投げで、この葉は風で空高く舞い上がります。

この新たなバージョンの回想をしながら118歳の彼は一旦死ぬのですが、と同時に、時間の逆行が起こり、時計をはじめ、あらゆるものが逆さ向きに動き出します。蘇った彼だけは、逆さ向きに動かず、大笑いしながら踊り出します。時間を超えた領域に入ったことが暗示されてるのですね。

と同時にこれまで語られたさまざまな悲惨なストーリーが、全てハッピーエンドに終わるシーンがフラッシュで立て続けに現れます。

たとえば彼の両親は、落ち葉の縁で出会っているのですが(未来の彼のパパの方が、大きな落ち葉が飛んできたのにつまづいて転んだところを、未来のママに助け起こされる)、そのシーンが再演され(その落ち葉は、9歳の彼が空に向かって放り投げたのと同じ落ち葉だってことが暗示されてる。時間は完全に渾然一体。同時性の領域に入ってます)。別れたパパとママは再び抱き合い、死んだものは蘇り、別れてしまったソウルメイトのアンナとまた一つになり・・・といった具合。死へ向かってバラバラに断片化していた記憶が、時間を超えた生命の中でハッピーなワンネスの中に収斂するんですね。で、エンディング。

映画の話、長くなってしまいましたが、世界はさまざまな仮説的シミュレーションの集積で出来た幻想であるとか、本当の選択は何かとか、コースの考え方をたくさん読みこめる映画で、私も思わず観てしまいました(アマゾンのプライム会員の方は、会員特典で、オンラインで今、無料で見れるプライムビデオの中に入ってます!)。未邦訳(今翻訳中らしい)のディヴィッドの著作、Quantum Forgiveness 『量子力学的ゆるし』の中でも、この映画は、Quantum Movieの筆頭に上がっていて、かなり詳しく語られています。

ただ、世界の中で生き続ける限り、AかBかの選択は、やっぱり、つきまといます。たとえば、複数の人と同時に結婚したりなど、実際、できません。

そこでディヴィッドが提唱するのは、それぞれの選択(に見えるもの)、たとえばAを選択することを「通して」、
「すべて」を愛し、ワンネスを体験することだったらできる。

聖霊と一緒に選択するとは、まさにそういったことだったのですね。

それはたとえば、「アンナとエリースとジーンのうち、誰と結婚すべきか?」ではなくて、

「誰と結婚することを通して、すべてての人と結婚できるか(すべてを愛せるか?)」

を聖霊に、インスピレーションやシンクロニシティー、ガイダンスを通して、示してもらいながら、それに従って生きていくことなんですね。

今、翻訳中のカースティンさんの本、I Married a Mystic に描かれてる結婚は、まさにその一例でした。

これを、結婚のような運命の分かれ目に見える大きな選択だけでなくて、日常の細々したことでも、とにかくあらゆることでやりましょうというのが、このリトリートの録音、これまで聞いたところで、一番印象的だったメッセージです。

ディヴィッドによると、この手の「本当の選択」をして、聖霊と一緒にいるとき、私たちは、ある種のexpansion、拡大、膨張感を感じることができるそうです。

私の体験からも、なんとなく、わかります。聖霊のガイダンスを受け入れ、聖霊とともに、聖霊をますます感じながら何かをやるとき、体の輪郭を超えて、大きなものに包まれ、運ばれているような感じがするのですね。

AかBかの選択を無数に下しながら進む1日も、この膨張した感じを見失わないようにしながら、それがますます高まるように生きていければと思います。

  • LINEで送る