奇跡のコース

100パーセントの献身は、実は楽だった!

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聖霊のガイダンスで始めさせていただいたI Married a Mystic の翻訳作業、まだまだ続きます。でも、恵みの方は、先払いでもう十分いただいてる感じです。その筆頭にあげられるのが、みなさんの応援、サポートのエネルギー。本当に本当に、ありがとうございます。

この充実感、聖霊のガイダンスに従って何かするときの目印かもしれませんね。一歩一歩のあゆみに、私個人を超えた大きなものを手探りしているような手応えがあります。大げさかもしれませんが、全宇宙、神の子の一体性、サンシップ全体のためにやってるような気さえすることがあります。

もちろん、ゆるしの機会もたくさんいただいてます。

たとえば、目覚めの道へのカースティンさんの献身ぶりのすさまじさ、自分の「すべて」を神にささげる姿勢には目を見張るものがありますよね。

正直なところを言えば、私、最初は、そこに窮屈さを感じたり、「大変そう!」とか、「ここまでついてはいけない」と思ってました。でも、彼女の体験に、少しでもいいから入っていけないと、伝わる翻訳はできないと思い直し、できるところからやってみようと思いました。とりあえず、一日中聖霊を感じ続けるように心がけました。

ただただ、「聖霊を感じながら、聖霊とともにやる」ために、家事をしたり、本を読んだり、畑仕事をしたり、とにかくすべてのことをやるのですね。あらゆることは、「聖霊を感じる」という「唯一の」目的のための手段、道具、ゆるしのチャンスとみなすのです。

すると何が重要で、何が重要でないということがなくなってくることに気づきました。めんどうくさいけれどやらなきゃいけないタスクとしての仕事も、トイレの掃除も、急ぐ途中ばったり出会った人も、目に止まった花も、すべてがゆるしのチャンスか、それを通して聖霊の愛を感じる奇跡の兆し。すると、こちらの方で、起こった事柄をジャッジして一喜一憂したり、何をやるべきか基準を作って、それができないと自分を責めたりする必要、全然なくなります。

楽しい仕事と嫌な仕事の区別もなくなります。次には何が起こるかな? とわくわくしながら、おとぎ話の世界へとどんどん深く入り込んで、驚きや感謝の気分に満たされて1日過ぎていきます。

まだまだ、完全にできてるとはとても言えない状況ですが、「大変」とか「窮屈さ」とは程遠い。とても自由で、魅力的で、楽〜な世界が広がってることはわかってきましたよ。

これは私にとって大きなことでした!

というのも、私にはずっと、「自分は特別、何か重要な仕事をするように定められている」という根拠のない思いこみがあって、何をしていても、どこか別に「こんなことしちゃいられない!」「もっと重要な、やるべきことがある」という焦りのようなものにつきまとわれていたんですね。

たとえば家族や友達とのんびり、いい時間をすごそうとしても、仕事のことが気になってそわそわしたり。家事をしていると、仕事のための時間がもったいないと思ったり、とにかく、いつも心がどこか別のところに行ってしまう癖がありました。

なぜそうなるのか、心の奥深く探っていくと、ありのままの自分は空っぽ、何か「重要な」ことをしないと、存在価値が証明できない。無価値感があって、そのまた奥には、神からの分離からくる欠如感があります。それを何とか取り繕おうとするエゴヴァージョンの救済計画、犠牲者としてのドラマを生きるとか、人を喜ばせようとするとか、人それぞれ様々な形をとるかと思います(それが何なのかは、自分がいつも何に動揺しているかを観察すればすぐにわかります)。それが、私の場合、「なんか重要なことをする」というドラマの中で生きることだったんですね。エゴバージョンの救済計画なので、罪悪感の存続が目的。だからいくらやっても、ますます欠如が深まり、決して満たされないようにできてます。そこから、何でも自分のやり方でやらないと気が済まない気質とか、あらゆる他の権威に対する反抗心とか、競争心とか、いろんな症状が出てましたね。

コースの実践をはじめて、そんな自己認識も深まって、集中的にゆるしを私が中毒してるこのドラマの「ツボ」に浴びせかけ、ずいぶん楽になってきていたのですが、それでも、無意識にやってしまうことなんかの中に、まだまだ残ってたのですね。

それが「聖霊と一緒にいる」今回の訓練で、ぐっとおさまってきた気がします。聖霊が世界のものをみる視点は本当に中立的で平等ですから!

 

 

ともあれ、今振り返って見ると、何が重要で、重要じゃないか、自分で判断できると思ってたところからして、そもそもずいぶん傲慢だったって、思うようになりました。

「聖霊を感じながら、聖霊とともにやる」ことだけに意識の照準を合わせて生きてると、その手の判断も、自分でする必要、全然ないことにも気づきますね。

これについては、12週目のリビングミラクルバーチュアルで、ジェイソンがホストする番組From the Bottom Upで面白い話が出てましたので、それをシェアさせていただけたらと思います。

一月近く前の話になってしまいますが、南米からアメリカへ来ようとする移民の取り締まりがきびしくなってきていて、不法入国する親から子供を引き離して檻に閉じ込めたりする政策が論議の的になっています。メキシコに大きな拠点を持つリビングミラクルコミュニティのメンバーにとって他人事とは言えない話で、ジェイソンはこの話を持ち出します。社会的な問題をリビングミラクルコミュニティの人たちがどう扱うか、興味しんしんで見てしまいました。

もちろん、誰が正しいとか、間違っているというアプローチは、コース的に見ると意味をなさないことになりますよね。スクリーンに投影されたイメージをいくらいじっても、映画の内容は変わらないわけですから。「ひどい大統領」や、「かわいそうな子供たち」といったイメージを生み出している投影の源、映写室にあるフイルムの内容をゆるし、聖霊とともに観察者(投射する人)の視点から未距離感保って見直し、全体のトーンを「やさしい夢」に変えて、次第に光の中に消していく必要があるわけです。

この番組でも、参加者一人一人が、この話を聞いて、連想したことをシェアしながら、ゆるしをうながしていきました。みんな国境審査でずいぶん待たされたり、屈辱的な目にあった記憶、抱えてます。中でもジェイソンがユーゴ紛争の頃、対立するアルベニアとセルビア人が混在する地域で国際援助のNPOで働いていていた時の思い出を語るところなど、圧巻でした。たまたま私、ユーゴ紛争の頃、ユーゴと国境を接するオーストリアに留学中で、紛争直前までユーゴに遊びに行ったりしていたので、戦争が始まった時は本当にショック。話を聞いていて状況も鮮明に想像できました。

国連の調停などで、民族同士の殺し合いはおさまったものの、そうすると今度は両民族の憎しみが、ジプシーに向けられ、スケープゴートにまつり上げられていたのだそうです。危なくなったジプシーの子供達を、地雷がたくさん埋まってる場所を避けながら、いろんな用足しのお供をした話。ジプシーの子供達はものすごく活発で、そちらに行ってはいけないと口を酸っぱく言い聞かせた地雷が埋まってる地域にすぐに駆け出してしまうし、アルベニア人の果樹園の果物を盗んで持って来たりするので、ジェイソンは彼らを管理しようと容赦なく厳しく当たったわけですが、トランプ大統領の態度をジェイソンは当時の自分を思い出したりするわけです。

世界には色々不条理なルールがありますが、国境もその一つ。馬鹿げたルールのために、どうしてこんなに翻弄されなければならないのか? 文化摩擦や戦争では、ルール同士がかち合って、正当性をめぐる争いが生まれて、殺しあったりすることさえあるほど。

そこでディヴィッドが提唱するのは、レッスン76 「私はただ神の法の下にだけあります」で言われているように、神の法のみを守りながら、全てのルールの中を超えていくこと。奇跡が起こる時特有の意識状態を保ちながら、様々なクレイジーなルールが統べる世界を、スピリットに運ばれるように通り抜ける。すると、「国境審査の長蛇の列を行くのも、花咲き乱れる野原を散歩してるのと変わらなくなるよ」と言うのです。そして、カースティンは、アメリカ入国拒否されたことがあったけれど、それでやむなく引き返した先で、コースのセッションを開くことができたり、神聖な出会いをたくさんしたりして、逆にそれでよかった、そこに聖霊の意思を感じたこともあるそうです。聖霊とともにあれば、いつもそこが、癒しと救済のためのベストな位置になる。その精神状態を保つことで、外的にはどんなクレイジーなルールに翻弄されていても、それに煩わされず、無頓着に、黙々と、自分の役目を果たし続けることができるというわけです。

聖霊とともにいるというとてもシンプルなことで、何が重要かとか、何が正しいかという判断の迷路の上空をすーっと通り抜けて行けるというのは、本当に素敵なこと。みんな疲れ切った顔をした長蛇の列の中を、お花畑を歩くように進み、同じハッピーな意識に自然に周りの人を巻きこんでいくこともできれば、最高ですね。

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