奇跡のコース

「役割」を超えた やさしさを探して 脱サラ後の私のレッスン

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「役割」演技って、一見、まったく罪がないように見えます。

でもどんなに優しげな「役割」も、
コースのテキスト31章5節 自己概念対自己 に詳しく書いているような
普段は意識されない闇を背負っているようです。

その証拠に、「役割」が揺さぶられると、表に膿がどっと出て来ますよね。
三角関係に気づいた恋人とか、
子供が自立して出て行ったお母さんとか
生徒の方が優秀なことに気づいた先生などが、
豹変して、デプレッションになったり、攻撃的になるのはそのせいですね。

でもそれは、そこに「役割」がある限り、
最初からいつもそこにあった闇。

というのも、私たちが簡単に、いろんな社会的価値観の「刷り込み」を受け入れ、「優秀な生徒」や「サラリーマン戦士」、完璧な「親」・・・に仕立てられてしまうのは、
そうでもしないと、人生は無意味で、私には価値がなく、ひとりぼっち、孤独に見捨てられる・・・っておそれてるから。

無意味感・無価値感のこの闇を直視するのを恐れ、
溺れる人が藁でもつかむように、
なにか達成して、自分の人生に意味を持たせようと、
とにかく何でもいいから、「役割」にしがみいてるんですね。

私の人生にはちゃんと意味がある、私には価値があると自分に言い聞かせるために。

そうやって何らかの「役割」を受け入れた人が集まって、この社会ができているわけです。

だからちょっとでもこの「役割」を揺すると、その奥に隠してきた闇が出て来るというわけです。水は澄んでるように見えても、揺さぶると、底に溜まってる澱が出てくるのに似てますね(この辺、コーステキスト31章5節 自己概念対自己 に素晴らしい分析があります)

この無意味感・無価値観恐怖症、私の場合はかなり重症だったようで、
エリート・キャリア街道、脇目も振らずまっしぐらの前半生でした(笑)。
東大の大学院を出てから、国立大学の教員を21年間やってました。

でも途中で、そうしたすべてにリアリティを感じられなくなって
でもだらだらと走り続けるうちに、
眼精疲労からくる目の充血、眼痛や頭痛に悩まされるようになってしまいました。
今は嘘のように治ってしまいましたが・・・
その回復の過程で、気功をやったり、コースと出会ったりしたわけですね。

コースを学んで気づいたのは、
何にも達成しなくても、全く大丈夫。生きていけること。
自分の価値は全く別のところから来るんだってこと。

無意味感の闇の中に落ちこむのが怖くて、
溺れる人が藁をもつかむように、
自分の「役割」にしがみつき、
それを完璧に果たさなきゃと思って来ましたが、

この「藁」は、実は、手放すに限ること!
思いきってどんどん手放し始めると、
闇だと怖れていたものが
実は光と愛からなる海で、
あなたは愛されてる、愛されてる、無限の価値がある・・・って教えてくれるものだったわけです。

(コース的にいうと、罪悪感は無根拠。自分を犠牲にしなくても、神様に罰されることなんてない。神の子であるというのは生れながらの権利なんだから。罪悪感を手放していけば、それがわかる・・・ってことかな?)

その流れの中で仕事も辞めました。

それと同時に、エゴが感じる無価値感、無意味感の空虚を、「役割」を果たそうとすることで埋めてごまかすことは、もうやめようと決意しました。

だって、そこにすべての問題があったわけですから。仕事を辞めても、それを引きずっていたら、元の木阿弥になってしまいます。

だから再就職もしませんでしたし、肩書きもとくになし。名刺も作ってません。
(それでも生きていけているのも不思議な話。これについてはまた別の機会にでも)

それほど徹底して「役割」を背負い込むことを拒否したせいか

脱サラして何が一番困難だったかというと、私の場合、
経済的な問題より、この無意味感と向き合うことの方がずっと大変でした。

ときどき、発作のように無意味感が襲ってきて、その空虚を何か忙しくやることで埋めたくなる誘惑にさらわれてしまうこと、何度かありました。気づいてみると、スケジュールをぎっしりにしていたり・・・

前半生でせっかく身につけた知識やスキルを今ほとんど使っていない倦怠感にくじけそうになったこともありました。

そのいずれも、コースの学習をすすめて、聖霊にその日のスケジュールも、知識もスキルもすべてゆだね、使ってもらう発想に切り替えると、乗り切ることができました。

もう一つ助けてくれたのは、リビングミラクルコミュニティの人たち。
私はネット上で彼らを追っかけているにすぎませんが、
罪悪感を動機に頑張るエゴによらなくても、
聖霊のガイダンスに従うだけで、
あれだけ活動的、創造的に生きれるんだっていうのに、いつも驚かされてます。

過渡期の私のいいロールモデルになってくれました!

今も、自分でも気づかぬうちに「先生」役を演じ始めていることに気づくこともあります。ということは、周りの人は「生徒」役にしてるってことですし(いい迷惑)。
そういうときは、あわてて、そんな自分をあわてて手放し、そこにぽっかり口を開いた自己無価値観の闇ともども、ゆるし、癒すようにしてます。

そうやって「役割」を手放す恩恵は、たくさんありますが、
何より、自己批判のネタがなくなることですね。
というのも、「役割」はものさしのようなもの。合わないものを攻撃対象に仕立ててしまうからです。
たとえば「先生」の役割を本気で担ってしまったら大変です。それらしくふるまわねばなりませんし。
とくにスピリチュアルな先生役などを担ってしまったら、息のつきようがありませんね。

もちろん、たまたま自分に要請されてる「役割」を演じながら、それにとらわれず、本当の私の無限性を見てる人もいます。

そういう人は、とても、やさしいですね。

演じる役柄そのものは「怖い」ものでも、飄々としてて、なんというか、存在論的な柔和さ漂わせてる。

「やさしい」役柄にしがみついて、そこに自分の価値がかかってると思って
必死に演じてる人の方が逆に怖かったりして・・・

存在論的にやさしい、そんな素敵な人が増えて、その素敵さを評価する人が増えていけば、どんなに生きやすくなるでしょうね。

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