奇跡のコース

神聖な関係の広大さは、人間関係のめんどうくささを超えていく

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コースの学習が進めば進むほど、コースを学んでいない親しい人たちの間に隔たりを感じてしまうという声を、ときどき耳にします。

私自身、一緒に暮らしているパートナーはどちらかというとスピリチュアルなことは苦手な人。彼は私がコースをやってることは知っていますが、あまり話題にすることはありませんね。

だから当然、隔たりや、後ろめたさを感じたこともありました。

ただ、一つ転機になったのは、彼との関係も神聖な関係にしようと決意した時。

それから、ディヴィッドさんが『覚醒へのレッスン』の本の中で、神聖な関係は、XとYという二つの「シンボル」(この場合は、「別個のアイデンティティ、人格、個性を持った人」くらいの意味かしら)の間に生まれるのでは決してないと言ってるのを読んだ時ですね。

たしかに、神聖な関係は、私たちがたとえば人種や民族や性別や職業や主義主張、信条、好みなどなど、「形」でとらえられるあらゆる属性を脱ぎ捨てて、XでもYでもなくなって、ワンネスに溶けこんでいくその途上で生まれるもの。

もちろん、自分や人がこれまで被ってきたそういった仮面を特に否定する必要はさらさらない。

けれど、神聖な関係の中へと、溶けこんでいくにつれて感じられるスピリットの光があまりに強烈なので、どんどん透明に透けて、見えなくなっていくのですね。あってもいいけど、どうでもいいものになるわけです。

X、Yという個性は、どうせそうやって消えていくわけですから、その間に神聖な関係が成り立つなんて、考えられませんよね。

で、話を戻すと、いわゆるスピリチュアルなことに興味があるかないかも、コース学習者かどうかかも、そうした「仮面」の一部にすぎない。どうでもいいわと思ったわけです。

そう言った違いを気にする暇、エネルギーがあったら、とにかく彼のスピリットを感じる。するとそれが、私のスピリットと、その場全体にみなぎるスピリットと不可分な一体として感じられてきます。

それが感じられてきたら、その波、その気分に乗って、思いつくこと、ひらめくことを、何でも自由にやって、ますますそれが感じられるようにしむけていくだけ。場にみなぎる音楽、スピリットの音楽に合わせて即興的に踊るのに似てますね。単にステップを踏むだけで十分かも。

そうやって相手と一緒に何かをやったり、会話を進めると、とても楽しい、いい関係ができます。コースの応用だと私は思っているのですが、相手はコースを知らなくても、スピリチュアルアレルギーの持ち主でも、とにかく誰でもOK. もしかすると、異星人でも大丈夫かもしれません。

とにかく、違いが全く気にならない、だからその人に合わせて自分を変えたり、その人を喜ばせようと無理をする必要もない、でもとても親密・・・そんな人間関係をスピリットの中で結べるというのは、とても楽、ありがたいことだと思います。人見知りもなくなるし、ネットなどで未知の人とどんどんつながることにも、全く抵抗なくなりました。

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