奇跡のコース

コースの成功哲学? 「神の救済計画」について

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今週末、リビングミラクルコミュニティでは、Divine Providence 神の摂理をテーマにオンラインリトリートやってました。私は自分のイベントで奔走していて参加できませんでしたが、カースティンとジェイソンとフランシスがおしゃべりする予告編のような30分余りのビデオがfacebook上で回っていて、それがすでに、十分見応えがある。その上、5月2日に、ディヴィッド・ホーフマイスターがこのテーマについて語った短いトークを編集した新しいビデオもYouTubeアップ。それらを見ているうちに、私自身、いろんな気づきがありました。というわけで、少しシェアさせていただけたらと思います

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コースでDivine Providence 神の摂理とは、すべての人々、生きとし生けるものの救済のために、私たち一人一人にあてがわれた役割、天命があること。そして、それを果たしている限り、必要なものや状況はすべて与えられる。ただ自分の機能をはたすのに集中しさえすればいいことを意味するようです。

これはとてもいい話に聞こえます。天命を果たしていれば、本当に生活に困らないの? 嫌な就職をしなくてもいいの? というふうに。

このとき、忘れてならないと思うのは、神の意志と一つになろうとするからこそ、神の摂理を生きることができるということ。

たとえば、自分がちゃんと生きていけるかが「心配」、愛する人たちがちゃんと生きていけるかが「心配」だから神の摂理の中で生きていきたいという発想。ちょっと矛盾していることがわかります。

というのも、自分や周りの人の中に、不十分さや、欠如を見て「心配」するのは、エゴの視点だからです。これを野放しにしてる限り、スピリットの視点でものを見ることはできず、神の意志と一つになり、摂理の流れに乗るのも難しくなります。

つまり神の摂理を生きる際に一番重要なのは、エゴに属するあらゆるものを捨てていくことなんですね。自分の意志、自分の価値観、自分の方で立てた計画などを一切放棄して、空っぽでまっさらな心になり、神の思い、神の意志を常にうかがい、それと一つになろうとする必要がある。

神は時間を知らず、過去を知らず、形もしらない。だから過去の特定の形に対する執着や、欠如感も知らない。それらの感覚を捨てないと神の意志も見えて来ません。

というと、じゃあ、今現に自分は困ってる私は、心配せずにはいられない、欠如感を持たずにはいられないから、いつまでも神の摂理を知ることはできないの? と思う人もいるかもしれません。

大丈夫です。ゆるせばいいのですから。

まずは自分が欠乏感を抱いていることを素直に認め、その気持ちをしっかり味わいながら、ホーリースピリットのまなざしにさらし、ホーリースピリットには自分の今の状態がどう見えるか、教えてもらえばいいのです。だいたい、「大丈夫よ」という言葉が戻ってきます。

スピリットとつながり、その愛と安心感、よろこびを感じ始めると、自分にはあれがいる、これがいるという具合に「必要」がばかり見える欠如モードから、「与える」モードへ自然に切り替わっていく。そして、だんだん、神の摂理の中の自分の今の役割を果たすためにどうすればいいか、具体的なガイダンスも感じられるようになってきます。

もう一つ重要だと思われるのは、誰かに有効なことが、別の人の有効とは限らない。自分自身にもある時期有効だったことが、今も有効とは限らない。つまりかたちの問題じゃない。過去の例からくるあらゆることは、それがどんなに正しく、神聖に見えても、エゴの管轄にすでに入っているってことですね。

ディヴィッド・ホーフマイスターは一時期、何も持たず、夜はどこに泊まるのかも全くわからない状態のまま、ただただ、ホーリースピリットの声だけを頼りに、その日暮らしの旅をしながら暮らすように、ガイダンスによって導かれていました。

その話を聞いて感動した人が、自分も同じことをやったのだそうです。何が起こったかと聞くと、強盗に襲われたり、冬は凍えて大変だったとか。

それを聞いて、ディヴィッドは、僕は自分と同じことをしろなんて、一言も言っていないよ、ただ、自分と同じ「思い」を持つようにと言っただけだよと答えたそうです。

同じ思いというのは、自分の(エゴの)意志を完全に放棄して、神の意志と一致させ、一つになるという思いです。神の摂理を生きるとは、この思いの中に生きること、そこからくる心の状態の中にい続けることなのですね。そうしてはじめて、何をすればいいかもガイダンスとして感じられてくるし、それは、誰かと形の上で同じことをすればいいというわけではない。

キャリアウーマンとしてバリバリと活躍してきたフランシスは、神の摂理を感じるプロセスで、成功していた自分のビジネスや夫、全財産も手放すように導かれます。その後、彼女はどんどんしあわせになり、ちゃんと暮らしてもいけている。

でも、だからといって、すべてを捨てればうまくいくというわけではないのですよね。

ディヴィッドは、トルストイの例をあげます。トルストイはガンディーの姿に憧れて、全財産を捨てたけれど、憂鬱症に悩まされながら生きていたのだそう。自殺未遂もしています。自分の周りを見ると、かわいそうな貧しい農奴たちの姿ばかりが目に入り、罪悪感にさいなまれ続けたから。彼と同じように財産を手放そうとせず、搾取をやめない家族や貴族仲間に対していつも怒りをあらわにもしてた。

全財産を放棄できるというのは、将来のことも気にならないってこと。そこまでだったら、彼の欠如感はなくなったっていたといえるのでしょう。

でも、周りの人たちの「貧しさ」に心乱されるということは、コース的にいうと、自分自身がまだ心の中にそうしたものを抱えている証拠ってことになる。心の奥にかかえる欠如感が、外界に投影されているからこそ、いたるところに「かわいそうな人たち」「暮らしていけるか心配な人たち」が見えるというふうに考えます。

そういうときには、彼らを心配したり、怒ったり、助けるための行動に出たりする前に、まずは自分の心の奥に潜んでいる欠如感を癒す必要がある。

やり方は、先ほど説明したゆるしの方法と同じです。ただこの場合は、欠如感が他者に投影されている分、「まずは<自分が>欠乏感を抱いていることを素直に認める」プロセスを、少々念入りにやる必要があるだけのこと。他者を見たときに自分がそこに感じる貧しさや弱さをじっくり見つめなければなりません。

すると次第に、それは相手のせいでも、外的状況のせいでもなくて、自分の心の中に源を発するということが見えてきます。投影された映画の投影室、フィルムのありかは自分のハートの中にある。そこにある焼けつくような渇望を浮上させて、自覚していきます。たとえば、私は、見捨てられ、ひとりぼっち、誰も助けてくれない。助けて、安全なところにかくまって、愛して・・・などなど。どんなおぞましいものが出て来ても大丈夫。ありのままを、いつくしみながら眺めるホーリースピリットのまなざしの下にさらせば、溶けて、消えていくからです。あるいは、「あなたの視点でこの状況のすべてを見るとどう見えますか?」とたずねていってもいい。ホーリースピリットの視点と一体化して、すべてが新たな光の下に見えてきます。それがゆるし。エゴの視点を神の視点に置き換えていくことです。

欠如感は、自分のまなざし、知覚の中に鏡写しにされ、外界に投影されたものにまで注意を払う必要があるんですね。それをゆるしのプロセスの中でスピリットの視点に置き換えてはじめて、神の意志も見えてくる。自覚された欠如感からだけでなく、投影されたおかげで、それが自分のものだってことが見えなくなった欠如感からも解放されてはじめて、私たちは神の意志と一つになれるわけだし、摂理を生きることもできるというわけです。

トルストイはこれをすることができなかった。つまり全財産は捨てることはできても、エゴの思い、エゴの知覚の方は捨てようとしなかったわけです。

もしそれができていたら、彼の目には、農奴たちの困窮状態というより、その強さ、輝きの方が見えたはず。それはとりもなおさず、自分の強さや輝きを確認することにもなり、憂鬱になるどころか、どんどん幸せになっていけたはず。フランシスはそちらの道を行ったわけです。

ゆるしが進み、スピリットのまなざしとの一体化が進むにつれて見えてくるのは、問題はものの所有を放棄することより、所有意識を放棄することなんだっていうこと。つまり、特定の形の過去への固執を放棄して、いつも空っぽ、まっさらになって、神の意志を受け入れる器になれるってことが重要なんですね。というのも、神は形や過去は知らないから。

そのプロセスで実際にものを捨てるように導かれる人もいれば、そうでない人もいる。ゴールは一緒でも、どのようにして所有概念を放棄するよう導かれるかは人それぞれ。でも、正しい道を歩んでいれば、そのとき味あわれる苦痛は和らいだものになります。

この辺については、神の摂理について、別のびビデオが参考になります。先日リビングミラクルコミュニティでは、Divine Providence 神の摂理をテーマにオンラインリトリートやってました。私は自分のイベントで奔走していて参加できませんでしたが、カースティンとジェイソンとフランシスがおしゃべりする予告編のような30分余りのビデオがfacebook上で回っていて、それがすでに、十分見応えがありました。そのビデオです。

その中でカースティンが、フランシスの言葉として引いているように、神の意志に従うために、自分の意志を放棄するレッスンを重ねていると、自分のものに対する所有意識はすでに自然になくなっていくのだそう。何かを手放すように促されても、「あっ そうですか」という感じ。そうなれるといいですね。

この点、コースとは直接関係しませんが、ガンディーの受託主義というアイデアが、私は大好きです。ガンディーによると私たちは何も、私たち自身の身体ですら所有できない。すべて神にうまく管理しろと受託された借り物にすぎない。返せと呼ばれたら喜んで返すし、保持して使えと言われれば、その限りにおいて大切に扱い、みんなのために生かす。神秘主義の伝統の中に古くからあった考え方のようですが、神の摂理を生きる中で、そういう態度も培われていくのですね。

ただ、3人のトークのビデオの中で、カースティンも言っているように、最初はみんな、「本当に神の摂理の中で、自分は食べていけるんだろうか?」と半信半疑、試すような態度をとりながら、おそるおそる進むようです。ただ、それを確証する経験を重ねるうちに、スピリットと一体の安心感の方が圧倒的になり、不安に思って疑ったり問うことはほとんどなくなるとか。

また、ガイダンスに従ってこの道を辿った結果、エゴとしての自分が期待していた形で、「うまくいく」かどうかは、もう問題にならなくなる。結果がどうなろうと、そこまでのプロセスの中でエゴの解除が進み、スピリットとますます一つになり、殻を破り自分が拡大して開いていくよろこびを味わうことが、何はともあれ重要なのだから・・・とも言ってます。

ジェイソンはその例として、今、フランシスとドキュメンタリー映画を撮るようにインスピレーションに導かれている話をします。カメラマンになるなんて、そんな能力が自分にあるなんて、夢にも思わなかった。自分からこんなことするなんてことは、まずなかった。ただガイダンスに従っているうちに、どんどん潜在能力が出て来て、自己拡大のよろこびも感じられている。

ただ、興味深いのは、彼らは映画がうまく完成するかどうかは気にしていないこと。その間に関係する人が癒され、ゆるしがすすみ、自己拡大が起こり、スピリットとますます一つになることが、あくまで目的なのですから。

ただ、スピリットが何を望んでいるかは、わかりませんし、大成功をおさめるかもしれません。同じような動機で始まった彼らの別のプロジェクトのように。たとえば私が今、和訳するよう導かれているI Married a Mysticというカースティンの本は、去年の秋出版されたばかりですが、今の時点で10カ国語への翻訳が進んでいるのだとか。

天命を生きるというと、「この道一筋」の職人的な生き方のイメージを抱きがちです。この道をずっとたどると、何か偉大な達成が待っている・・・というような。私もずっとそう思っていました。

でも彼らの話に触れてつくづく感じたのは、そういった態度はエゴにハイジャックされやすいこと。

神の摂理は、独立したパーソナリティを持った「私」という人格が生きるのではありません。

そういった一切合切、エゴの産物を解除して、名前、アイデンティティ、所属、職業意識も含め、手放していく旅、
形もなく、制限も知らない神の意志と一つになるための道筋の中で、
その時々に自分と周りの人たちの癒しのために必要な、さまざまな機能を果たすよう導かれているだけですから。

そういうと難しく聞こえますが、ようするに、どんどんハッピーで自由、身軽になっていくってことなのですね。

ある時期、うながされてやっていたことが、しばらく経つと、もうそれはいいと、全く別のことをやるようにうながされることもあります。何かのエキスパートになるように導かれることは、どちらかというと稀なようです。ここでトークする3人も、ガイダンスに従う中、マルチな才能を発揮してきている人たちばかりです。

たとえばこのビデオではその話は出てきませんでしたが、カースティンはある時、ギターを弾くような促しが来て、それに従っているうちに、シンガーソングライターとして自分の曲を披露するようになり、1年後にはCDもリリースしたのだとか。ギターを弾いたことなど、それまでまったくなかったのに。そのあとは、本を書くようにガイドされて、I Married a Mysticを出版しています。

でもそんなふうに言うと、今度は、頑張ってあれこれいろいろ試して、自分の才能・可能性を出し切るイメージを抱きがちですよね。

でも、それも、違うようです。それだと、何にもしない、ありのままの私では不十分だっていう罪悪感をモティベーションにしてることになってしまいますよね。

摂理の中で、いそがしくなったり、マルチの才能を発揮するのは、それとは全然違うようです。

神の意志と一つになるほど、自分から何かをやってる感覚は失せていき、行為者doerとしての「頑張る」私も消えていくから。

流れに運ばれるように運ばれ、途中、必要なものはすべて与えられる。3人のトークのビデオの中で、ジェイソンの体験談を受けてカースティンも言っているように「私は何もする必要がない」(テキスト18章7節)ということを、一歩一歩、さまざまな深さで理解していく旅になるようです。

私自身も、頑張るのをやめ、欲を持つのを一切やめてはじめて、欲を持って頑張ってた時に、どうしても手に入らなかったことが、向こうから次々やってくるような経験をしました。でもそのときにそれを受け取るのは、もう「私」ではないのですね。ただただ感謝があるばかり。やった!といった達成感、頑張った自分へのご褒美だとか、成長の賜物だといった傲慢な気持ちの入る余地はありません。「私」がやっているのではないのですから。

神秘家になって浮世離れしたあと、いったい誰が自分の面倒を見てくれるのでしょうという質問に答えて、ディヴィッド・ホーフマイスターは次のように言っています。

聖なる創造を思い出す途上で、神聖な神のガイドに降伏して、道をゆずる生き方が始まります。それはたとえば、あらゆるシンボルが、ホーリースピリットが惜しみなく提供してくれていると見ることを伴います。そのような見方をすると、自分や周りの人が金銭的に困るのではといった心配は生じません。その代わり、あらゆるものに対して、ホーリースピリットへの信頼を見出すようになるでしょう。たとえば、水、空気、家、交通手段、言葉、コミュニケーションの道具など、必要な全てが提供されていることにホーリースピリットへの信頼を乱します。それは必ずしもあなたが世捨て人として自分を認識するという意味ではなく、あらゆる状況であらゆるものが神聖に提供されているご自分を認識するということを意味します。(『覚醒へのレッスン』)

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この中で触れたビデオのリンク

ディヴィッド・ホーフマイスターさんの『神の摂理』

カースティン、フランシス、ジェイソンのリトリート予告編 『神の摂理・よろこび』

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