奇跡のコース

「私は何も知らない」よろこび 私の学習体験

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言い出しっぺなので、まずは私の学習体験談、書きますね。ちょっと長くなりましたが、ご容赦ください。

21年間、大学教員をしてたこともあり、だとても頭でっかち。「私は正しい」という思い上がりを、「私は何も知りません」という気づきへと置き換えていくのが、一番、聞きました。お気に入りのレッスンは、ワークブックの最初の方、1〜25番目あたりです。まとめてできるようにレビューレッスン、51番以降を繰り返したりもしました。

今はそれらを混ぜ合わせた自己流短縮バージョンを日々実践。
とにかく自分で考えること、ジャッジすることを、すべて疑い、手放すようにしています。

というのも、それらはすべて、間違ってるって思うから。

なぜ間違っているかと言うと、そこには

過去の慣例に従った思い込み、決めつけ
そのすぐ裏には、思った通り、期待した通りに現実が動かない怒り(攻撃心)、

今、この瞬間の現実とは関係のない仮定法の思考
「もし〜になったらどうしよう」といった
取り越し苦労の心配、おそれ・・・

などなどがぎゅうぎゅうに詰まっているからです。

具体的にやっていることは、
頭にいろんな思考が去来してごちゃごちゃしているのに気づくたびに、
ホーリースピリットに
これをすべてあなたの視点で置き換えてください
と祈るわけですが、

その度に、頭が真っ白。光で満たされ、何も考えられなくなります。
それが、とても気持ちがいい。

頭が真っ白なまま1日を過ごしても、生活に支障をきたすことは、ありません。むしろずっとスムーズに進みます。必要なことは、そのつどひらめくからです。

頭が真っ白で、何をすればいいのか、全くわからない。この「わからない」気持ちの深まりは、「神の愛に養われてる」感覚の深まりとパラレルに進みました。

たとえていえば、赤ちゃんに戻って行く感じですね。赤ちゃんが母親の胸に抱かれているような安心感、一体感、しあわせに浸されていきます。「何もわからない」→「わからなくて大丈夫、こんなにも、愛されてるのだから」そんな感じです。

毎朝、今日、何があるのか、どんな日になるのか、私が誰なのかさえ、全くわからない・・・と思いながら目覚めます。その「わからない」気持ちの中から、なんとも言えないしあわせ、愛されてる感覚が湧いてきます。

その幸福感にひたってると、今日1日、どんな1日になるか、具体的なイメージが少しずつ、湧いてきます。たとえば今日は、この文章を書くこと、I married a Mystic という本の翻訳を進めること、明日来るお客様たちのために、何品か楽しくお料理することや、ピアノに向かってるイメージなどが湧いてきました。ホーリースピリットからのガイダンスです。

それに従ううち、結果的に、盛りだくさんのいそがしい日になったりします。でも軽やかで、遊んでいるような感じ、気分にまかせて、即興で演奏したり、ものづくりをしているような感覚で1日が過ぎて行きます。

肉と骨でできた身体より大きな、膨張した風船のような身体、そのほとんどが意識もできないしコントロールもできない、そんな身体をしながら、地上からほんの少し浮かんで、知らない場所にすっと連れられていくようです。でもそのコントロールきかない感じ、未知の場所へと向かう感じが、愛されている、世話されている、おまかせしていいんだ、知らなくていいんだという安心感に裏打ちされていて、なんともいえないいい感じなのです。

でもそのコントロールきかない感じ、未知の場所へと向かう感じが、愛されている、世話されている、おまかせしていいんだ、知らなくていいんだという安心感に裏打ちされていて、なんともいえないいい感じなのです。
 
もちろん苦しい抵抗の時期も長く続きました。とくに「バカになってしまうかもしれない」「気が狂うんじゃないかしら?」という不安に相当長いことつきまとわれました。自分の人生、やることなすこと、なんの意味もないという無意味感に悩まされた時期もありました。でも今振り返れば、みんないい思い出です。
 
私は相当頭でっかちなタイプだったので、「私は知ってる」「私は正しい」という信念がエゴの支柱をなしていたのですね。だからそこをなし崩しにするようなワークがエゴの解除を一番進めてくれました。
 
だから、別のタイプの人(たとえば、「人を喜ばせなきゃいけない」という信念でエゴが固められている人など)の参考になるかどうかは、わかりません。
 
ただ一つ言えるのは、「気持ちのいい」「安心できる」体験を大切にして、学習をすすめるといいだろうってこと。
 
ワークをしたり、テキスト一文ごとに瞑想して、その意味をかみしめながら読んでいると、なんとも言えない気持ち良さを味わうことがあります。それが、全て。頭で文面を理解するよりずっと重要なことなんじゃないかとさえ思っています。私の場合、突然、強烈な体験をすることはほとんどありませんでしたが、日々、「ああ気持ちいい!」「心あらわれる!」プチ神秘体験、気分や知覚が一新される小さな奇跡を、少しずつ重ねていきました。今思えばそれが一番役に立ってます。
 
というのも、エゴはなかなか自分の管轄領域を手放そうとしないからです。ただ気持ちいい安心感が心にふわっと広がる。そんな体験が少しでもあると、それまで怖がってぎゅっと握りしめていた、エゴのコントロールする手がほんの少し緩んで、スピリットへ「おまかせ」できる領域をじわじわ広げていけます。実際には、スピリットに任せたの方がずっと、なんでもうまく行く。頭でそれを理解するのはたやすいけれど、無意識にまで深く染みついたおそれを手放すには、体験の力を借りなければならないと思います。
 
とても単純な話ですが、
スピリットに由来するこの手の安心感を味わうたびに、
こんなにがっちり現実をコントロールして、しがみついていないと、高いところから真っ逆さまに落下するってこれまでエゴに思い込まされてきたけれど、
大丈夫。下で優しく受け止めてくれる極上のソフェがあるのだから
って、心底思えるようになって、手を離せるようになるというわけです。
 
写真は、シェアハウスをしてる私の札幌の家「森の広場」にて。シェアハウスの住人、斎藤デコさんが撮ってくれたものです。
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