奇跡のコース

ディヴィッド・ホーフマイスターさんの心のマップ 

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前回、スピリットに全ておまかせすればするほど、うまくいく。こんなに易しい話はないのに、なぜ難しく感じるのかについて話しましたが、その話の続きをしましょう。エゴ解体作業にともなう感情のマネジメントを、具体的にどう行うか、今回はもうちょっと精密な話をしたいと思います。

確かに、助けはふんだんに提供されてる。でも、どちらを向けば、助けが得られるのか、また自分のどこを、何を助けてもらう必要があるか、それがわかっていないのですね。で、いつも反対の方向を向いてる。あるいは、正しい方向(心の内側)に向かうことはできても、見当違いのものを要求してる。そこがことを複雑に、難しくしているというわけです。

ここで参考になるのが、ディヴィッド・ホーフマイスターが作ったマインドの図です。「マインドがどんな作りになっているのか、教えてください。僕は子供の頃から図が好きだから、図で教えてください」と心の中のイエスに頼んだあと、ひらめいた図なのだそうです。彼のコミュニティでは、「平和のための道具」としてフル活用されています。

同心円の連なりでできていて、一番外側には「知覚」Perceptionそのすぐ内側には「感情」Emotion、その内側には「思い」Thought、その内側には「信念」Belief、中心には「欲求」Desireあるいは「祈り」Prayerがあります。

私たちは普通、何か悲しいこと、心配なことや頭にくることがあると、「知覚」されるものの中で、問題解決しようとしますよね。たとえば、大切な人が去って寂しくてたまらない。その人を呼び戻す努力をしよう。あるいは別の人を探そう・・・将来の暮らしが心配だ。安定した職を探そう・・・というふうに。一番表面の水色の層から出ずに、心の表面だけをなでまわしながら、その中で何とかしようとします。

でも「悲しさ」や「心配」や「怒り」は、その層の内側の心のもっと深い領域から来ているので、問題の根っこは放置されたまま。だから、解決できたと一時的には思っても、しばらくすると、また同じような状況が生まれ、同じようなストレスや不快感に苦しめられることになります。

知覚の世界の中だけで生きてると、次から次へと似たような問題が押し寄せ、その解決に奔走して、やたら忙しくなるのはそのせいです。

コースではだからそれはもうやめようって提唱しているわけです。ではどうするかというと、表面の水色の輪ので奔走する代わりに、輪の中心、自分の心の中心に向かって降りていくように、すすめています。それがゆるしなんですね。

たとえば、騒音が気になるとします。隣の部屋で耳の遠いおじいちゃんが、ボリュームを大きくしてテレビを見てる。「知覚」レベルの中で問題解決しようとすると、そのおじいちゃんのところに行って、テレビを消してもらったり、ボリュームを下げてもらったりするところ。それを、あえて内側に向かうと、まず感じられるのは、感情。この騒音がどう感じられるか、観察してみます。まず思いつくのは、不快だってことですが、どんな風に不快なのかもうすこしつぶさに観察してみます。すると、まるで音が自分の身体をチクチクさすように感じられるとか、頭をドンドン叩いているように感じられるとか、いろんなイメージが湧いてくるかもしれません。そんな具合に、「感情」Emotionの層を探索することができます。

次に、なぜ、今、自分はそんな風に感じているんだろう? と問いかけてみます。そうやって「なぜ?」と問いかけて現れるのが、「思い」Thoughtの層、図のグレーの環の部分です。もちろん、隣のおじいちゃんのテレビの音のせいだって、「知覚」レベルでは思ってましたが、今、それがどんな風に感じられるか、しっかり感じたあとなので、今はちょっと違った理由が思い浮かびます。たとえば、「自分が何か攻撃されているような気がする」「その攻撃に対して自分はとても無力な存在だ」など。

「感情」の内側にある「思い」が見えて来たら、この「思い」が前提にしている、強くて根深い思いこみが自分にはあるんじゃないかって考えてみます。すると、「信念」Beliefの層、図で言うと黄色の環が見えてきます。

これはちょっと捉えにくいかもしれませんが、自分は人生でいろんなことを体験し、感じ、考えていきているけれど、何かを一生懸命証明しようとしてやっているんじゃないか? 一体何を証明しようとしているんだろう?と考えてみるといいかもしれません。

たとえば騒音に悩まされていた時、自分の心の内側を探っていた時の私は、「自分は被害者だ」という信念が根強くあるのに気づきました。自分は無力な犠牲者だってことを、「ほらね、やっぱりそうでしょう?」って確かめるために、そんなシチュエーションを捕まえては、「かわいそうな私」のドラマを演じてる。それ自体はとても複雑で玉虫色で、どうにでも解釈できるひとつながりの現実の中から、そうした「信念」を「正しい」と証明してくれるような部分を血眼で探しては、そこを拡大、強調して、自分で自分を、そのドラマの主人公になれるように、お膳立てしているのですね。

場所や周りの人が変わっても、いつも同じようなパターンの人間関係を繰り返す人いますよね。たとえば、何度別れても、離婚しても、暴力を振るうパートナーとばかり結ばれる人など。それはこの「信念」レベルに「自分は犠牲者だ」というものすごく強固な固定観念を抱えているせいなのですね。

病理的なところまでいかなくても、私たちは多かれ少なかれ、そうした無根拠な思いこみを抱えている。そして、その思いこみが正しいことを証明しようとして、わざわざ問題を呼び寄せながら生きているところがあるようです。

「信念」のレベルまで降りていくと、いつも同じテーマが顔を出すのに気づかされるかもしれません。ゆるしのプロセスをはじめた「知覚」レベルでのきっかけは千差万別でも、このマインドの図の中心に近づくにつれ、同じテーマが顔をあらわしはじめます。

私の場合、自分は「犠牲者」「被害者」「無力な存在」だという思いこみに出会うことが多かったのですね。そのあたりのゆるしを集中的にやった今は、「すべては死んで朽ちていく」という信念が、一番頻繁に現れるようです。たとえば、誰かを、何かをかわいそうに思ったり、助けたいとついついお節介を焼きたくなったとき。あるいは、何か特別なものに対する強い愛着の中にある悲しみに気づいたときなど。その気持ちを見つめながら、心の中心の方に降りていくと、死に関する身の毛のよだつような妄想を抱いてるのにびっくりしたりするわけです。

ここまでくると、中心の「欲求」または「祈り」の部分はもう目と鼻の先。この中心から、私たちの現実のすべてが、作り上げられていく。コアの部分。夢を夢見る主体がいる部分です。だから、ここが変われば、すべての環が連鎖的に「だ〜っ」と変わっていきます。

それほど重要なこの部分は、「そもそもすべては、何のためにあるのか?」と問うことで見えてきます。たとえば、先ほどの騒音が気になるケースでは、「被害者」「無力な私」の信念の下から、「誰か助けて!」「愛してz1」「安全だって感じさせて!」という渇望が見えてきます。

この部分だけ「欲求」または「祈り」と二重表記になっているのは、エゴの側についてる場合と、スピリットの側につこうとしている場合の二つのケースをさしているのですね。

エゴの側にいると、欲しいものが、今、ここにないことが前提になる。ないものねだりの「欲求」があるわけです。

でもこの渇望感は、「祈り」の中でスピリットと出会うことで癒され、求めることはすべて「すでに与えられてる」という安心感、充足感、よろこびに反転させることができます。

つまり中心にあるのは、「愛を求める」叫びか、「すでにじゅうぶん愛されてる」と感じて、あらためて感謝することか。「何かいつも欠けてる、それを満たしたい」という渇望か、それとも「必要なものすべてはゆたかに既に与えられている」安心感か。「すべては死して朽ちていく」悲しみか、それともスピリットとしての「生命の永遠性」の自覚か。一言で言えば、エゴの側につきたいか、それともスピリットと共にいることを選ぶか?

もちろん、「知覚」レベルで何か問題を感じたわけですから、ゆるしのプロセスをはじめた時点で、前者のエゴの側にいるわけですよね。つまり「死」に呪縛され、愛やゆたかさがや「愛がない」「ゆたかさがない」と渇望する、「エゴ」の側の「欲求」を感じてる。

でも、ゆるしのプロセスの中で問題の根源をしっかり見つめて(単に頭で「愛」や「生命」や「ゆたかさ」を求めるだけじゃなくて)、自分が心の底でどんなにそれを絶望的に、病的な形で渇望しているかを感じつくすことができた今、大逆転のチャンスもあるわけですね。

それが、この「欲求」を「祈り」に変えること。「この欲求を手放せるように、助けてください」という祈り。それと、既に自分が、もう十分「愛されていること」「ゆたかであること」、「スピリットとともにあること」・・・を教えてください、見せてください、という祈りです。

心から祈ることで、スピリットの助力の下、「信念」、「思い」、「感情」が変容し始め、「知覚」も変わっていきます。たとえば、先ほどの例でいえば、あるとき、騒音が以前ほど気にならなくなっている。あるいはそんなこと問題にならない状況で暮らしてることに気づくわけです。

「奇跡」が引き起こされたというわけですが、それは、この心の図の中心から放射された祈りによる変容が、「知覚」レベルまで届いたってことなのですね。

「祈り」を心の中心に置くことで、心の全層がスピリットの側のモードに浸って生きていけるようになります。スピリットモードになると、たとえば心は山をも動かす力を持ってるというパワフルな「信念」が被害者意識や無力感にとって変わります。「思い」は、何であれ、かたちの違いではなく、スピリットの一体性の側から、即座にゆるせるようになる。あるいは、ものごとをありのままに、ジャッジメント抜きにものをとらえるものになります。そして「感情」は愛が満ち、「知覚」はワンネスの調和やつながり、平和やゆたかさをいたるところに目撃するようになります。罪悪感、欠如感を埋めるために肩肘立てて、頑張って生きるのはもうおしまい。「奇跡」によって滑るように生かされていく人生のはじまり、神の救済計画、スピリットのガイダンスの流れに乗った人生のはじまりというわけです。

ゆるしは必ずしも、毎回、円の中心にまで掘り下げながら行う必要はないと思います。私の経験からすると、その途中の「感情」や「思い」の層で、すでにスピリットの助けが入り、安らぎを感じたり、別の見方ができるようになったり、祈りモードの反転が起こることも多いようです。

でも、中心まで掘り下げるほど、癒しも深くなっていく。罪悪感の深い根から掘り起こせて、その後、類似の問題に悩まされる頻度がぐっと減る気がします。というわけで、余裕があるときは、ぜひ、丁寧に心の中心に向かって見ていくことをおすすめします。

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