奇跡のコース

「与える」ばかりで燃え尽きないために スピリットとつながっているか 3つのチェック項目

  • LINEで送る

自分の心の内奥で感じられるうながし、インスピレーション、スピリットのガイダンスに乗って生きているときの特徴として、「与える」ばかりでOK。ハッピーに自己完結できるというのがあると思います。

与えてばかりいると、普通、疲れてきますよね。それにつれて、人から「取る」ことで、失ったものを相殺しようとします。つまり「これだけやってあげているのだから、これぐらいは返して」という、取引モードのはじまりです。

でも、スピリットとがっしりとつながっているときには、いくら与えても、流れこんでくるソースとつながっているので、この枯渇が起きないのですね。枯渇した分を「取る」必要や、取引モードで、「与える」と「取る」をバランスさせる必要もなくなってきます。

与えること自体がよろこびで、すでに報酬になってる。だから、向こうから戻ってこなくても気にならない状態です。

まあこれが、理想状態なのですが、なかなかそうもいかないときもありますね。

その原因として考えられることとして、
1. エゴによる管のつまり 
2. 相手のスピリットに対して与えてるか 
3. 仮面の「私」、つまり虚構のセルフイメージを修復したり、守るために与えていないか 

があると思います。

まず1.について。

心のどこかに、おそれや怒りや悲しみを抱えていると、スピリットからのエネルギーやメッセージ、奇跡の流れが滞ったり、詰まったりする障害になるようです。 その都度その都度、心に浮上したネガティブな気持ちや思考もを、一つ一つ、「今、ここ」で、スピリットと一緒に見つめて、消していく地道な作業が必要になるのですね。

逆に周りの人やものに、愛や感謝の気持ちを振りまいていると、管が全開で、ピカピカに磨かれていく。スピリットからのエネルギーがいつも流れこんで疲れ知らずになります。

たとえば私は、普段ほとんど空き家状態の家を所有してます。手に入れた当初は、ここをアートと平和とコミュニティの再建のために使うんだって、意気込んでました。壁塗りや壁画描きなど、みんなで一緒に手作りしてつくってきました。

ただ、古い家なこともあり、維持・管理費ばかりがかさみます。特に水道管のトラブルによる出費が相次ぎ、いつどこが壊れるかわからない、爆弾を抱えているような恐怖感にさいなまれ、手放すために動き始めていました。

でも、友達のサポートもあり、この場所がここまできた歩み、みんなで壁画を描いたり、壁塗りしたこと、遊びながら家をつくったプロセスがどんなに楽しかったか、どんなにたくさんの人のお世話になったかを思い出したのですね。

するとたちまち、この家を「重荷」に感じた傲慢な気持ちは消え、「みなさんと一緒に楽しみながら手作りしたよろこびと感謝の場所」として、とらえ直すことができました。

そのときに、ひらめいたのが、この「森の広場 番人」構想。要するに、ここをイベントハウスとしてフル活用してくれる人に、住んでもらうアイデアです。Facebookに記事を出すと、11件もシェアしていただき、素敵な出会いがどっと押し寄せてきました。

つまり、普段から、「ストレス」「重荷」「これは苦手」なものや人の存在を、少しでも感じるたびに、その感情を見つめ、手放す習慣をつけることで、スピリットの流れる管をお掃除しておくといいと思います。すると、スピリットの常態である愛や感謝の念が自然に湧いて消て、エネルギー循環がよくなり、元気でいられるし、皆との協同作業も活発になっていきます。

『奇跡のコース』ではこの物の見方の転換を「ゆるし」と呼んでいます。

ただ、怒りや不安など、ネガティブな気持ちを抱えこんでいるのに気づいた時、そんな自分を「ダメだ!」と思うと、逆に手放せなくなることもあるからご用心。

そんな気持ちを抱え込んだ自分自身も一緒にゆるしながら、やさしくいたわる必要があるのですね。

というのも、コースのゆるしは、エゴとしての私には、決してできない。あくまでスピリットに「してもらう」ものだからです。

自分を責めているときには、エゴが主体になり、スピリットは介入できなくなるのですね。だから、何かネガティブな闇を自分の中に感じても、ジャッジメントの対象にしないほうがいい。エゴと見つめてしまうことになるから。逆にそのありのままを、いたわりながら、やさしく、静かに見つめると、スピリットと見つめることになり、その光の中で闇は次第に消えていきます。

スピリットとともにいるなっていう安心感と一緒に、心の闇を、否定したり、責めたり、蓋をせずに、どこまでも深く、さぐりながら見つめることで、消していく。それが、ゆるしです。

慣れてくると、一瞬でできるようになります。たとえば私は、怒りやおそれを、それと感じる前、「なんだか心がざわざわ、イガイガ、ちょっと不快感のきざしがあるわ・・・」という段階で、とにかく、すぐにスピリットのまなざしに「さらす」ようにしています。それが何であるか、識別する暇もない感じです。どうせ消えてしまうものですものね。

どうしても苦手な場所に出かけたり、人に会ったりするときには、その前に、まず心を完全にオープンにします。「嫌だな」とか、ジャッジメントをしているときは、心をきゅっと締め付け、閉ざしている感じですが、その握りしめる手をあえて解いて、心をぽっかり開いた空っぽの器のようにするのですね。空っぽの心のまま、「これが何なのか、この人が誰なのか、私はさっぱり知らない」感じのままいるようにしています。するとその空洞を、スピリットのまなざしが、じっと見つめ、照らしはじめます。

空洞の中には、もちろんさまざまな、「ざわざわ、イガイガ」とした不快感の兆しが、次々と現れるのですが、スピリットのまなざしの下で、すぐに消えていきます。

スピリットのまなざしにさらして、みつめてもらうだけで、汚れがとれるなんて、こんなに簡単なお掃除はないと思っています。

「2. 相手のスピリットに対して与えているか」に移りましょう。

「相手のスピリットに対して与えているかどうか 」について見てみましょう。

たとえば、料理にしろ、洗濯にしろ、家事って、物質のメンテナンスに関わってる。つまり、家族の物質的な生存のために、自分の時間や労力を「与えて」いるって考えがち。すると、どうしても、スピリットではなく、エゴがエゴに対して奉仕するというモードに陥りがちですね。

家の雑事、家事に追われて、なかなかやりたいことができない。家族のために自分を犠牲にして、本当にやりたいことを押さて思って生きてる。そんな不本意さを感じながら生きている日本人女性、多いはず。

誰かがきつい仕事をしているおかげで、別の誰かが楽できる。一方の恩恵のために他方が犠牲をはらってる、Aさんがとれば、Bさんが失う。ゼロサムゲーム。そうした発想は、あたりまえだけど、両者が分離してるってこと、前提にしてるからね。これをつきつめると、どちらが得してどちらが損してるか、どちらが主人でどちらが奴隷かといった権力闘争になってしまいますね。家族の場合は愛情関係からオブラートがかけられていて、それがあからさまに露呈されることって少ないかもしれないけれど。エゴが大好きな権力闘争、取引、仮定法的なロジックのはじまりです。

でも、スピリットは、「自分のため」と「あなたのため」の区別を知りません。

あなたがどれだけエゴから、あるいはスピリットから行動しているかを簡単にチェックする方法があります。まず自分を幸福にするために日々やっていることを書き上げていきます。そのあと、他人を幸福にするために日々やっていることを書き上げていきます。

そのあと、この二つのリストの内容がどれだけ近づいていたり重なっていたりするかが、スピリットから生きている目安。

「そんなもの、ほとんどないよ」と思った人も、大丈夫。とっておきの方法があります。

誰かのために何かをするとき、それがどんなことでも、その人のスピリットをよろこばせ、養うためにやってみるわけです。

たとえば、食事の準備をするにしても、単に空腹を満たすため、「餌を与える」ためにやらない。「気持ち」を伝えるためにやる。食事を準備してるところは変わらないけれど、どうしたら相手がよろこぶか、意表をつかれた驚きや遊び心、ユーモア、ひらめき、美的な満足にも満ちた出来事になるか、そんなこと考えながら、企みをこらすように献立を考えたり、テーブルセッティングを考えたり、とっておきの音楽をかけたり、キャンドルを使ったり・・・ 

そうこうするうちに、日常生活そのものが、だんだん、一種の自己表現やアートの域に近づいていくかも。「アートとは労働のよろこびである」と、ウィリアム・モリスがいみじくも語ったように。

そんな才能も余裕もないよ・・・というかもしれないけれど、ここで問われているのは、表現の完成度ではない。その人のエゴや身体よりも、スピリットをよろこばせるためにやるんだと、ねらいを定め、決意するだけで違ってきます。

たとえば、物を渡す時に、しばらく手を握るとか、ささやかなことで、気持ちをたっぷり伝える術にも長けてきます。

一番肝要なのは、そんなふうに相手のスピリットのために働いているときには、自分までどんどん楽しくなってくることですね。これは単に相手の「飢えた」身体や「高慢な」エゴを喜ばせるために奴隷のように仕えていた時、「与える」ことがあっても、それは、「見返り」を期待した「取引」の中でだけている時には、あり得ないことでした。

これは、つまり「相手のスピリットのため」にやることは、「自分のスピリットのため」にやることと区別がつかない、「スピリットは一つにつながっている」ってことの証明でもあります。それって言葉だけで言われると、抽象的で、遠い世界の話のように聞こえますが。実際には日々、体験していることなのですね。

相手のスピリットに光が灯されると、自分のスピリットにもそれが伝わり、疲れや苦労も吹き飛んでしまいます。そこから沸き起こる喜びや感動は、互いにひびきあい、増幅しあうので、まさに、自分の喜びは、相手の喜び。

スピリットから、スピリットのためになされるあらゆることは、そんなふうに犠牲を知らず、主従関係も知らず。誰もが主体。絶対平等な世界が広がっていく。

同じことが、「スピリットとしての自分」のために何かをやっているときにもあてはまる。

自分の身体やエゴのために何かをやるときには、いつもどことなくうしろめたさがついてまわる。美味しいものを誰とも分けずに、こっそり独り占めしてるときのような罪悪感です。

でも、自分のスピリットを養い、よろこばせるために何かをやろうとすると、それは結局、他のみんなのよろこびになる。

よく、子供のため、夫のためだといって、自己実現をあきらめるお母さんがいる。でも、それが本当にあなたのスピリットを養い、よろこばせるものなら、それはあなたを生き生きとさせ、輝かせ、周りの人を明るく照らすことになります。
つまり必ず、周りの人のスピリットも養う。

いそがしくても、構ってもらえなくても、自分の才能を発揮し、好きな仕事をバリバリややる親から育った子は、立派に育つ!スピリットの世界は、徹底して、犠牲を知らないんじゃないかと思ってます。。

人に何かに誘われる。でも自分は、本当は別のことがしたい。そんな時、誘いを断ってやりたいことをやると、何かやましい気持ちが残る。かといって相手の誘いにのってやりたいことを我慢していては、自分に失礼。自分自身をいつまでも、受け身で自立できない状態のままに放っておくことにもつながります。

そうやって迷い始めた時には、本当に自分のためになることは、周りのすべての人のためになることを思いだして、自分のスピリットが輝き出すと、関わるすべての人たちのスピリットの火も灯していくことになるってことを。

ただ、必要以上のお金儲けのためだとか、虚栄心、権勢欲を満たすためだとか、エゴを満足させるために子供をほったらかしていても、そうはいきませんよね。その手の「自分のために」は、自分のスピリットの火をともすことにはならないので。

つまりひとえに「人のため」「自分のため」といっても、「人」や「自分」の名の下に、身体やエゴが考えられているのか。それともスピリットが考えられているのかははっきり区別してかかる必要があるというわけです。

スピリットとしての私を養うためにやっていることならば、わがままに見えても、結局はみんなのためになる。

同じことが、「スピリットとしての自分」のために何かをやっているときにもあてはまります。

自分の身体やエゴのために何かをやるときには、いつもどことなくうしろめたさがついてまわる。美味しいものを誰とも分けずに、こっそり独り占めしてるときのような罪悪感ですね。

でも、自分のスピリットを養い、よろこばせるために何かをやろうとすると、それは結局、他のみんなのよろこびになる。たとえそれが、一見、わがままに見えても。

よく、子供のため、夫のためだといって、自己実現をあきらめるお母さんがいる。でも、それが本当にあなたのスピリットを養い、よろこばせるものなら、それはあなたを生き生きとさせ、輝かせ、周りの人を明るく照らすことになります。

つまり必ず、周りの人のスピリットも養うことができます。

いそがしくても、構ってもらえなくても、自分の才能を発揮し、好きな仕事をバリバリややる親から育った子は、立派に育つ!スピリットの世界は、徹底して、犠牲を知らない。

人に何かに誘われる。でも自分は、本当は別のことがしたい。そんな時、誘いを断ってやりたいことをやると、何かやましい気持ちが残る。かといって相手の誘いにのってやりたいことを我慢していては、自分に失礼。自分自身をいつまでも、受け身で自立できない状態のままに放っておくことにもつながります。

そうやって迷い始めた時には、本当に自分のためになることは、周りのすべての人のためになること、自分のスピリットが輝き出すと、関わるすべての人たちのスピリットの火も灯していくことになるってことを思い出すといいと思います。

ただ、必要以上のお金儲けのためだとか、虚栄心、権勢欲を満たすためだとか、エゴを満足させるために子供をほったらかしていても、そうはいかない。その手の「自分のために」は、自分のスピリットの火をともすことにはならないので要注意。

つまりひとえに「人のため」「自分のため」といっても、「人」や「自分」の名の下に、身体やエゴが考えられているのか。それともスピリットが考えられているのかははっきり区別してかかる必要があるというわけです。

スピリットとつながって「与えて」いるかについての、チェック事項はもう一つありました。

3. 仮面の「私」、つまり虚構のセルフイメージを修復したり、守るために与えていないか

でも、今回はすでに長くなってしまいましたので、
これについては、また機をあらためて。

  • LINEで送る