奇跡のコース

ガイダンスの流れに乗る生活は、自由で平等! 何でもOK

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心に去来する思いの一つ一つを、手放して、ゆるしていく。それを地道に丁寧にやってると、ある時、すべてを見つめる目だけが残って、スピリットのガイダンスの「流れ」がはじまりますね。その中で、スピリットのやさしさに浸りながらやることは、何であれ、癒す力を持ってる感じです。本当に、自由。特別なことは何にもしなくていい。「愛せ、そして、なんでも好きなことをやりなさい」というアウグスチヌスの言葉通りです。なぜなら、何をやっても、この心の状態は、シェアされるから。それは、はかたちを超えたものだから。

逆に、ありがたい話であれ、縁起物を贈ることであれ、「これこそが、愛の行為、愛の証」と、特定の「かたち」に固執しはじめると、それはすぐにエゴの管轄下に入り、形骸化した儀式になり、人心や状況を操作するための道具に成り下がってしまいがちです。

そうやってスピリットからのガイダンスの流れに入ると、思いつくこと、目の前に現れたこと、すべて乗っても大丈夫。ということは、「これは良い」「悪い」とジャッジして、「良き」を取り入れ「悪しき」を切り捨てる裁判官のようなことは、もうしなくていいってことでもあります。

スピリット自身、いつもやっているように、誰も排除せず、差別したり、序列化したりしない。どんな偉い人が現れても、犯罪者が現れても、全く同じように、両手を開いて歓迎できる。ジャッジメントを知らないこのおおらかさ、自由さこそ、コースの非二元論思想の真骨頂といえるかもしれません。テキストの言葉で言えば、

奇跡は助けを求める全ての呼び声に、全く同じように応答します。その呼び声をジャッジメントの対象にすることはありません。ただそれをありのままに認識し、認識したことに従って、応えるだけです。どの叫びがより声高で、大きく、重要かなど、顧慮することはありません。ジャッジメントする必要などまったくないことを、行うようにと頼まれると、ジャッジメントをやめられないでいるあなたは、どうすれば、そんなことができるだろうと首をかしげるかもしれません。答えはいたって簡単です。あなたではなく、「神」の力が奇跡を生み出すからです。奇跡自身、あなたの中に神の力が作用していることを証言しているだけなのです。奇跡を分かち合う全ての人に対して、奇跡がなぜ、平等に祝福を与えるのか、なぜ、そこにいる全ての人が、奇跡をシェアできるのか、その理由はここにあります。(テキスト14章10節3−11)。

自分のペースで喋り続けるトークを、スピリットのガイダンスの流れの中で一方的に勢いよく行うのは、練習すれば、だんだんできるようになります。けれど、質疑応答が始まって、人の話をききながら、流れに乗り続けるのは、難しい。本当にいろんな質問が出てくるので、ジャッジメントする誘惑を抑えきれなくなるから。たとえば、頭ごなしに反論する人、自分の話と何の関係もないこと、どう見ても個人的な話題に過ぎないことを振ってくる人、いろいろいますからね。「これは質問というより、エゴの自己主張だわ」とか、「この人、まだこのレベルにいるんだ、困ったな。何から話せばいいかしら?」とか、逆に「おっと、これは重要な質問だ、ちゃんと答えらえるかしら」などなど、質問者の品定めまで始まる始末。もちろんそのとき、私たちはエゴの側にいる。スピリットのガイダンスの流れは、とっくに止まってしまっています。

おまけに、自分がジャッジメントの対象になっていることは、質問者にも伝わっていきます。そして、「こんな恥ずかしいこと、話すんじゃなかった」と悔いや罪悪感にさいなまれはじめるかもしれませんが、それは、彼らの助けになるどころか、心の平安というゴールから、さらに遠ざかる結果をまねきます。

その点、ディビッド・ホーフマイスターはすごい。どんな質問が出ても、ぶれずに、全ての質問者に対して、旧知の友に久しぶりに会ったかのようなよろこびをふりまきながら、全く平等に対してる。その姿を目の当たりにして、フランシスは、何度も謙虚な気分にさせられたと言っています。

連続殺人犯がピースハウスにやってきたときも、ディビッドは、丁重に迎え、お茶を振る舞い、おしゃべりを楽しんだという話もあります。そのときは、殺人犯氏もびっくりして、「俺が誰だか、お前は知っているのか?」とたずねたのだそう。「もちろん、知ってるよ」とディビッドが応えると、殺人犯は微笑んで、「やはり噂通りのやつだな」と言う言葉を残して帰っていったのだそう。多分これも、両人にとって忘れがたい奇跡の瞬間になったに違いないと思います。

 

受け取る態度次第で、エラーは消失。愛だけが残る!

連続殺人犯を歓待する話などを聞くと、ずいぶん危険な橋を渡っているなって思ってしまいますよね。

そんなことができるのも、今、ここに、しっかり根ざして存在することが持ってる浄化力を信頼しているからです。

私たちは普段、今、ここに、いません。そんなことを言うと、えっ「今、ここ」って、今、私がいるところじゃないの? それって矛盾じゃないの? と思われるかもしれません。こころの状態の話をしているわけです。たとえば、昔、私が勤め仕事をしていたとき、職場にいると、「早く家に帰りたいな」と思い、家にいると、今度は仕事のこと、職場のことが気になって、落ち着かなかったものです。「今、ここ」にいながら、過去の記憶にふけっていたり、未来のことを考えたりと、心はいつも、自分がいるところとは別の場所にさまよい出てる。

もう一つ言えば。そうやって、私たちが、未来のことや過去のこと、別の場所のことを考えているとき、その思考は、仮定法のかたちをとっています。将来、「もし〜になったら、どうしよう?」とか。あのとき「もし、〜していたら」「もし、〜していなかったら」、今頃、〜だったのに」。たとえば、先ほどのディビッドの置かれた状況だと、普通の人だったら、「この連続殺人犯が、もし、ここでも刃物を振り回しはじめたら、どうしよう?」と思ったかもしれません。

仮定法の思考はすべて、心配やおそれ、満たされていない願い、後悔からできています。もし、私たちの頭から、すべての仮定法の思考が一掃されると、全ての悩みが消えて、よろこびだけが残るといってもいいほど!

それって、実は、思ったより簡単にできるのですよね。

その方法は、仮定法の思考のロジックを吟味すれば、わかります。「もし〜したら、どうしよう?」「もし〜だったら、今頃、〜なのに」。つまり、すべて、「今、ここ」に現にあることとは、関係ない。「もし〜」がついた時点で、「今、ここ」に現にあることとは、別のところに心がさまよい出てるってことですから。

つまり、「今、ここ」にしっかり根ざしてることさえできれば、それらはすべて消えていくのです。

実験してみましょうか。今、あなたが一番、気がかりなこと、是非ともこれをやらなきゃいけないと思っていること、あるいは過去の後悔、自分自身や他の人に対して、許せないと思っていること、何でもいいので、思い浮かべて見てください。

そのあと、今度は、「今、ここ」を、世界中で自分が一番いたい場所、居心地のいい場所にしてみましょう。暑くもなく寒くもなく、ちょうどいい暖かさ。音楽でも、いい香りでも、花でも、自分が好きなものを添えて。そこでゆっくり、気持ち良く、くつろいでみてください。

そのあとで、さっき考えていていた気がかりや後悔、自分や人を許せない気持ちを思い出してみてください。かなり、和らいでいないでしょうか?

「今、ここ」というのは、そうした全ての思いが浄化され、洗い流されていく場所なのですね。

理由は簡単です。あらゆる心配も、後悔も、ゆるせない気持ちも、すべて「今、ここ」には、存在しないからです。「今、ここ」にどっしり根をおろして、ゆったりくつろぐことさえできれば、どんどんリアリティを失っていきます。満たされない願いも、「今、ここ」が本当に心地よく感じられたら、その前で色あせて見えて来ますよね。「ここが一番!」と思ったら動きたくなくなるのと、同じ原理です。

「今、ここ」にゆっくりとくつろぐことは、訓練次第で(こんな当たり前で自然なことを「訓練」というのも変ですが、でも実際には稀になってますものね)、簡単にできるようになります。別に部屋をかたづけたり、お花を活けたり、アロマを焚いたりしなくても、目をつぶってリラックスするだけ、あるいは何か作業中、作業を続行しながらも、できるようになります。

コースでは、「神」やそのあらわれである「スピリット」や、スピリットの世界とエゴをつなぐ「ホーリースピリット」に会うとか、その視点で見ると呼ばれている状態です。

というのも、「今」は神やスピリットとの通路が開く場所だからです。

先ほどの実験で、先をわずらったり、過去を悔いたりするのをやめて、私は「今」を楽しむことにする!と心に決めて、リラックスしはじめると、加速度がついたように、どんどん気持ち良くなったり、安らぎを感じはじめなかったでしょうか? それはこの通路が開いたからです。

これに対して、エゴは、「今」からはいつも締め出され、「未来」と「過去」に関する思い、つまり心配やおそれや、やきもきした願いや、後悔の中に居場所を求めます。そうしたところに心がさまよっているとき、私たちはエゴの支配下にいます。

スピリットのガイダンスに乗って生活するとは、スピリットの視点でものを見ること。スピリットに身体を使ってもらうことなので、それこそ、今、今、今しかない状況の中で生きること。

このすばらしいところは、周りの人たちにも、この状態につきものの心の平和、ゆったり、安心して、リラックスした気分が伝わっていくことですね。先ほどの「奇跡」です。

というわけで、その連続殺人犯を、一緒に「今、ここ」のくつろぎへと招待したディビッドは、危険な目には合わずにすんだわけです。

もちろん、積もりに積もった心の闇、おそれや後悔は、簡単にすべてなくなることはありません。それを表に出そうとしても、ほとんど抑圧されていて、それを抱える当人も気づけなかったりします。

その都度その都度、心に浮上したものを、一つ一つ、「今、ここ」で、スピリットと一緒に見つめて、消していく地道な作業が必要になります。

コースではこれをゆるしと呼んでいます。

ゆるしは一人で、心の中で、いつでもどこでも行えるほか、人と一緒にやることもできます。

人前で、自分の心を「今、ここ」の明るさから遮断して、暗く閉ざされたものにしているストレス、心配、後悔・・・何でも、どんどん表現していく。コース実践者が「シェア会」と呼んでいるのが、これにあたります。

その際、私が一番重要だと思うのは、聞き手の態度。「今、ここ」で、スピリットとともに聞くこと。つまり良いとか悪いとか、学習が進んでるとか遅れてるといったジャッジメントを一切さしはさまず、平等に、ありのままにうけとめながら、ただ、聞くこと。

聞き手が少しでもジャッジメントをはじめると、話す人にそれは伝わり、「こんなこと話すんじゃなかった」とか、「名誉挽回、どうしたらできるだろう?」 などなど、エゴの仮定法的な思考は増すばかり。ましてや勇気を持って語った悩みの解消からは程遠い状態です。

でも、ジャッジメントする人が一人もいなくて、みんな、スピリットとともに、その人が、今、どんな状態にあれ、その下には、無垢さが横たわってることを信じて、聞いているとします。

すると話す当人も、素直に、自分の心の闇を、まっすぐ見つめて、そのまま表現。仮定法の思考が何一つそこに介在できないように、どんな恥ずかしいことも、あっけらかん。淡々と、素直に表現することができたとする。すると、表現された瞬間、それは光の中に消えて、あとは影も形もなくなってしまうのだそうです。

その例として、ディビッドとフランシスが中国でワークショップをしたときに、儒教的な文化、教育のせいか、性に対して極端な罪悪感を持っている男性がいたのだそうです。ジャッジメントなしに何でも平等に、完全受容する雰囲気の中、彼は、自分の身体がどんなにけがらわしく感じられるか、公共の場所などでどんなに恥ずかしい思いをしてきたのか、微に入り細に入り告白しはじめたそうですが、そのあと、「ああすっきりした、こんな爽快感、初めてだ!」と大喜び。「何て重荷をこれまで抱えこんできたんだろう。これが、僕を窒息させて、殺そうとしてたんだ」と感じ入っていたそうですが、その数ヶ月後には、はじめての彼女ができたという報告が来たのだそう。

どんな間違いも、誰もそれを責めたりする人がいないところで、ありのままに、認められると、間違いであることをやめるんですね。コースの言葉を使うと、単なるエラーを、責めることで「罪」にしないってことですね。「罪」になると、心に張り付いて、その人のセルフイメージを暗く固定させていきますよね。

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