奇跡のコース

ガイダンスが聞こえない時に思い出すといいこと

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スピリットからのガイダンスが感じられないとき、私の場合必ず気づくのは、ガイダンスを受け取るのは「自分」だって思ってること。「私」がガイダンスを受け取るって考える限り、ガイダンスは感じられない、というのは一貫してるみたいです。

そんなとき、突破口になるのは、とにかく「私」の概念を手放していくこと。インスピレーションが流れる「管」にすぎないって考えるのも助けになるけれど、管ですらない。ただ、川の流れがある・・・って思うのもいいみたいです。その川は、私を貫いて流れてはいる。けれど、流れそのものは、エゴとしての私とは全く無関係に、ただ滔々と流れていく、そんな風に考えるわけです。

この川がどこへ向かい、何をしようとしているのか、私には全く、全く、わからない。参照できる過去の記憶もなければ、予測も立てられない(どちらもエゴの営みだものね)。

というわけで、私はただ、この川のほとりにちょこっとたたずみながら、自分ができる唯一の役目は、流れの邪魔をしないこと。流れをせきとめないことだけ。

そんなふうに、「自分」を退かせ、小さな小さな子供のように、「私、なあんにも、わからないの」って開き直る。と、川の水かさは増し、流れの勢いも増してくる。そこで流れるのは、スピリットの、よろこび。「なあに、これ!何が何だか、私、まったくわからないわ」と、ますます小さくなって後ずさりするにつれ、流れは力強くなり、新鮮なおどろきと無邪気な笑いが、水音がと一緒に、ありありと感じられてくる。

エゴが完全に退かないと、スピリットが活躍する余地がないってことは、頭では理解していたけれど。実際に体験するためには、これぐらい極端に振舞う必要がある。エゴって、本当に、骨の髄まで私の中に染みこんでるもの。

こんな私が、スピリットに導いてもらう方法はただ一つ。ガイダンスを受けるのは、「私」じゃない。ガイダンスに従うことで、出会う人、引き起こされる出来事、奇跡のように見えるあらゆる事柄も、「私」とは無関係に、川のように流れていくって思うこと。

もちろんこの流れの中で、「私」は実際、駆け回ったり、人と会って話したり、何か催しをしたり、助けたり、助けられたりしてる。けれどそこで「私」はスピリットに運ばれ、使われているだけ。「私」がやってるんじゃない。

本当に不思議な感覚。コースのテキスト、14章4節の6段落目にあるように

神と一緒に決断を下す方法を学んだとき、すべての決断は、呼吸と同じやさしく、間違えようのないものになります。何の努力もいらず、まるで夏の日に、静かな道を運ばれていくように、やさしく導かれるでしょう。あなたの石だけが決断を困難にしているのです。

ちょうどそんなふうに、ただ流されていく、運ばれていく感じ。何を起こそうともしていないし、防ごうとしていない。何でも現れるに任せている。だから、「努力」しようがない。結果がどうなろうと、それはすべて良きことのためだと無邪気に信じながら。

だから、ガイダンスが感じられないときには、とにかくあらゆる手段、イメージを駆使して、次のようなことを考えるといいんじゃないかと思います。

1、ガイダンスを受けるのは「私」ではないこと。
2、何にも知らない子供のように、過去の連想や未来の期待を手放しながら、
出来事の流れが、「私」とは全く無関係に、でも「私」を通して流れていくのをゆるすこと。
3、その流れの中で、何が起こっても、自分のあずかりしれない「全体」の善のために、役立ってるって信頼すること。

もちろんその大前提として、スピリットに、「全体の善のために、自分を使ってください」という祈りの気分の中で日々生きる必要もあると思います。

スピリットはエゴとしての「私」のために役立つガイダンスをくれることはありませんから! でも、スピリットに「私」を使ってもらうほど、幸せを感じることはないんじゃないかと思います。

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