奇跡のコース

スピリットのガイダンスが目指すこと・実際に従って起こること

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真理の教え、つまりホーリースピリットのガイダンスに従った生活について書かれた章。ただ、そのガイダンスに従った結果起こることは、私たちのエゴが期待することとはかなり違ってる。

たとえば、やっていることがうまくいく、成功する、大きな成果をあげれる・・・というのとは違う。たまたまそうしたことが起こることはあるかもしれないけれど、それが目標なんじゃない。

たぶん、それを目標にしていても、ガイダンスは聞き取れないんじゃないかな? 成功をめざしているときって、「うまくいかなかったらどうしよう?」といったおそれが、心にべったりと貼り付いているから。

ホーリースピリットのガイダンスは、そういう外的な形の世界での変化を目指しているんじゃなくて、私たちの心の状態の変化や気づきを目指すものです。

たとえば、14章の序論にあるように、私たちがどんなに祝福されているかを、気づかせてくれるものなんですね。

そして、自分がホーリースピリットから真理を受け取ってる確証は、エゴがやるようなジャッジメント、正しいかどうか批判的に吟味し、証明しようとすることから得られるんじゃない。

自分に与えられたことを、周りに与える・・・その連鎖の中で、周りに同質の変化が起こり始めること、つまり奇跡を見届けることによってなんですね。

たとえば、本当に幸福な人は、周りの人にも幸福を伝染させますが、そんなふうに、受け取ったものを与えるこの営みは、無意識のうちに、自動的になされるときもあります。

あるいはインスピレーション、ガイダンスに従って行動するときのように、行動自体は自覚的になされるけれど、そこで思わぬシンクロニシティを引き起こしてた・・・なんてこともありますね。

といっても、繰り返しになりますが、その結果、外的な、形のレベルで何が得られるかではなく、その時得られる心の変化に注目するのが鍵です。そうすれば、ホーリースピリットに与えられたものをそのまま人に与えれば与えるほど与えられ、どんどん幸福感が増大していく様子が肌で感じられます。

実際、ホーリースピリットからくるうながしを実行したり、そこから流れこんでくるインスピレーションや気持ちを、どんどん周りの人たちとシェアして広げていくのは、とても気持ちがいい。

何一つ自分の下に取っておかず、自分は単なる「管」みたいになって、どんどん全方向に向かって流し続け、シェアし続ける。それにつれて、ホーリースピリットからの贈り物はますます勢いよく流れこんできます。

贈り物を流し続けることで、それまで石ころやゴミがいっぱい詰まってなかなか流れなかったスピリットとのチャンネルが開いて、どんどん流れが太くなっていき、最後には、川はもう洪水状態。流れの源泉、ソースと一つの海になって合体する。

そのプロセスが、ガイダンスに従った生活を続けるにつれ感じられる気持ち良さ、あたたかさ、守られている安心感といった心の状態の変化として感じられるのですね。

たとえば今、私がこの文章を書いているのも、この気持ち良さを味わうのが、一番のモチベーション。誰かを助けたいとか、思想を広めたいとか、そんな傲慢なこと、何にも考えていません。

つまり、ガイダンスに従った生活で一番大切なのは、ガイダンスに従うことで、外的な形のレベルでの生活で何が起こるか(たとえば、成功するか、人に認められるとか、世の中を変えられるとか)ではない。何が起ころうと、私たちの心の中で、安心感、心の平安が育っていくことなんですね。

 

ガイダンスに従ったときに起こること

ガイダンスの流れに乗り始めて、まず導かれるのは、まず、1.「私」の空洞を広げること。その人のエゴが、そこを中心に組織化されているおそれを手放すこと。

と同時に、2. 周りの人たちの中にあるエゴの「空洞」との間に通路を引く作業もはじまります。これまで身につけた知識や技能をそのまま使いながら、スピリットのコミュニケーションの媒体として使ってもらう生活です。

まず1についてですが、このプロセスは、その人のエゴの支柱を取り払うこと。だからもちろん、エゴとしての私を喜ばせるというより、挑戦を迫ることの方が多いようです。

ガイダンスに従った生活を強調しているディヴィッド・ホーフマイスターのピースハウスのメンバーの体験談を見てみましょう。

たとえばコミュニティの創建者、ディヴィッド自身は、安全志向で、家から出るのが嫌い。旅にも全然興味がなかったのだけれど、コース関係の人たちとのネットワークを広げたり、講演旅行のために、世界中を飛び回ることに。最初の数年間はとくに、旅の仕方も行き当たりばったり。その夜、どこに宿泊するかも決めず、出会いと人の情けだけを頼りに旅をつづけるよう促されたとか。そのすべてが「信頼」を学ぶいいレッスンになったそうです。シャイで人と話すことが苦手なジェイソンには、人生相談に人がどんどんつめかけるようになり、静かで黙っているわけにはいかなくなってしまったとか。また真面目で几帳面なフランシスは、全く正反対のルーズな性格のルースと言う名前の女性と一緒に仕事をすることになったり。最近は、アートプロジェクトの指揮をとるように促されているのだそう。

どうしてそんなことが起こるか? ホーリースピリットの側からすると、まずは、私たちにアクセスするチャンネルを太くしたい。そのためには、そこに詰まってる石ころを取り除きたいわけですね。その石ころにあたるのが、その人のエゴが抱えこんでるおそれ。人によって、とくに対人恐怖がひどかったり、将来が不確定なことがとくに不安だったりするわけですが、それを取り除けば、スピリットのアクセスもずっと楽になる。

そんなふうに言うと、ガイダンスに従い始めると何が起こるか、不安になりますが、でも大丈夫。スピリットからのサポートが必ず、手厚く入るから。それだけこちらの方でも、助けを求めて、ガイダンスを頻繁に仰ぐ必要も出てきますが、そのこと自体、チャンネルを太くするいい訓練になります。

スピリットのサポート、愛をたっぷり感じながら、幸せに苦手を克服したあかつきには、エゴのお荷物をたくさん下ろして身軽に、敏捷に、軽やかになり、スピリットとの一体感が前よりずっと増した、幸福な日々が待っています。

苦手なことに対するエゴのソリューションに従うと、たとえば、人前で話すのが苦手だったら、話し方教室、頭が硬くてアート的な感性がなければ、絵画教室に通うとかしますよね。それで自信がつくことも多いと思いますが、幸福感のこのおまけは、なかなかついてきません。だからと言って、教室に通うなって言ってるわけではありません。ガイダンスの中で、そのように促されることもあると思います。そこの出会いからまた何か始まるかもしれないし。

私自身は、フランシスと似ていて、頭でっかち。だから今、絵やメルヘン調の物語を書いたり、ピアノを再開するように、ガイドされています。エゴとしての私なら夢にも思いつかなかったことですが。素直で素朴な表現へのおそれを手放すことが、エゴの解体プロセスの中で、今私が取り組まなきゃいけない当面の課題のようです。「そんなことして何になるの?」と今も時々、ぶつくさ言ってますが・・・でも、スピリットと同調すると、すごいサポートが入っていることが感じられて、胸がポカポカ、暖かくなる。そんな状態が続いています。表現へのおそれと、そこから解放されて表現の喜びに浸ることの間で、振り子のように動いている状況です。

そんなふうにして、その人のエゴが、そこを中心に組織化されているおそれがだんだんやわらいでくると、今度は、周りの人たちの中にあるエゴの「空洞」との間に通路を引く作業もはじまります。自分の身体やこれまで身につけた知識や技能、リソースの全てを、スピリットのコミュニケーションの媒体として使ってもらう生活がはじまる。

1. その人のエゴの支柱をなすおそれを手放して、空洞を広げることと、2. スピリットのコミュニケーションの媒体になることが、ガイダンスに従う生活の概要のようです。

そんなふうに順序立てて説明することもできますが、この二つは、実際には同時に進むことが多いようです。たとえば今私はこの文章を書きながら、他の人の「空洞」との通路を探りながら、同時に「私」の中の「空洞」を広げていきます。

たとえば、文章を書くのは、「愛」が私を使うときのよくある手段。私はこれまで、エゴのために、エゴとともにたくさん文章を書いてきた。そのときに培ったノウハウがそのまま使われるわけです。

だけど、でも、ガイダンスとともに書くときは、エゴで書くときと、全然違います。

もしエゴで書いていたら、1日何ページってノルマを決めて、書けない時も無理やり書こうとする。自分の中に、この水準は満たしたいという基準があって、それに合うように言葉を一つずつ吟味して、好みの文体、「私」らしい文体になるように、いろんなこだわりを持って、書くのが普通です。

ガイダンスの中で書きはじめてから、書けない日があっても、全然気にならなくなってきた。書けるときは、一気に書けるから。自分のこだわりについて考えている暇はない感じ。逆にそれから解放されて、勢いにまかせて書いていく爽快感を楽しんでいます。書く前に、今、ここで流れ出てる言葉を、ジャッジしたり、ネガティブにジャッジされることに対して防衛したりすることがなくなったのは、「愛」と、スピリットとともにいる安心感の方が優位になってきたからでしょう。

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