アートとしての人生

「わからない」って甘美!

  • LINEで送る

最近私がすっかりはまってしまったあそびがある。

なんであれ、ものを見たとき、

「私はそれが何か、わからない」と、心の中でつぶやくこと。

例えば、今、窓の外を見ると、いつもの光景。冬枯れの木立が見える。ただ今日は、「これが何なのか、わからない。まったくわからない・・・」とつぶやきながら、眺めてみる。

そうつぶやくたびに、「これは冬枯れの木にすぎない」という私がそこに押し付けた決めつけの手をゆるめて、後ろに退いて、心をからっぽにする。

すると、私が退いた分だけ、木が大きく膨らんで、堂々と迫ってくるように見える。そこから、私の中へ、何か暖かいものが流れこんでくる。そこに私もいて、これまで愛した全ての人や動物やもののたましいが溶けこんでいて、とにかくそこに、「すべて」があるのが感じられてくる。

雪の中で寒がってる枯れ木の姿は、見かけだけ。内側からみると、そこに宇宙が感じられる。

今、目の前にあるお布団もそう。「私はこれが何なのか、全くわからない」と思いながら眺めると、どこまでもやさしく、やわらかく、むっちり、膨らんで見えてきて、私はいつのまにか、それにすっぽり包まれてるよう。これまで感じた、「愛されてる記憶」、遠い昔、赤ちゃんだった時にやわらかい毛布に包んでもらった記憶から始まって、すべてが、そこにあるって感じられる。

「私にはわからない」という魔法の言葉は、発せられるや否や、何でも知ってるつもりになってるエゴを、退散させる。そして、ものをぐっと握りしめて離さないその手を、ゆるめ、ほどけるように助けてくれる。

最初は不安だったり、こわくなったりもしたけれど、大丈夫。

私の中の、私も知らない未知の部分、たましいは、そのすべてを「知ってる」のだから。すべてを、一番よく、深く知ってるたましいに主導権をにぎってもらうために、とことん、エゴとしての私を「わからなさ」への中へ追い込んでるだけ。

エゴの呪縛の手がだんだんゆるむにつれ、もののたましいが、わたしのたましいと一緒に、自由に解き放たれる。そして、そこに本当にあるものを見せてくれる。それだけのこと。なのに、こんなに甘美なんて! 

思えば私、これまでの人生のほとんどを、これとは真逆の「私は知ってる!」喜びに取り憑かれて生きてきたもんだ。その中で教壇に立ったり、本を書いたりもした。でも、それは、得意になって、人に教え諭す、優越感のよろこびにすぎず、一瞬高揚感は与えてくれても、他の人を踏み台にしてるような、うしろめたい、罪悪感が残って、後味がいつも悪かったね。

今も油断するとそちらに傾きそうになるけれど、

「私は知らない」甘美さの側にいる方が、ずっと幸せで、安らかだってことに気づいたよ。

しかも、飽きない! 見慣れた現実が、汲めども尽きぬ不思議さと、驚きの源泉になるのだからね。

親密感もある。そこに全てがあり、その全てが遠い記憶の中で私と不可分に結びついてる。それが私自身だって言ってもいいほどに。その懐かしさときたら、たまらない。

だから今は、ただただ「私にはすべてが全くわからない」ことに、大喜びするばかり。

***

コースの難しさを一言で言うと、「自分で自分を救うことはできない」ってことなのかもしれない。

「そんなの当たり前でしょ」って気がするけれど、私たち、気づかぬうちに、しあわせになるための自分のプランを立ててしまってる。たとえば、こういうメニューをこなして、こういう人に師事して・・・などなど。その中にコースが入ってることもあったり。

でも、そんな風にプランを立てて、「自分を救おう」と頑張ってる「自分」そのもの、つまりエゴこそが、実は「救われる」必要がある。

自分で自分の髪の毛を引っ張っても、自分を持ち上げられないのに似たパラドックスですね。何にもわかっていない自分が、頑張ろうとすればするほど、救いは遠のいていく。

だから、ゆるしという逆の道をたどるしかないのですね。自分をどんどん後退させて、解体して、こころをオープンに、空っぽにしていく。そうやってスピリットが入って、自由に活動できるスペースをつくっていく。

本当の意味でしあわせになるため、つまり自分の救いのために、自分ができることは、何にもない・・・このことを認めるのは、エゴにとっては、大変な侮辱なこと。

いうわけで、悶々としたりもするのだけど、一旦降参してしまえば、甘美さが心に広がっていく。スピリットの甘美さだ。

でもそれは、本当に信頼して、すべておまかせして、自分にできることは何にもない。何か頑張る必要すらない、自分は何も知らないのだからって認めてはじめて味あわれるものだ。

  • LINEで送る