奇跡のコース

すべてに責任を背負いながら、罪悪感を持たずにいるには?

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すべてのものがつながっている世界の中で、私たちに起こるすべてのことは、私たちに責任がある。周りの人たちがイラついて見えるのも、社会に不正が蔓延しているのも、自分の心の状態がそう見せたり、解釈させたり、あるいはそうした現実を増幅させたり引き寄せたりしているから。全く違う心の状態がこちらにあれば、ぜんぜん違う現実が見えるはずだという。そんなふうに出来事の責任を100パーセント自分に負わせるところで、『奇跡のコース』は徹底している。確かに、そんなふうに考えると、自分の外にある(と思われる)人や出来事を責めたり、正したりする必要が全くなくなってしまう。物質的にはもちろん、心理的にも攻撃は放棄の非暴力な態度がとれるようになるところなどは、気に入っている。

でも、そんなふうに、すべての責任を自分にしょい込みながら、同時に、罪悪感をみじんも持ってはいけないともいう。というのも、罪悪感を持つ限り、このひどい現実に負い目や負債、借りがあるって感じてることになり、そう思うことで、この世界を過大評価しその存続に与していることになるから。また、私たちの「本当の自分」はどこまでも罪なく純粋なもの。罪悪感を感じている限り、そこにアクセスする道も閉ざされてしまう。

私の場合、「すべての責任を背負いこむ」ところは、何とかできても、「罪悪感をも人も持たない」というところが結構難しい。普通に考えると、この両者は矛盾していて、両立不可能のはず。

この裂け目を橋渡ししてくれるのが、あらゆる災いを自分のせいで引き起こしてしまうこのどうしようもない私を、おまかせするという他力のモメントだ。「どうぞ助けてください」と、自分より大きな存在の前に身を投げる。どんな秘密も所有物もなくなるように、すべて透明にして、さらし、あけわたす。これは、エゴとしての私を徹底放棄するためにも、役に立つ。それが本当にできたとき、内側からよろこびが湧いてきて、実際、罪悪感が消えてしまう。

ワンネス、調和、愛以外のものが知覚されたら、その刹那、毎瞬ごとにこれを行うことで、「すべては私のせいだ」と何でも引き受けながら、私自身を何の負い目もない、晴れやかな状態に保つことができるようになる。

論理的には破綻しているけれど、実際、役に立つし、慣れるとそれこそ息するようなこと、生きることそのものだって思えてくるから不思議だ。そうして「あなたは救済者になるのです」と『奇跡のコース』で言っているけれど、私にはまだ罪悪感がのこっているのか、救済者という言葉は面映い。むしろ「浄化装置」みたいなものかしら?

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