奇跡のコース

人をよろこばせたい気持ちも、ゆるすべきツボ

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ゆるしはエゴを解体するためにするもの。「解体」にあたる言葉として、コースの英語の原書では、undo という語が頻繁に出てくる。イメージとしては、間違ったところにネジを思いっきり深くねじこんでしまった。これを外すために、これまでとは反対まわりにネジをまわさなさなきゃいけないって感じだ。

その時のネジの回し方をどうするかだけど、もちろん、その時々に起こるさまざまな出来事がゆるしの材料になる。

でも今日はいたって平穏な日。家族や友達との衝突も、悩みもストレスもない。でも、なんとなく気分がすぐれない。心をみつめて、最高にハッピーと思えなかったら、ゆるすべき、何かがあるというし・・・今の私に、ゆるすべき、何があるんだろう?と不思議に思うこともある。

そんな時こそ、心を深く見つめると、とても効果的なゆるしネタがみつかる。

そのとき並行して意識するといいと思うのは、人によって、エゴのどんな側面に一番エネルギーを注いで、エゴを構築してきたか、違うこと。

たとえば、負けん気が強くて、競争にしのぎを削ってきた人は、プライドがそう。プライドにゆるしの焦点をあわせると、一挙に楽になる可能性がある。

大学教員歴20年以上の私は、「私は知ってる」病。ワークブックレッスンの最初のあたり、「私は何も知らない」って自分に言い聞かせることで、ずいぶん心安らかになってきて、この安らぎの中にこそ、本当に「知ってる」といえることが隠れてることも見えてきたところ。

それが、ゆるしのツボ。その人のエゴの柱になってるようなもので、そこに焦点をあわせて、「反対まわり」にネジを回す。つまりゆるしを実践すると、効果的に、エゴを解体できる。心の平安へと、速やかに移行できるんじゃないかと思う。

ただ、ゆるしのツボの中には、社会通念として奨励されているものも多いので、めんどうくさい。プライドが高すぎたり、アグレッシブなのは、良くないってみんな思う。

でも、たとえば、人をよろこばせることにエネルギーを使ってきた人、気を使いすぎる人、俗にいう「いい人」はどうだろう? 完璧な会社員、完璧な母、完璧な妻を演じてる。あるいは、周りの人に気配りが行き届いていて、いつも楽しませてくれる。

これは一見いいことに見える。でも、そうするたびに、自分の軸がずれてるとしたら? 生き苦しさを味わってるとすれば?

たとえば、何かとてもいいアイデアがひらめいた、これをシェアすると助かる人がいるかもしれない。でも、一緒に暮らしてる人が私を呼んでる。彼の機嫌を損ねたくない・・とあきらめて、食事を作ったり細々とした世話をするうちに、それがどんなアイデアだったか忘れてしまったわ! などなど。

「人をよろこばせたい」という気持ちが、せっかくのスピリットとの同調や、インスピレーションの流入をブロックしてる。だから、何となく気分が落ちこんでくるし、長ずるにつれ、やるべきもっと大切なことがある」のに、「家族の犠牲になってる」という気持ちがむらむらと湧いてくる。怒りが潜伏することすらあるかも。

女性に多いと思うけれど、この「人をよろこばせてあげたい」病。微妙な、でもとても効果的なゆるしのツボだと思う。

「人をよろこばせたい」病にやられてる時、心を深く見つめてまず気づくのは、無価値観。ありのままの自分では、愛される価値がないので、いつもいつも、自分が役に立つ、興味深い、楽しい人間なんだってことを証明しなきゃいけない。無理をしても「いい人」「完璧な妻」とか「完璧な母」でなきゃいけないという思いこみだ。

それをもう少し深くつきつめると、宇宙から、神から見放されてるという分離の深い傷が顔をのぞかせる。ぞっとするような光景が見えるかもしれない。一人では、とても太刀打ちできない。でも、大丈夫、ピリットと一緒に見つめれば、だんだん光景が変わっていき、すべて幻想だったってわかるから。そうやってゆるしのプロセスがはじまる。

でもゆるすことで、「よろこばせたい」という気持ちが消えると、家族や身近な人たちとの関係が壊れそうと心配になる人もいるかもしれない。

でも私の経験からすると、ゆるしのあとに続くのは、自分も相手もよろこぶ、ウィンウィンの状態だ。たとえば、相手が自分を呼んでいるのだけど、とりあえず、自分がやりたいことをやる。

相手は、それで一時的に不機嫌になる。けれど、長期的には、自分がその際に感じたよろこびを上機嫌や冗談に自然にあらわれるので、それが相手にも感染して、ハッピーになるといった具合。

本当は、それ以外に、まわりをハッピーにする方法はないんじゃないかとすら思う。自分はちっともハッピーではないのに、無理をして笑顔をつくり、自分のやりたいことを犠牲にしてまで、人をハッピーにするために駆け回っても、そこでたまった無理、自己犠牲感、怒りを相手は感知してしまう。子供など特に敏感にキャッチするんじゃないかな。

という理由から、私はここ数年間、一枚も年賀状を書いたことはない。だってちっとも楽しくないし、自分にとって不自然で、「人をよろこばせたい」以外の動機、感じられないものね。

といっても、自分がやりたいことをやるのも、限度がある。それにやりたいことが、すべてスピリットと同調することだとも限らない。

というわけで、もう一つ私が最近考えるようにしてるのは、自分が本当に目指してるスピリチュアルな達成は、お掃除をしていても、料理をしていても、どんなシチュエーションでも訓練できることを思い出す。

その点、大学やめてよかったって思う。だって、大学の仕事、授業の準備や論文執筆は掃除洗濯と同時にできないけれど、ゆるしだったら何をやりながらでも、できるものね。

ただ、掃除や洗濯も、いったん始めたら、この世にそれ以上に重要な仕事は自分にはないって気持ちで、集中して、丁寧にやる。「どこか他に、自分がやるべき重要な仕事があるのに」という気持ちが生まれて葛藤がはじまらないようにして。そうしてはじめて、その仕事の奥から、本当の世界が透けて見えて、仕事そのものから、現実感が失われ、過疎的で軽やか。楽なものになる。

ありのままの自分は無価値だって気持ちをごまかすようにしてやるエゴの仕事か、スピリットのよろこびの自然なあらわれとしての仕事か。今自分がやってるのはどっちかな? と迷ったら、どんな気持ちでやってるかをチェックする。

まず気づくのは、「今、ここ」以外のことが意識から抜けていくこと。「他にやるべき、もっと重要なことがあるのに・・・」とか、「早く終わらないかな」とか、「後で美味しいもの食べに行こう」なんて気持ちがなくなっていく。心がここにあらずといった状態、分裂がない状態。

と同時に、こうでなきゃいけないといったこだわりや頑張る気持ちも消えていく。

スピリットとつながるにつれて、頑張りがやさしさになり、最終的には、無心になる、とガンディーの弟子のビノーバ・バーべは言ってる。

例えば、どこかで大きな騒動があって、人々がそれを止めたいと考えます。まず警官がきて、大声を張り上げて、みんなを鎮めます。彼は大声を出すと言う、激しい行動を取る必要があると思ったのですね。今度は別の人が来て、みんなの前で、ただ優しく微笑み、黙って指で合図する。するとそれだけで、みんなおとなしくなる。三番目の人は、そこに現れただけで、あたりが静まり返る。警官の行動は頑張って自分の思いを声高に表出すること、二番目の人は、優しさを身振りであらわすこと。三番の人は、さらに微細な影響力を使ってます。騒ぎを止めたという点では、3人とも同じですが、そのためにやらなきゃいけなかったことは、一番目の人から三番目の人へと、だんだん少なくなっていきます。心の内側が清らかに住んでいくに従って、行動はどんどん少なく、楽になっていきます。頑張りから優しさへ、優しさからさらに微細な動きへ、そして無へ。心が完全に清らかになると、やることはゼロに、成し遂げたことは無限大へと向かいます。

ヨギの修業者が、無我の境地へ入り、もはや身体への執着は失われたとき、体を動かす意味でやらなければならないことはなくなります。それは「する」を超えた「いる」の境地です。「何もせずにすべてをなす」「全てをなしつつ、何もしない」何とも喜ばしい境地ではありませんか。

『怖れるなかれ フィアノット 愛と共感の大地』ビノーバ・バーべ、サティシュ・クマール。

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