アートとしての人生

本当の愛?

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本当の愛はかたちじゃない。だから特別な人や特別のもの、特定の手続きや仕事に向かうことはない。

そう言うと、抽象的に聞こえる。

わかった、無条件の愛なのね。と、悲壮な努力であらゆる人を愛そうとする人もいるかもしれない

でも、ここで言いたいのは、もっともっと自然で簡単で、シンプルなこと。

たとえば、うっとり恍惚になるような、とてもいい音楽が流れてるとする。その同じ音楽に合わせて夢中になって踊ってると、誰かもう一人やってきて、同じ音楽に合わせて踊り始める。

この二人は、互いのかたちで結びついているわけではないので、相性がいい必要もないし、星占いのホロスコープがいい角度を示してる必要もない。まったく違う国や宗教を信じてる人でもよければ、宿敵同士でも、偶然その場であった二人でもいい。

ただ、一つの音楽に合わせて一緒に踊ってるだけ。それだけで、あらゆるかたちの違いを乗り越え、一体感を味わってる。

ついでに言えば、この音楽は、ちょっと変わった音楽で、はじめは、ほとんど、かすかに、ときどきしか聞こえてこない。でも、いったん、それうまく乗って踊りはじめれば、だんだんはっきり聞こえてくる。全身音とかして無心に踊り続けてると、本人だけでなく、それを見た人にもよく聞こえてくる。

というわけで、この踊る二人。互いが踊ってる姿を見ながら、「あっ、こんな表現の仕方もあるわけね」と驚きながら、自分の方でも、その動きを受けた仕草を自分の踊りにも取り入れる。すると、ますます音楽がよく聞こえるようになり、相手との一体感も強まって、大喜び。もう一人も、喜ぶ相手の姿を見ながら、大喜び。お互い、ますます、この音楽をうまく踊ってやろうと、音の海へと、ますます深く身をひたし、ダンスでさぐる探求に熱が入る。

そうこうするうちに、二人には音楽はますますパワフルに聞こえるようになり、そこに通りがかった3人目の人にも、何か伝わった様子。彼もいつの間にか、ステップを踏んでる。これまた全く新しい踊り方!でも、同じ一つの音楽に乗って踊ってるのは明らか。彼のおかげでまたこの音楽が深く、強く聞こえるようになったことに、二人とも大喜び!

そんなふうに、一人、また一人と一緒に踊ってる人が増え、それにつれて、クリエィティブな驚き、笑い、よろこび、一体感も増幅されていく。

これこそ本当の愛だと思うんだ。宇宙を貫くたった一つの、同じたましい、スピリットを、一人一人それぞれのかたちで表現しながら、コラボレーション。同じ一つのものを共同で探求してるわけだけど、探求はそのまま表現であり、分かち合うことであり、一体感を味わうことでもある。この陶酔の中で、あらゆる違いを超えて直接結びつくことが、かたちを超えた愛だ!

スピリチュアルな仕事をする人はこの踊りの名手みたいなものだって言えるかも。

名手というと、でも語弊がある。本人の手柄みたいに聞こえるから。

そこで、愛はかたちではないことに戻って、あくまで主体は音楽だって思い起こす必要がある。その人の役割は、宇宙を貫くこのスピリットの音楽を、目に見え、耳に聞こえる一時的な「かたち」に落としこむことにすぎない。

つまり、ラジオチューナーのつまみをひねるだけ(「贖罪」、アトーンメントの語源は実際、チューニングだ)。そうやって、自分の役割を小さく小さくすればするほど、その人を通して流れこんでくる宇宙の音楽は純度の高い、澄んだ、パワフルなものになる。

チューニングの媒体、「つまみ」は、さっきのたとえ話のように踊りのこともあるだろうし、歌や絵画や言葉やマッサージや、人それぞれ、さまざまなチャンネルが考えられる。でもどれも、同じ一つのスピリットをめぐってなされてる。

前回のエッセイ「スピリチュアルな仕事?」で、スピリチュアルな「仕事」とか、スピリチュアルな「人物」を疑問視した。けれど、それは、宇宙を貫くスピリットの音楽へのチューニングの感度を高めて、みんなが本物の愛でつながる手伝いをする努力を否定する気なんて全然ない!

単に、踊る人は、音楽ではない。ラジオのチューナーのつまみは電波や電波に乗って流れてくる音楽ではない。つまり愛はかたちではないってことだけど。そう言いたかっただけなんだ。

それをとりちがえると、たちまち、偶像崇拝が始まってしまう。

それをやらない。つまみをねじるだけの仕事に徹しようというのが、前回の文章「スピリチュアルな仕事?」で言いたかったことだった。

そうすることで、誰もが自分でつまみをねじることができるようになるし、踊りの輪の中に入ることができる。

チューナーのつまみを、音楽そのものと取りちがえるなんて、そんなバカなことはやらないよって思われるかもしれない。けれど実はよくあること。エゴは躍起になってそればかりやろうとする。

たとえば、大物ミュージシャンがいるとする。彼はスピリットに周波数を合わせて、それを音楽で表現するのが得意。偶像、つまりアイドルになってしまう。アイドルを追っかけてるファンは、つまみを音楽と取り違えてる。

そんなわけで、ミュージシャンがチューナーのつまみをねじって、その音楽を通して降ろしてくれた、スピリットの流れは見えなくなってしまう。

もしこの流れが見えれば、自分もこのつまみをねじって、スピリットと直接触れ合えるようになる。そのミュージシャンや、みんなと一緒に、このたった一つの音楽に合わせて踊りながら、コラボレーションの輪に入れる。

そうするとそれだけで、ハッピー。別にアイドルの追っかけをするモチベーションもなくなるんじゃないかな?

アイドルにされた瞬間、ミュージシャン自身も、依存とさまざまな投影の的になり、愛憎投げかけるファンや批判者にもみくちゃにされてしまう。

というわけで、スピリットの仕事は純度が命。大物ミュージシャンとは、また全然別の次元の話だけど、私自身、スピリットの流れに乗ることを意識しながら仕事をはじめて気づいたのは、自分自身を空っぽにすればするほど、気持ちよくできること。

自分でそこに持ち込むものを減らし、結果をコントロールしたい気持ちも抑えて、単なる小さな小さな「つまみ」の役割に徹するほど、喜びは増し、迷いや不安は消えていく。

たとえば昔なら、ブログや活字で文章を公開した後は、人にどう思われるかが気になって、そわそわ、落ち着かなかった。けれど、今は、公開した後、すぐに忘れてしまうほど。

スピリチュアルな教師の世界でも、純度が低い・・・というか、エゴが混じったレベルで仕事をしている人たちの間には派閥争い、政治があり、誰が正しい、間違っているといった正当性をめぐる議論があり、序列がある。

けれど、本当にスピリットのチューナーの「つまみ」の役割に徹してる人たちは、コラボレーションが大好き。全然違う宗派、言葉じりだけ見ると一見対立した間柄同士でも、一目見るなり、大親友のようになり、一緒にジョイント・セッション。同じ一つのスピリットをこんなに多様なアプローチで表現できることに、大喜びだ。

私が今関わってる『奇跡のコース』の教師も、派閥争いしてる教師たちもいれば、コラボ大好きな教師たちもいる様子。たとえばディビッド・ホーフマイスターは、ハワイでゲーリー・レナードとコラボ・セッションをしたところ。ディビッドが特に面白がっていたのは、オーストラリアでアボリジニのスピリチュアルな伝統を受け継ぐ、笑う聖者と呼ばれる女性と一緒にやったジョイント・セッション。しかもイースターの日に、仏教センターで!アボリジニの女性と!スピリチュアルな多様性のコラボレーションの縮図みたいな話だ。

そんな多様なアプローチが同じ一つのスピリットのまわりに集まるとき、ステレオ音響効果のようなものが生じて、スピリットの世界がぐっと立体的に迫ってくる。


これに対して、エゴが混ざりこむと、「自分たちはそんな、そんじょそこらのものとは違うの! 一緒にしないでよ!」ってことになる。とにかく血眼で、自分たちこそ、自分こそ「特別」なんだって思える「違い」を探す。

それは、全然、別の文化に属する人には、全くどうでもいいように見える、ちっぽけな「違い」なんだけど、当事者たちはそれに多大な意味を与えて、「自分たちこそ偉い」と証明するための旗印にする。すると、その旗印を利用して、「自分も偉い」と証明したい人たちが、わっと群がってくる。そこに所属してること、それを所有してること、そんなつながりを持ってることが、その人のプライド。

ただ「違い」は「違い」にすぎない。実質的な中身が伴うようなものではないので、たまたまこの「違い」が「偉い」という正当性に自信をもてるような内的な体験を伴わない。で、いつまでも、その中でどれが一番偉いか、正当か・・・についての際限のない争いを繰り返すことになってしまう。武力を使わなくても、心理的にも、ね。

それに肥やしを与えるような愛を、『奇跡のコース』は「特別の関係」と呼んでいて、これが招く厄災について、何百ページも説明してある。というわけで、私が

本物の愛も、違いを無視するわけではないけれど、違いは笑い話のように乗り越えられ、それにもかかわらず感じられる一体感があくまでメインだ。

 

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