奇跡のコース

コースの学習の進歩の度合いを測る方法?

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奇跡のコースを学習してて、どれだけ進歩したかを知るのは難しいですよね。そもそも、測るとか、比較するとか、すべて、自分からものを切り離し、分離しないとできないこと。あの人より、あの頃より進歩してる・・・なんて考えてたら、それこそ、エゴの視点ですよね。逆にあの人も、あの頃もパーフェクト。全て一体、無駄なものなんて何にもない!って心底思えることこそが、進歩のあかしってことになる。

それをずっとつきつめていくと、結局のところ、今、自分が幸せか、それも、状況に左右されない幸せ、心の平安を感じているかだけが、どれだけ進歩してるかの尺度になるってことになるのかな。それ以外の尺度はみんな過去からくる、エゴの視点ですから。唯一やってもいいジャッジメント、エゴによるものじゃないジャッジメントは、自分がどう感じるか、本当にしあわせかどうかだって、コースの中に確か書かれてたはず。というのも、それが、スピリットの視点からの誤差を知らせてくれるから。

あるいは、こう言ってもいいかも。あなたの周りに何があるかではなくて、どんなふうにその全てが見えるか。ものの見方、感じ方に出る。

具体的には、だんだん、世界は客観的に、自分とは無関係に、自分の外に頑として存在しているという見方が、ゆるしや学習が進歩するにつれて退いていくようです。

次第に、世界は自分の心を映し出す鏡、こちら次第でどうにでも様相を変える可塑的なものに見えてきて・・・。最終的には、すべてが自分の中にあると感じられるようになる。

ものがだんだん親しげに、なつかしく、自分と一体のものに見えてくる。まるでおとぎ話の世界にまよいこんだようです。「幸福な夢」とコースで呼ばれるものです。

そんなふうに、日々の体験が、少しずつ、そのトーンを変化させていく。そこにしか、本当の意味で進歩を測る尺度はない。何度テキストを読んだとか、ワークブックレッスンを何ラウンドしたというのとは、あまり関係ないみたいです。そういったノルマをこなすのも、過去からくるエゴの尺度ですものね。

世界は自分の外に客観的に存在しているのではないという気持ちが退くにつれて、それとパラレルに、まずは被害者意識や世界を告発したい気持ちが失せていきます。誰かや何かを変えたいという気持ちも失せていって、そのための努力もしなくなる。

 

人間関係に反映される進歩の度合い 「役柄」からの解放

人や世界を変えようとしても無駄。そんなふうにいうと、ニヒリスムに聞こえる。でもそれこそ、相手を変える「近道」(こんなふうに言えるとすれば、だけど)のよう。

ディヴィッド・ホーフマイスターと一緒に活躍している中国人のコースの教師に、フランシス・シューという人がいる。彼女はずいぶん気の強い専横的なお母さんの追っかけに悩まされてきた様子。ディヴィッドと一緒に北京にレクチャーにいったとき、それこそ、ジョン・レノンとヨーコのような迎え方をされて、スピリチュアルなテーマで相談をしたいという人がわんさと押しかけて、てんてこ舞い。そんなときに、「私はあなたのお母さん」なんだから、時間をとって会いなさいといい、でも、「会って話すことといえば、家族親戚の噂話でしょ。どうにかしてくれ〜」という感じ。

でも、フランシスは、コース流に、「彼女を変えようとはせず、ただ、自分自身が完璧にコースの精神を日々実践する」に徹するようにしたのだそう。すると、時間はかかったものの、彼女の母親、会うたびに別人のようにふるまいだし、自分からコースも学びはじめ、今は、母と子というより、同志仲間。中国での彼女の活動のアシスタントのようになったのだそう。

相手を変えようとせずに、その分、こちらが心底変わる。すると、自分の現実すべてが「幸福な夢」の方へと変容していく、その一環として、その人も変わる。そんな道筋をとるようです。

「変えたい人」「変えたいもの」がまだまだある私には、とても勇気づけられる話だった。

それともう一つ、思ったのは、なぜ、実家に戻ったり、家族に会ったりするのを自分が重荷に感じてしまうのか。「母と子」「父と子」「子の義務」「長子の責任」「いい夫、妻であること」・・・そんな役割分担の檻に閉じこめられるのがいやだから。そうした役割を完璧に果たし、「いい娘」であることこそ、愛の表現だっていう思いこみがある。

もちろんそうした「役割」に縛られたセルフイメージは、エゴからくるもの。だから、その声に従ったところで何となく、嘘くさい。お芝居してる白々しさから抜けられず、本当の意味で喜びは感じられないし、愛も放射できない。だからといって従わなかったら今度は罪悪感にさいなまれてしまう。というわけで、家族親類に会うのは苦手ということになる。

だから、「親」「子」「妻」「夫」といったこの手の「役柄」そのものもどんどんゆるしの対象にして、解体していっていい。というより、そうすべきだというのは、私にとって、本当にありがたい話!

でもそれは、親を見捨てるとか、絆を断ち切ることを必ずしも意味するわけじゃない。

「役割」分担から解放されてはじめて、本当の関係がはじまるともいえる。

それには、「幸福な夢」の「反映」が見え始めるほど、エゴの仮面を解体していくゆるしに徹すること。そのときに感じられるガイダンス、心の声にしたがって、自由に動いてみること。

どんな関係が始まるやら、予測できないけれど、それもまた楽しいんじゃないかな!

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