アートとしての人生

人生のパーツを躍らせる?

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アートはギャラリーやホールや、イベントの枠組みの中だけでなく、人生まるごとを覆いつくすすべきだって、古今東西、いろんな人が唱えてきた。シャルル・フーリエ、ウィリアム・モリス、宮沢賢治、ヨーゼフ・ボイスなどなど。私にとってもそれは、生活信条になってる。かなり日常的でささやかなかたちだけど。

アートとしての人生とは、私にとって、生活の中で出会うすべてのものと、それに対する私の態度を、開かれた、自由なものに保ち続けることを意味する。

たとえば、なにをやるにしろ、「絶対、うまくやるぞ!」と力まない。「絶対にこれは必要なことなの!」といったヒステリックな執着を手放す。

というのも、「頑張らなきゃダメ」というこの手の強迫感は、「うまくいかなかったら、どうしよう?」という恐怖感とセットになってるから。あるいは、人にどう思われるかが気になる自意識過剰で身体がカチカチになってることも多く、のびのびとした自由がない。そんなときはたいてい視野狭窄にもなっていて、思いこみ、決めつけで、頭もコチコチ。クリエィティブで大胆なこともできようがない。また一方的、一面的にものを見ることしかできないので、知らないうちに、周りに負担や迷惑をかけていることもしばしばだ。

代わりに、「うまくいけば、それはそれでうれしいけれど、別にうまくいかなくても、死ぬわけじゃないし・・・基本的にどうでもいいことじゃないの?」と力を抜いてみる。関わる人やもの、とりわけ「どうしよう」とあわてる自分自身を手放し、プレッシャーから解放して、あそばせ、くるくる踊れるほど、自由にしてあげる。

するとそれは、玉虫色に輝いて、いろんな意味を帯びて見えてくるから、不思議だ! 全然違うやり方、違う方向からアプローチしたくなったり、手元にあるゴミみたいに役立たずだと思ってきたものが、意外にも、大活躍して解決に導く鍵だってことが判明したり。また、そうやって仕事を進めるプロセスの全体が、私の、また一緒に仕事している人の心の奥にある、それまで気づかなかったさまざまな思いを万華鏡の様に映し出しはじめたり、みんなが抱えた問題を癒しはじめたりと、意外なことが次々と起き始める。つまり、自由なもの特有の万能性を発揮し始めるのだ。

その発見の驚きのなかで、始めた当初の予定とは全く違うところに、どんどん押し流されていくハプニングと、自由を謳歌する。それでも全体をまとめよう、でも、不安や恐怖からではなく、関わる全てに対する感謝と愛情から、みんなハッピーになるようにまとめようとすると、いつの間にか予想以上のことができてることもしばしば。何よりこのやり方だと人生とても楽しいし、マンネリにもおちいりようがなくて、日々新鮮。何より、大胆にものを組み替えるクリエィティビティを発揮しながら、最終的には(なるだけ)誰も傷つけない、非暴力の態度に徹することもできる。

いい加減にみえるけれど、本当にこのやり方で生き続けるには、人生に、人に、運命に対するとてつもない信頼感と、勇気もいる。そこから何が生まれるか、予想もつかない、開ききった、無防備な状態を維持しながら、あらゆる決めつけ、思い込み、ジャッジメントを解除して、コントロールしたい気持ちを抑え続けなきゃいけないわけだから。

「たとえ何が起ころうと、最悪、死んでしまっても、私は大丈夫。人生に悔いはなく、感謝があるばかり。だってこんなにたくさんの贈り物をさずかりながら、愛され、守られ、生かされているのだから・・・」と口ずさみながら、思いっきり、無茶苦茶な冒険をやること。これが私のアートとしての人生の今のところのイメージだ。

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