アートとしての人生

スピリットのガイダンスをクリアに聞くコツ

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アメリカのコースの教師の一人、ディヴィッド・ホーフマイスターのトークのビデオをみていて、スピリットのガイダンスをクリアに聞いて従うコツについて、ちょっと面白い箇所があったのでシェアしますね。ゲイリー・レナードはゆるしを重視するのに対して、ディヴィッドは、ガイダンスを重きを置いてます。もちろん、ゆるしあってこそのガイダンスですが。

たとえば、コースの学び方のアドヴァイスとして、コースを読みながら、次第に、コースを語るイエスの声と同質の声を自分の中に見つけていくことを、彼はすすめています。一行一行読みながら、「これってどういう意味?」って質問して、その後、答えが頭に閃くとしたら、それはその声からくるもの。

この声への信頼度が高まるにつれて、テキストやレッスンをするときも、本を手にして、たとえば、「今は、どこを学ぶべきですか?」とたずねて、閃いたところを開けたり、オラクルカードのように偶然出てきたページを開いて、学習するなんてことになる人も多いそうです。私もそれをやって、いつも同じ章ばかり開くので薄気味悪くなったこともあります。

便利でもありますね。どこでもついてまわる家庭教師がいるようなものですから。

また、「答え」と一緒に、その言葉が本当に意味してることを味わう体験もおまけがついてきて、学びが、何倍にも加速していきます。

すると自然に、コースの学習以外のことも、ホーリー・スピリットにガイダンスを求める習慣がつちかわれてきます。

ただ、ここでつまづくことも多いようです。というわけで、これまでは前置き、本題に移りますね。

ガイダンスをうかがっているのに、うまくいかない。あるいは、確信がもてないというとき、一番多いのは、ガイダンスを聞く前に、自分の方で答えを用意していて、そちらの(エゴ)の声を聞いてしまうこと。これを避けるには、まず最初に自分の願望を「ゆるす」必要があります。

もう一つ、もっと微妙なミスとして多いもの、私もいつもやりがちなのは、ホーリー・スピリットとして答えようがない質問をしてしまうこと。たとえば「幻想Aと幻想B、どちらを選ぶべきですか?」といった質問。ホーリー・スピリットは幻想から脱出する「ゆるし」、幻想に過ぎない「かたち」を超えて、一体感を感じられる領域を広げるのを助けてくれるためにいるわけですから。そんな風にたずねられても、困りますよね。

というわけで、エゴの前提、枠組みに閉じこめられて、質問していないか、気をつける必要があります。「うまくいかなかったらどうしよう?」と恐れているときには、たいていそのようです。

このミスを避けるコツは、やっぱりまず、ゴールをはっきりさせることだと思います。幻想に執着するため(「絶対成功するぞ!」みたいな)ではなくて、そこに頓着せず、そこを超えたワンネスの体験、心の平安を深めることがゴールなんだってはっきりさせる。ゴールは宝の山でも、職業上の成功でもなく、あくまで、安らかな心の状態。そんなふうに、はっきり針路を決めることで、ホーリー・スピリットのサポートも得られるわけです。

ただここで注意しなきゃいけないことがあります。幻想に執着しちゃいけないというと、「あれもこれも、やってはダメ」みたいにとって窮屈に感じてしまうことが多いですよね。財産や家族を捨てなきゃいけないんじゃないかって心配する人さえいる。実際は、全く逆で、ガイダンスとともに行動し始めると、仕事、家族、恋人、嗜好品など、生活の中のありとあらゆることが道具として使われはじめます。執着の対象であることはやめても、救済計画を実行するための道具箱として、意味を持つようになる。

実際、これをはじめると、ホーリースピリットがあらゆるものを、無駄なく上手にリサイクルするのに、みんなびっくりするようです。たとえば、アルコールやタバコというと、みんなネガティブなイメージを持つけれど、ホーリー・スピリットの目から見ると、みんな同じ幻想なので、中立的で平等。それを使って、誰かを救うように促されることさえある。つまり、何が役にたつか、何をしなきゃいけなくなるかは、予測もつかない。全く予想外のものが、予想外の形で生きてくるようです。ただ、そのすべては、幻想にしがみつくためではなく、幻想からみんなで抜け出して、ワンネスの現実に目覚めるために使われているという点で、いつも一貫してる。

つまり、ものを諦める、切り捨てるのではなく、徹底的に問うことだけが求められてるわけです。あとは思い込みを捨てて、前提を持たずに、柔軟、自由に動くことかな。そう言われると、ロボットみたいに聞こえるけれど、実際、とても楽しいです。それに、そもそもホーリースピリットは私の中の本当の私ですものね。

もう一つ役に立つのは、質問から、エゴが当然のこととして前提にしてることを、一つ一つ、外していくことでしょう。自分は何が自分のためになるのか、あるいはみんなのためなのか知っている・・・そうした決めつけなどすべて一旦、疑ってかかる。たとえば、「なぜこんなことが起こっているのか、これが何を意味するのか、わかりません。あなたの視点で、ここで本当に起こっていることを教えてください」とたずねたり、「自分が本当に何をのぞんでいるのか、ここで自分が何をすべきなのか、わかりません。どうぞ、教えてください・・・」という具合に、まずは不可知論者になる。そうやって、エゴの方で退くほど、力強いガイダンスがきます。

他にも、ガイダンスで動いているうちに、ナルシスティックなエゴ肥大症の罠にかかることも多いようです。

ホーリー・スピリットに従って行動すると、びっくりするようなことができることがあります。そんな経験から、自分には、何か「特別な」役割が与えられてるなんて思いがち。天命とか、神意、神による救いの計画の中での自分の役割を、スピリットにたずねるようにもなりますね。それ自体は正しいことなのだけど、エゴの特別性の支配下におちいる誘惑も強い。

だから、救いはちっぽけな「個人」のためにではなく、あくまで「みんな」の間で起こること、救済のための役割は、「個人としてのあなた」に与えられることはないことを強調しすぎることはないとも、ディビッドは繰り返しています。

つまり、「すべての人の癒しのために、今、自分をとりまく人間関係、状況全体の中で、私が今、できることを教えてください」というふうに尋ねるくらいがちょうど良いみたいです。

でも、ガイダンスに関して、一番大切なのは、ガイダンスが24時間、やさしく、いつも流れ続けている川があって、その気になれば、そこにすっぽり包まれて生きることができること。それはラジオの周波数を合わせるようなもので、ピタッと周波数が合えば、あとは、全身、好きな音楽にひたっていれるのに似てる。そうなると、もう、いちいち、「今、どう動けばいいか」質問する必要すらない。スピリットの流れの中を、静かに運ばれながら生きていくようなもので、迷うこともなくなるし、安心そのもの。多分、アトーンメント、贖罪のことを言ってるのですね。

周波数を変えるつまみは、心の中にあって、「それをかすかに、つまむだけでいいんだ」とディヴィッドは言って、いたずらっぽく、目を輝かせながら、片手の親指と人差し指、中指で、何かを注意深くつまむ仕草をします。

周波数が変わって、流れにすっぽり包まれると、すべてが透明になって、愛以外、何も見えなくなる。たとえ目の前で人が悪態をついていても、文字通りそれが「愛を求める叫び」に聞こえてきて、まるで、スピリチュアルなカイロプラクティショナーのように、さっと背骨の位置でも直すように調整したら、その人にもふたたびどっと、愛が溢れてくるってわかるんだ、とのこと。実際、彼のトークの後の質疑応答のもようを見ていると、まさにそんな感じ。そこで交わされてる言葉よりも、質問者の表情がどんどん明るく輝いて、笑い出したり、泣き出したり・・・

ガイダンスの流れの中に入るために周波数を変える、「つまみ」ですが、朝、寝覚めかけてうとうとしてるとき、わたしにも、「あっこれだ!」と、心の中に見つかることがあります。とっても明瞭で、つまんだり、外したりして、遊んでしまうほど。なのに、昼間、「つまみ!」と叫んでもなかなか見つからなかったり・・・試行錯誤が続いてます。みなさんは、どうでしょうか?

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