アートとしての人生

気分がすぐれないときの対処法 誰かをゆるし忘れてる?

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ゆるしが進むほど、しあわせを感じているのが、当たり前。私たちの自然な在り方だって少しずつ思えるようになります。けれど、それでも、わけもなく、気分がすぐれないとき、なんとなく、落ちこんでしまうときがある。私にもよくあります。

そんなとき、理由として考えられるのは、誰かを、何かをゆるし忘れてるってこと。それが誰なのか、何なのかをあらためて考えてみると、いいみたい。「ゆるし忘れてる」というのは、その人に対して腹を立てているだけにとどまりません。あの人のあんなところが、良くない。不十分、まだまだだって感じてる。教えてあげなきゃ・・・あるいは、大丈夫かしら? このままにしておくと、大変なことになる・・・って心配してる・・・というふうに、一見、愛情のかたちをとることもあります。とにかく、不十分、パーフェクトではないって思ってる人は、すべてまだ「ゆるし忘れてる」といっていい。

そんなふうに考えれば考えるほど、自分の気持ちも沈んでいきます。

そのすべてが、自分自身に対して感じてることを周りの人に鏡写しにして見て、その人たちに責任転嫁して押しつけてるだけってことですから! コースでいう「投影」のメカニズムです。

だから、そのすべては、「誰か」についての話じゃない。心のとっても深いところでは、「あの人」ではなくて「私」が、まだまだ不十分。このままにしてると大変なことになる・・・って自分に言い聞かせてるのと同じことになるわけです。無意識に止まってる分、催眠術のように働いて、ますます、そうなっていきます。すっかり落ちこんで暗い気分になってしまうのも、当たり前ですよね。

理屈ではわかるけれど、あらゆる人、あらゆるものが、いつもパーフェクトだって思い続けるなんて、頭がおかしくでもならない限り、無理って感じられるかもしれません。私もそう思ってきたし、ゆるしの実践をやりすぎて、バカになる危険を感じたこともあります(笑)。

でもそれは、原因レベルでなく、結果レベルでゆるそうとしているからそう思われるだけなんですね。

結果レベルでのゆるしとは、頑としてある(ように見える)事実をねじ曲げたり、目をつぶってまで、別のかたちで解釈し直そうとすること。それはかなり面倒な作業。コースでいうように、このやり方で、例外なくすべてのことをゆるそうとすると、ノイローゼになってしまいます。

原因レベルのゆるしはこれに対して、この現実という夢の中で、どんなに悪夢にうなされていても、夢から覚めてしまえば、全く平気ですよね。その「平気さ」を思い出す。あるいは想像すれば、自然にできることです。ただそのためには、枕元にい続けて、「これは夢だから、大丈夫。心配する必要はありませんよ。夢から出れば、みんな一つ。パーフェクトで、怖いものなんて何にもない。」というホーリースピリットの声をおぼろげにでも感じて、信頼する必要がある。

ここまではすべてコースに書いてあることですが、その他に原因レベルに立ち続ける方法として、私が個人的にやっているのは、「人生は舞台にすぎない」というシェークスピア流のイメージを持つことですね。ビデオなどを見ると、コースの大師匠、ワプニックさんもレクチャーでよく舞台のイメージを使ってらっしゃいます。

とくに、お芝居の後、舞台衣装などすべて脱いで、みんなで打ち上げして「乾杯!」などしながら、あの時、あなたが私をいじめるシーンはまさに迫真の演技。本気で悩んでしまったよ・・・などと話してはまた大笑いすることですね。

そうやって、いつもいつも、誰に会っても、何が起きても、「この夢から覚めた時には」「舞台の後の打ち上げでは」、今進行中のことをどう感じるだろうって思う。すると、真面目に受け止めるほうが変だって思いますよね。それが原因レベルのゆるしです。

夢から覚めた世界や、舞台の後の打ち上げパーティは、原因レベル、天国の不完全な比喩にすぎません。本当に天国のワンネスの世界に入って行く時には忘れられるべきものなのでしょう。けれど、とりあえずは、自分にとってピンとくる、そういうイメージを豊富に持って育んでいると、原因レベルでのゆるしが楽になるのではないかな? とにかく、習慣的にやっていると、だんだん、許している相手が、なんだかとてもなつかしい人のように見えてきたり、心に音楽が沁みてくるように感じることがあります。ほんのかすかな予感のようなものですが、原因レベル、天国から漏れてきてるものなのかもしれません。

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