ゆたかさからはじまる仕事

お金のゆるし

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ゆるしがとても必要だけど、ゆるすのが難しい領域がある。集合意識、社会構造が、ゆるせない状態をガチガチに固めているので、そこに降り積もった罪悪感を取り除くには強力なドリルで、まずは突入する必要があるようなところ。

たとえばお金。仕事。「食えるか!」といったサバイバルの不安がこってり染みついてる領域だ。

ゆるしは毎回、状況に即した、パーソナルなかたちをとる。以下は私がゆるしの実践をする中で気づいたことにすぎない。けれど、参考になる人がいるかもしれないので、記しておくね。

たとえば、あなたがどこかとっても眺めの美しい場所で、やさしく気遣ってくれる人たちがそばにいる様子を想像してみよう。その中には、いい香りの中で、心底リラックスできるマッサージをしてくれる人もいて、身体も本当に楽。ありあまるほどの美味しい食べ物、芳しい果物もたくさん目の前に並び、ゆたかで満ち足りた気分に酔いしれてる。最高の贅沢、ゆたかさそのものがそこにある。だんだん瞑想的な気分になってきて、目をつむると、「あなたはそれにあたいする!」という声が心の中にも響いてるのに気づく。「そう、私はこれにあたいする! 私の中のスピリットのゆたかさは無限大。これよりもっとすごいのだから。今はただ、これをうんと楽しみ味わって、感謝して、最高の気分に身を浸すことにしよう。いつでもどこでも、ゆたかな気分をまわりに放射することができるように!

その瞬間、お金のことを思いだす。自分はとても高級なリゾートにいることを思い出し、お勘定はどれくらいになるんだろうって気になりだす。こんなに分不相応な出費をしたことも後悔し始める。頭の中でお金の計算がはじまり、たちまち、瞑想的な気分は消えてしまう。

まあ、これが、よくあるお金との関係ではないだろうか。つまり、ゆたかさそのものの敵。「今」、最高にゆたかな気分でいても、お金のことを気にし始めた途端、それは「未来」の心配と、「過去」の後悔(あるいは後悔とまではいかなくても、ここで味わえたゆたかな気分のメリットと、多額のお金を払うことのデメリットの損得勘定の計算)へと分解されて、たちまち消えてしまうのだから。

といっても、悪いのは、お金そのものというより、そこに私たちが投影している欠乏へのおそれ。ゆるすことで、それも消すことができるって思う。

お金を払ったり、どんどん少なくなる貯金残高を見るたびに、欠乏の不安にさいなまれ、心配で青ざめている自分に気づき、それをやさしく、マッサージ台の上に乗せて極上マッサージでもしてあげるように、いたわってあげる。そんなふうに、ジャッジメントなしに愛情を向ける時、かならずそばにスピリットがいて、癒しの力を発散させてくれるから、次の瞬間には心配は消えているはず。

この瞬間、欠乏感がゆたかさの感覚に切り替わる。「明日食べられないわけでもないのに、これくらい払ったからって、罪悪感を持つなんてバカね」と笑い飛ばしたり、「あと10000円しかない!」が、事実はそのままにして、「まだ10000円もある!」と思えてきたり。「これっぽっちしかないので、財布の紐をしめあげなければ・・・」と思うのではなく、「これで、どんなにすてきなことができるだろう、あの人や、この人をよろこばせてあげれるだろう・・・」そんな気分に切り替わる。想像力をたくましくすれば(スピリットの翼に乗ると、簡単にできるはず)、その瞬間、冒頭に書いたような高級リゾートにいる気分さえ、味わえるかも。そう、私は最高のゆたかさにあたいする! この10000円はそのはじまり、ありがとう!って思えるようになる。

残高が少なければ少ないほど、それでもゆたかさをたっぷり味わうための筋力みたいなものがついてくる。これが鍛えられると、もう無敵。どんな状況でも満足して感謝できるようになるから。ガンディーは監獄の中でさえ、最高にハッピーだったという。少ない中にゆたかさを感じる、格好の、いい訓練のチャンスをもらえたと、逆境にも感謝して手を合わせたくなれば、あなたはもう上級者。これがお金のゆるしだ。

とはいえ、お金に私たちが投影している欠乏感はとっても根深い。集合的、文化的なものだからね。将来への漠然とした不安。期待のかたちをとっていても、「損することになったらどうしよう!といった不安に縁取られていることもある。でもだからこそ、ゆるし続ける甲斐はあるね。

そうやってずっとゆたかな気分をキープしていると、逆にお金に困ることもなくなる。よく、お金のことをいつも考えている人にはお金はこないというけれど、本当に、そうだと思う。

私自身がそのいい例。三年以上、これといった定収入はないのに、ちゃんと何とか暮らせてるし、自由な時間も、いい友達もたくさんいて、贅沢な気分も味わえる。

もちろん、定収入があったときにできた多くのことはできなくなってるのは確か。たとえば、庭園をながめられる高級レストランでゆっくりランチをするなど。だけど、それらは、多額のお金と同じで、ゆたかさそのものではなく、それがたまたまその状況の中でとることになった一つの「かたち」にすぎない。でも、ゆたかさそのものは、その場その場でいろんな「かたち」を取り得る。例えば、高級レストランで今はランチできなくても、都市部でしっかり稼いでいたときには、全然知らなかったゆたかさに囲まれてる。きれいな空気、湧き水、とれたての新鮮な野菜。何より自然がたっぷりな場所で、たっぷり自由な時間を楽しめること。高級リゾートに行けない代わりに、毎日がリゾートになったといえるかも。そんなふうに、常に新たな表現に臨機応変に心をひらいて、それを評価し、感謝していられるのも、特定の「かたち」、結果レベルではなく、原因レベルでゆたかさを味わえるから。

たくさんのお金がなかったり、高級なレストランやリゾートにいけなかったりするのを気に病むのは、ゆたかさを結果レベル、特定の「かたち」の中でとらえてるから。結果レベルに固執すると、不安や欠乏感が増すだけ。ゆたかさはどんどん遠のいていく。

ポイントは、ゆたかさの取る特定の「かたち」、結果ではなく、ゆたかさそのものという、それ自体はかたちにならない、かたち以前にあるもの、つまり現象の原因レベルにい続けること。難しい言葉を使ってしまったけれど、その場その場で感じられる欠乏感をゆるし続ければ、いいだけだ。ゆるした後、私たちがスピリットの中で感じられるゆたかさは、かたちのない、原因レベルのものだから。

そんなふうに、スピリットの中にいる時特有のゆたかな心の状態を、特定の「かたち」や「数字」や「理屈」にとらわれず、なまの「体験」として保ち続けることだけに全注意をかたむけていればいい。不断のゆるしあるのみ。

そうするだけで、自分のまわりの現実も、欠乏からは無縁になる。というと、神秘的な夢物語に聞こえるけれど、ちゃんと理由がある。

贈り続け、シェアし続けても減らないものは、スピリットのみ。スピリットがそこにないと、本当の意味で、シェアもできなければ、シェアしてもらいたい人を引き付けることもできないからだ。

たとえ話をしよう。スピリットについて、とても難しい講義を、延々とする教授がいる。すべては、スピリットに「ついて」の話だし、語られていることは全て正しく、間違ったことは一言も、言っていない。けれど、気づいてみるとみんないなくなってる。なぜか。そこにスピリットそのものは、ちっともみなぎっていないから。

これに対して、スピリットそのものがみなぎる場をつくるとどうかな? たとえば、難しい講義なんてやめて、思いっきり楽しいパーティをする。心を打つ音楽や、芸術あり。お話もあってもいいけれど、美しい口調で語られる話そのものがスピリットで満たされて、心を打ち、感動させる。気がついてみると周りにたくさん、幸せそうな顔をした人が集まってるだろう。なんの強制や義務感にかられることもなく。みんな平等で、自由。それぞれ、思い思いに楽しんでる。たくさん人が集まってくるだろう。

ゆたかになりたいのに、不安材料としてのお金のことばかり考えている人は、スピリットに「ついて」、スピリットそのものはそこに微塵も感じさせないような、退屈なレクチャーをしてる教授に似てる。

というのも、お金についての心配は、いつも、ゆたかさ「そのもの」ではなく、ゆたかさに「ついて」のものだから。冒頭にも述べたように、どんなにゆたか〜な気分に浸っていても、お金について心配するたびに、私たちはそれを、未来を心配し、過去の記憶に基づく損得勘定で台無しにしてしまうのだからね。

と同時に、ゆたかさを引き付けることもできなくなる。そこには実質的なゆたかさはないのだから。類が友を呼ぶように、ゆたかな状態にある人は、そんな人を引きつける。逆にちょっとでも、「私が興味があるのはお金だけよ」みたいな身振りを見せると、どんなにいいものを提供しようとしていても、みんなそれを察知し、警戒して、財布の紐をしめはじめる。ゆたかさ、欠乏感は、驚くほど伝染力を持つからね。これが、お金のことばかり心配していると、逆にお金はこなくなる理由だ。

実質的なゆたかさは、あふれるような感謝の気持ちや、取るより前に与えたくなる気前の良さ。それも計算づくで戻ってくるからやってるわけでもない。それだとエゴが優位にあることになるからね。純粋に人の面倒を見たくてたまらない、見返りも考えず、無差別に、ほとばしるような愛を振りまいてる人こそ、ゆたか。やはりスピリットの中にいないと体験できないこと。というわけで、そのためにも、欠乏感を感じるたびに、ゆるしを実践していたい。

ゆたかさあふれる場を作り、そこで動くお金は、欠乏感を背後にした取引の道具というより、もっぱら、協力、参画、愛の表現媒体、つまりゆるされたお金。ナウトピアの仕事は、そういうところに生息するのだろう。